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※《040_同属》の後日談です。



今日終わったら迎えに行くから。
電話越しの佐川はそう言って、終業間際のところを引き止めた。映画のビデオテープを流しながらケーキを食べる類の余暇は御破算になって、暇つぶし用に置いていたユゴーのページ数だけがひたすらに減った。いつになるとも告げなかったその姿が現れたのは、四時間以上経ってからのことだった。酒と香水の匂いをさせながら、いつになく機嫌がよかった。

初めて見る運転手が、いつもと同じ道を走らせる。道が混んでいなければ、大方10分ほどの話だ。到着点の簡素なホテルを佐川は気に入っていると評していたが、単にそれが私の価値なのだということは疑う余地もなかった。

「真島ちゃん、どうだった」

静かに尋ねられた言葉は、故郷の母を憂うような物言いだった。少し見ると、車窓からは短い周期で橙の明かりが差し込んでいる。おそらく佐川が聞きたい情報は二種類あって、それは店の売り上げか先日の戯れのどちらか。機嫌が良いのはグランドに寄ったからだという予想はついたが、真島からはどこまで聞きだしただろうか。

「どう、というのは」
「ヤったの? ヤってねぇの?」
「性行為には及んでいません」
「なんだよ。つまんねえ」

舌打ちの音がした。彼の性格を鑑みれば、飼い主と女を共有したなんて過去は怖気が走って然るべきだ。事実を伝えるわけはないと思っていたが、嘘が苦手な性分も知っている。どのみち、吐いていたところで罵倒されるのは私だけだ。真島との今後の関係を思えば、一番無難な回答だった。それにしても、久しぶりに嘘をついた。
不満げな佐川が指先を伸ばし、顎を捕えた。瞳の奥を通すように見られ、佐川の目が大きくなったり小さくなったり、妙な錯覚を起こす。表情を作らずにいると、軽く頬を打たれた。面白くないらしい。顎を掴み直されて相対したものの、乱れた前髪が邪魔だ。

「男の口説き方、ちゃんと教えただろ」
「はい」
「今までそんなことなかったよな」
「すみません」
「真島ちゃんだからって、手ぇ抜いたか?」
「まさか」

ここで泣けば、喜ぶだろうか。してやるつもりもないが、呆然と仮想した。曲がる角はあと三つきりなのだ。見窄らしい風体で廊下を歩けるほど、純粋ではない。真島はプライドの無さを非難してきたが、そんなものを捨てていればもっと楽に生きられたはずだ。佐川にだって、もう少しマシな扱いをされていたかもしれない。もっと早く捨てられていた可能性も否定はできないが。
無骨な手の力が抜かれ、勿体振るように首の方へと移動した。力は込められなかったが、触れられているだけで息が上がる。指先で腮を持ち上げられて、無意識に脊椎が伸びた。

「真島ちゃんもひどいよな
 折角ナマエが頑張ったってのに。可哀想じゃねえか」

白々しい。どう転んでも“惨めな女”のレッテルを貼るつもりだったくせに。色仕掛けをしても振られる世界線。飼い主の指示で男に抱かれる世界線。今更ながら、本当にくだらない人生だ。含み笑いをこめて喋る佐川の様子はいつにも増して不愉快に感じた。お前の価値なんてその程度だ。惨めで、可哀想で。言いなりになることでしか生きられない。不憫な女。長く時をかけて与えられた呪いは、初めて会った日の殺意を溶かすほどになっていた。
首元の手がゆっくりと緩み、また少し下がってデコルテを掌で圧迫された。腮に触れていた指先は、今度は左右の鎖骨を辿っている。次第に、この後の行為へとチューニングをしているらしい。呼吸を確認するように長く細く息を吐きながら、横目に向こう側の背景を見れば、最後の角を曲がったのだと知った。

「ま、いいよ」
「……すみませんでした」
「あんまりさ、お前を玩具にするなって怒られたしな」
「え?」

サイドブレーキを引く音と混じって、確信が持てる程はよく聞こえなかった。本当にその通り言っていたとして、それは真島の台詞だろうか。どの口が、そんなことを。同情なんて、また私が可哀想になるだけじゃないか。この男が、一層愉快になってしまうだけのことじゃないか。佐川の口元が笑っているから、多分、私は動揺してしまっている。
体が離れると同時、車のドアが外側から開けられた。外へと降りる直前、軽く振り返った佐川はとても清々しい顔をしていた。

「馬鹿。嘘だよ」

折れる、架空の音がした。
この後ひょっとして、私は泣いてしまうだろうか。




自牙 160731