「遅いよ、運び屋! 早急にって言ったでしょ!?」
『いや……そうは言われても、私にも私なりの事情が……』
「……?」
 まるでセルティに何かを依頼していたかのような臨也の口振りに、僕は首を捻る。
 そしてある可能性に思い至り、白衣のポケットに放り入れたままの携帯電話を取り出した。
『メール一件』
 そしてこのランプの色は、セルティからだ。
 セルティと臨也が何か話している陰で、僕は携帯を開いてメールを確認する。
『別の依頼が入った。すぐに済ませて帰る。待っていてくれ』
 そう文字が並んでいた。
「セルティ……」
 僕は思わず笑いがこぼれる。
 心が緩和するような感覚。
 きっと、セルティが言う『依頼』は臨也からなんだろう。
 それをわざわざメールで連絡してくれるなんて、なんて律儀な女性なんだ!
 流石、僕のセルティ! 些細な気遣いまで完璧だね!
「とりあえず、早くこいつをなんとかしてよ。報酬なら倍にして払うから」
 そんな僕を現実に引き戻したのは、臨也の声。
 臨也は強い口調でセルティに言うと、静雄を指差した。
 どうやら依頼の内容は、静雄君を追い払うことらしい。
 言われたセルティは、困ったように首を傾げた。そんな些細な行動も、実に愛らしい。
 暫く何か考える素振りを見せた後、セルティは静かに首を振って、PDAのキーを叩いて文字を打ち込んだ。
『悪いが、その依頼は受けられない。静雄を敵に回すつもりはないからな』
「は? ……なに、拒むの?」
 不服そうな顔をして、セルティをギロリと睨み付ける臨也。
『これは私には無理だ。どうしようもない。報酬はいらないから、諦めてくれ』
 臨也相手に丁重に断るセルティを、僕は心の底から尊敬する。
 可愛いし、大人っぽいし、しっかりしているセルティは、非の打ち所がないね。素晴らしいよ。
「なんなのさ、新羅といい、セルティまで……。ちょっとくらい助けてくれたっていいじゃん」
『充分助けてやってるつもりだがな』
 的を射たツッコミに俺は大きく頷く。
 だいたい、これは折原君と静雄君の問題なんだ。僕やセルティが巻き込まれるのは絶対におかしい。
 臨也は大きく溜め息を吐き出すと、鋭い視線とナイフの切っ先を、憎き宿敵である静雄に突きつけた。
「……またナイフか」
「俺の十八番だからね。つか……どうでもいいからさっさとどっか行ってよ。今回は視界から消えるだけで許してやるからさ」
「そのお願いは……聞いてやれねぇな」
「なんで?」
 臨也の矢継ぎ早な調子の問いに、一呼吸分の間を置く静雄君。
 静雄君はずれてもないサングラスを押し上げると、真っ直ぐな瞳で臨也を見つめ、堂々と言い放った。
「俺がいなくなって手前が生きていけるわけ、ねぇからに決まってんだろ」
 舞台役者のように、朗々と響き渡る、声。
 セルティなんか、持っていたPDAを落としそうになって慌てている。
 固まる僕と臨也。けど、殺傷能力抜群の言葉を発した当の本人は、特に悪びれた様子もなく、臨也を見つめ返すだけだった。
「…………………………は……」
 開かれたままの臨也の口から、一音だけが発音される。
「…………は……?」
 その、一音だけが。
「――はあぁぁあ!?」
 発音されたんだ。
「何寝ぼけたこと言ってんの!? 寝言は寝て言えよ! つか、寝言でも許されない範疇だよ、それ! 平和島静雄が死ねば折原臨也も死ぬっていう法則、いつ成立したってんだよ!!」
「その逆も然りだ」
「んなこと聞いてないしっ! うんうん、て……一人で勝手に納得されても――! ……ぁああぁあ……。あぁあぁぁあ!! もうっ! どうなってんのさぁ、これ!!」
 ヤケを起こしたのか、臨也がナイフを地面に叩きつける。
 キン――。という儚い音が耳を通り抜けると共に、臨也はコートのフードを力強く被り、現実逃避をするかのようにしゃがみこんだ。
 ――なんだ、臨也も可愛いところがあるじゃないか。これは意外な一面だ。というより、こんな臨也を拝めるのは今しかないだろう。是非、写真に収めたいな。……なーんてね。
 フードを握り締めたまま、地面に向かってブツブツと呪詛と思われる言葉を唱える臨也に向かって、少しだけ困った顔をした静雄がポリポリと頭を掻く。
「これじゃダメか?」
 何が。
 そう聞き返すこともなく、臨也は呪文を唱え続けた。
『シズちゃんなんて爆発しろ爆発しろ爆発しろ爆発しろ爆発しろ爆発しろ爆発しろ』という頭の悪い単語ばかりを連呼する臨也の声は、もはや一種のBGMであるかのような錯覚さえしてくる。
 静雄が、一歩前に出た。
「やっぱりこれじゃ、ダメなのか?」
 いたく真剣な顔つきで、
 一歩、
「こんなんじゃ手前には」
 一歩。


「伝わらねぇのか?」


「――」

         ―――――カシャン

「……」「……」『……』
 セルティがPDAを落としてしまうくらい、
 僕が顎を外してしまうくらい、
 臨也が電源の切れたパソコンのように動かなくなるくらい……
 僕らは頭の中を、白く塗り潰された。
 買ったばかりのキャンパスのような、
 空欄ばかりのテスト用紙のような、
 汚れ一つない、白、白、白。この白衣よりも眩しい、白。
 なんてったって、静雄が……
 膝を折って、
 臨也の頭に腕を回して、
 怖くて眠れない子供をあやすかのように、
 自動販売機や車を蹴り転がすことができる人間とは、到底思えないような優しい動作で、
 臨也の額に、キスを落としたんだから。
「……。……ぁえ? ……うーんと……。……。……何してんの? 君、シズちゃんだよね? ドチラ様デスカ?」
 後半の言葉に抑揚はない。
 臨也は子供のような無垢な瞳で、母親に『なんで五時に帰らなきゃならないの?』と訪ねるかのように、静雄を見上げた。
 しかし、行動は見た目と反したもの。
 臨也の右手には、コートの隠しポケットに忍ばせていたであろうナイフが強く握られていた。
 ……て……。……よく見たらそれ、海軍が使うジャックナイフじゃないか。
 そんな大形の折り畳み式ナイフを、いつの間に……。
「いてぇよ」
 どうやらこれには痛みがある(まあ、感想が一言であることからして大した痛みは感じていないんだろう)静雄君は、臨也から顔を離して小さく呟いた。
 けどその声は、相変わらず柔らかい。
「これね。つい最近仕入れたオニューのナイフなの。単細胞噴火予知不能自己中猪突猛進馬鹿男の君に……敬意を表して、これで殺してあげるよ」
 にっこりと。
 どこまでも満面の笑みを浮かべながら、どこまでも腹黒い科白をサラリと口にする臨也に、俺は身震いをした。
 臨也は一度、精神科に連れて行くべきだと思う。それぐらい、僕は臨也に人間ではない何かを感じた。
 静雄の左胸に宛がわれたジャックナイフ。
「いざっ――」
 このままでは本当に静雄を殺しかねないと判断した僕の頭は、条件反射のように臨也の名前を呼んだ。
 そうすることによって、臨也が正気を取り戻すかもしれないから。
 だけどそんな僕の声を、場違いな哄笑が遮った。
『し、しsss静雄!?』
 大口を開けて、高らかに馬鹿笑いをしていたのは、あろうことか静雄君。
 ようやく我に返ったらしいセルティが、落っことしたPDAを拾い上げると、ガタガタと震えながらキーを打ち込んだ。
 静雄君は、PDAを見向きもしない。
 清々しい表情で、嘘偽りのない面持ちで、
 空を仰いで、笑い続けた。
「……なんだよ。何がそんなにおかしいんだよ?」
 先ほどとは打って変わって、実に人間らしい不機嫌な顔つきで臨也が問う。
 静雄は、『いや、なんかさ……』と笑いながら言うと、堪えきれないのかクスクスと肩を震わせて、やはり笑うのだ。
「なんなのさ」
 怖い口調で、もう一度。それなのに静雄の口許は、締まりがない。
 自分の顔を見ては楽しそうにクスクス笑う静雄を、臨也は苛立たしげに睨み上げている。それでも静雄は笑うことを止める気配さえ見せない。
 臨也が醸し出す剣呑な沈黙を圧倒する静雄の笑い声。
 痺れを切らした折原君が突き付けたナイフを引こうとした時、それに引きずられるようにして、静雄が『お前ってさ』と、漸く言葉を発した。
 そして次に紡がれた言葉は――
「可愛いよな」
 ――……。
 ……うん……。
 精神科に行くべきなのは、静雄のほうかもしれない。




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