【事件簿】


『Bの捻挫3』


 愚かな遊戯を愉しみすぎて、ホームズの目の色が変わったことなど気づきもしなかった。

「――客だ」

 握っていた手を怪力であっさりこじ開けられる。ホームズは勃起したままの自身を、べちんと叩いた。まさかと思われるだろうが、彼のそこは一瞬震えただけで出すものも出さずに萎え、主人の命令を聞く犬の耳のごとく垂れ下がった。

 半裸のままベッドを抜け出した。

 水差しで直接顔を洗って書類を汚したことに叫び、今朝の剃り残しを剃り血が出て叫び、タイにカフスにフロックコートにと左右の違う靴下を履いたことにまた叫び。

 その間一分だろう。ほとんど服を着たままだった私を差し置いて、あっという間に身支度を整えた。

 心中どんな気持ちでそれを見ていたか。私は顔を出した彼に早くしろと急かされ、ようやく起き上がると、煽られた隆起を無理矢理しまって、手を洗いタイを直した。

「来るぞ」

 ホームズが手を擦り合わせると同時に、馬車の停まる音や話し声が窓辺から聞こえた。

「ほら。さっきから通りを行ったり来たりしていた四輪馬車だ」
「――さっき?」
「馬の蹄に特徴がある。耳について離れないから、眠れずにいたんだ。あんなに躊躇していたならさぞかし面白い事件を持ってるに違いない!」

 ドアがノックされる前に出迎えようと、ホームズは開けた扉から素早く出ようとした。腕を掴んで強く引っ張る。ホームズは怒った顔で振り返った。

「事件だよ、ワトスン」
「耳に離れず。そんなことばかり考えていたのか!」
「僕は寝てない。疲れているのに君が起こそうとするから相手を」

 ノックの音にホームズが目線を泳がせた。私は苛立って首の後ろに手をかけ口づけた。手の甲でペシッと頬を叩かれる。

「退屈だから性欲に負けた。離してくれ」
「注射の替わりに僕を欲しているのか」

 冷めた声でのやり取りをよそに、ノックに続き声が重なる。ホームズは今度は私から目を離さなかった。

「――僕に仕事か恋愛を選べと言うのかね、ドクター」

 甘い雰囲気は微塵もない。腕を離せとは言われなかった。普段なら素直に離したかもしれないが、その日は違う。振り回されるばかりは理不尽だ。彼が一番に何を選ぶかなど知っている。

 それでも尋ねてみたかった。

 願いも虚しく、ホームズは私の手を掴んだ。訴えかけるような眼差しではない。冷静で機械の如く物事の判断をつける男の目だ。

 気圧されて退いたのではないが、諦めにも似た気持ちで腕を離した。

 ホームズはするりと部屋を抜け出し、行きますと声を張り上げる。私は踵を返して、窓辺に立ち煙草に火をつけた。紳士を一人、中に招き入れるのが窓から見える。馬車の作りからすると金持ちだろう。程なくして居間に入って来た。ホームズは男の外套を脱がした。

「ああ、ワトスン博士。貴方の著作を読んでこちらへお邪魔したのですよ」
「――」

 男は、挨拶も握手も拒み無言で煙草を吸う私に眉を潜めた。ホームズが、こちらへお掛けくださいと椅子を勧める。

 話に聞いていたのと違うと考えているのだろう。実際、普段の私はホームズと過ごすプライベートな時間と仕事の時間を完璧に分けていた。

 彼の影に徹して邪魔をしないことこそが役割であり、それ以外は無用だったからだ。私は部屋の隅で、彫塑のようにただ立っていた。

「今日私が此処に来たのは……」
「お待ちください」

 ホームズはじっと紳士を見つめ、観察を始めた。いつもながら仰々しい。袖口の汚れや不自然な汗から、物を書いてきた直後だとか持病があることを当てるのだ。彼のやり方はすべて知っている。

「先程まで手紙を書いていましたね」

 ホームズは顎に手をやって思案して言った。ところが依頼人は首を横に振った。

「あるいは日常的に物を書く仕事についておられる」
「いいえ?」

 紳士は困ったように私を見た。ホームズは彼と私の間を遮るように、こちらに背を向けて立った。

「汗をかいていますね。体の熱量に対して水分が空気中に蒸発する速度を上回っているからだ。かなり興奮していらっしゃる」
「ああ、これは。その、道端で撒き水をかけられまして」
「膝頭が白い。安物なので色が抜けたのでしょう」
「――チョークの粉です。大学の講師をしている」

 男の表情がかなり険しくなる。頼りにして来たホームズが目茶苦茶なことを吐き出すので、不安になってきたらしい。私の咳ばらいは無視された。ホームズは片手を上向けた。

「ところで今日、貴方は朝食を抜きましたね」
「チャツネバター炒めでしたが、ちゃんと食べて……」
「そんなはずはない。嘘をついても無駄です。奥さんが一晩中寝てないことを気に病んで、珍しく一口も食べていなかったでしょう」
「わ、私は独身だ」

 紳士は顔を真っ赤にして立ち上がると、帽子も外套もすべて持って、捨て台詞を吐いた。「こんな所に二度と来るか!」

 閉めた扉が激しく震えた。私は吹いさしを口から取って、ホームズを唖然と見つめた。ホームズは長椅子にばたんと転がり、はははと笑った。

「ワトスン、君のせいだぞ。全部外してしまったじゃないか」
「追い出すために……君はわざと」

 期待を込めて横目で見ると、ホームズは肩をすくめた。男の言い訳は苦しかったねと再度微笑む。

「彼は失せ物探しをしたかっただけさ。コートに袖と同じ毛染め整髪料の汚れがあったから、頭を梳いた手でポケットにそのまま入れたのを忘れたらしい」

 戸惑いを隠せず、説明を要求して顎をしゃくると、彼は仰向けのまま胸の上で手を組んだ。




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