昔のお話

 何も変わらない日常の中で、そこだけが私にとって特別な非日常だった。

 学生の時、私は「普通」だった。スクールカースト的には真ん中の真ん中。目立つわけでもなく、地味なわけでもなく。普通に友達がいて、たまに告白されたりして、彼氏もちょっとできて、本当に普通。
 楽しいのは楽しかった。自分の高校生活に問題が起こるとも思ってすらいなかったし、たまにちょっと友達同士のいざこざがあったってその時は夜も眠れないほど悩んだけれど今となっては可愛いものだったと思う。高校生活が退屈なものだとかそんな風にも思ったことなかった。
 一つだけ他のみんなと違ったのは、毎日放課後図書室で王子様のお守りをしていたことくらいだ。王子様?お守り?多分初めて聞いた人にはハテナマークしかないと思う。
 私の高校には絶対的な王子様がいた。彼の名は西園寺幸人。名前の通り、とても幸せな人だと思う。よく知らないけれどどこかの大企業のお偉いさんの息子で、容姿端麗、成績優秀、運動神経にも恵まれ、彼はいつも全生徒の憧れだった。
 完璧な言動。完璧な見た目。疲れないのかな、と遠目に見ながら思っていた。
 そんな彼と何故か関わりを持ってしまったのは私が図書委員として毎日放課後図書室にいたからだ。本が、そして図書室という空間が好きな私は毎年進んで図書委員に立候補し、誰もやりたがらない委員の仕事を進んでやった。主な仕事は放課後の図書貸出業務だ。基本的に司書教諭の先生がいるのだけれど、先生も色々と忙しく、しかも私は毎日来るのでそのうち信頼を勝ち取り基本的に仕事を任されるようになった。本を読みながら、たまに返しに来たり借りに来たりする人から本を受け取る。図書室にも常連さんというものがいて、大抵受付に来るのは見知った顔だった。
 だから、異色すぎる彼が図書室に来た時は結構目立った。

「心理学の本ってどこにあるかな」

 耳触りのいい声だと思った。多分音や声にも人間の耳にとって心地いいもの、不快なものがあって、この人の声はちょうど心地いいもののど真ん中にある。私は顔を上げて彼の顔を見て納得した。なるほど、綺麗な顔から出て来る声も綺麗なのかと。

「心理学は右側の列の5列目です」

 彼はありがとうと言って私の言った通りの場所へ行った。そして目当ての本を見つけたらしい、適当な机に座ってそれを読み出した。
 次の日も彼は来た。いつも彼は取り巻きの女の子や男の子を連れているイメージだったから、一人でいるのを見るのは珍しかった。図書室には幸い彼に興味本位で話しかける人もいない。彼は本に熱中しているようだった。
 次の日も次の日も、彼は一人でやってきた。二週間ほど経ったある日、彼が本を借りたいと受付にやってきた。本の題名は『人を思い通りに操る方法』。あ、この人ヤバイ人なのかもしれないと思った。
 それからも彼は図書室に通った。図書室の中で彼が異質な存在ではなくなってきた頃、いつもみたいな余裕を失った彼が私のいる受付に押し入ってきた。

「ごめん、ちょっと避難させて」

 受付は足元が見えないデスクだったので、彼はそこに隠れた。ふわりと花のような香りが漂った。いい匂い。
 しばらくするとドタバタと図書室に似つかわしくない大勢の足音が聞こえた。バンッと乱暴に開けられたドア。入ってきたのは彼の取り巻きだった。

「幸人来なかった?」

 そう聞かれた私は知らないフリをした。いいえ、と首を横に振ってすぐに本に視線を戻した。上手い具合に早く出て行けオーラと興味ないですオーラが出せたと思う。
 取り巻きたちはブツブツ言いながら図書室を出て行った。

「行きましたよ」

 足元を覗くと、小さくなっていた彼は安心したように表情を綻ばせた。よく分からないけれど、この人にもこの人なりの苦労があるようだ。

「申し訳ないが、俺の好きそうな本を持ってきてくれないか。まだ見つかりたくないんだ」

 私は彼の名前と顔くらいしか知らないけれど、いつも心理学の本を読んでいることは知っている。本棚から適当な本を選んできて彼に渡した。『人の心を読むための本』。彼は私の足元でその本に熱中していた。
 次の日から私の足元が彼の定位置になった。暗くて読みにくくないのかと思ったけれど、落ち着くらしい。誰にも見つからず、見られず、自分の世界に入れると。完璧な人にもその人なりの苦労がやっぱりあるのだと思った。
 図書室以外で会っても、彼は私に見向きもしなかった。もしかしたら顔を認識されていないのかもしれない、そう思った。私たちの間に何か会話があるわけでもないし、ただ私の足元のスペースを貸しているだけだ。彼はやはりいつも取り巻きに囲まれていて、その笑顔はキラキラと輝いていた。

「やぁ」
「こんにちは」

 私の足元に入って来る時の彼の笑顔もキラキラと輝いていた。よく分からない人だ。詮索する気もないけれど。
 初めて話しかけられたのはうちの近くのコンビニに休みの日に行った時だった。彼は私の顔を認識していたようで、私を見て少し驚いた顔をしてすぐに微笑んだ。

「やぁ」
「こんにちは」
「結城さん、この近くに住んでるの?」
「はい」

 名前も知られていた。どこで知られたんだ。そう思ったけれど、学年は違えど同じ高校なんだから名前を知る方法などいくらでもあるだろう。

「アイス奢ってあげるよ」
「え、何でですか」
「いつも匿ってくれるお礼」
「……はあ」

 少女漫画のヒーローみたいなウィンクを飛ばされて、それを全力で避けた。アイスはありがたく奢っていただいた。
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