――『恋は曲者』という言葉を知っているだろうか?
恋は理性を失わせる。よって、恋の虜となった人間は常識では考えられない、とんでもないことをする恐れがあるって意味なんだけど、ご存知ないだろうか?
僕は今まさに、その言葉を具現化したような場面に直面していた。
それは――
「シズちゃん……いい加減にしないと、本気で怒るよ?」
「……うるせぇ。黙ってろ」
不倶戴天の敵である筈の折原君を、静雄君が穏やかな表情で抱き締めているんだか ら !?
憎さが余ってかわいさ百倍
♂♀
今日はのどかな日曜日。
僕はこの日を、何よりもどれよりも楽しみにしていた。
最近出張ばかりで慌ただしく、仕事に駆られる毎日だったから、家でセルティと一緒に過ごす時間が少なかった僕。
セルティ不足のせいで僕は家に帰るといつもヘトヘト。けど、家に着くとセルティがお出迎えしてくれるから、目の保養になってね。
……ああ、若干話がズレてしまった。ごめんよ。
そんなわけで、仕事もだいぶ落ち着いてきた今週、久々に二人で出掛けようということで、今日は仕事を入れなかったんだ。
まあ、入れさせなかっただけなんだけどね。でも、『先生』にだって休日は必要だろ? プライベートタイムも、仕事の一環さ。
僕とセルティ、二人っきりでお出掛け。=デート。
昨晩、ワクワクして眠れなかったよ。セルティにどんな服を着てもらおうか考えてるとね。
――そんな僕が今、どうして一人で街中にいるか。
……うん。それはね――
セルティ、仕事が入っちゃったんだよ……。
しかも依頼人は粟楠会の赤林さん。断るにも断れないでしょ?
だから今日のデートはなし。
なんだか仕事の内容は肩が懲りそうだったし、疲弊したセルティを無理矢理デートに誘うほど僕は鬼畜じゃない。
だから仕事が終わったら二人でゆっくりしようってことで話がついたんだ。
けど、こうなっては僕が退屈だ。
テレビを付けてみても韓流ドラマやら何やらで、私の興味を引くものはない。
ゲームだって、セルティがいなきゃ全然楽しくなんかないよ。
そんな僕が思い付いた暇潰し方法は、いたって単純なものだった。
『街に出掛ける』
ね、シンプルだろ?
街中なんて仕事の行き帰り以外、太陽が昇っている頃に歩くことなんて滅多にないから、なんだかとても新鮮だったよ。
僕の白衣を見て、振り返る人がほとんどだったけどね。
でも僕は、そんなこと気にしない。
これを着て電車に乗って、新宿の臨也の家まで普通に行けるしね。
臨也と言えば……最近あまり姿を見てないな。
相変わらず池袋には顔を出しに来ているみたいだし、俺行き着けの店・露西亜寿司にも、最低でも月に一度は来店してるらしいけど……。
そんなことをぼんやりと考えながら、特に行く宛てもなく池袋の街を放浪する。
適当に昼食を済ませて、セルティから連絡がないか、ひっきりなしに携帯を開くけど、何もない。
流石にやることがなくなってきた僕は、大人しく家でセルティの帰りを待つことにした。
そう決めて家路を探し始めた、ところで――
僕は彼らに、出会ったんだ。
――『恋の闇』という言葉を知っているだろうか?
恋をすると理性を失って、まるで闇の中に紛れ込んだように、分別がつかなくなるっていう意味なんだけど、ご存知ないだろうか? 恋路の闇とも言うよ。
特に誰かに訊いているわけではない。
でも、問わずにはいられなかったんだ。
例えそれが、俗に言う自問自答ってやつであったとしても。
家へ向かう途中、僕は一つの人集りを見つけた。
なにかのロケかな? っていう軽い好奇心で、群集を掻き分けて前のほうまで行ってみる。
もしかしたら静雄君の実の弟、俳優の羽島幽平君や、聖辺ルリちゃんの可能性もあるからね。
僕とセルティは二人の大ファンだから、もし二人のうち片方、あるいは両方のロケなら、サインを貰わないわけにはいかないだろう?
そんな妙な使命感があって、僕はそりゃあ真剣だったとも。
けど、僕の目に映ったのは、羽島幽平でもなく聖辺ルリでもない。
僕の目に飛び込んできたのは――僕の同窓生、二人の姿だった。
純粋に、驚いた。
あの静雄が、あの臨也のことを、愛しい恋人にするように、優しく抱き締めているんだからね。
しかも公衆の面前でだよ?
それこそ、僕は白昼夢でも見ているような気分だった。
これで臨也も静雄と同じように、穏やかな顔をしていれば、『なんだ夢かそうだよねハハ』で片付いたことだろう。
けど臨也の表情は、静雄の表情に反したものだった。
訝しげに目を細め、顔を顰め、明らかに怒っているのが見て取れる。
「黙れってなんなの。ふざけないでよ。さっさとくたばれ単細胞」
「手前がくたばれ」
「……あの……さ……。言ってることとやってること矛盾してない? 馬鹿なの? 馬鹿でしょ? 馬鹿だよね? ああ、馬鹿だったか。そっかそっか。そうだよねぇ」
「……」
「……なんで黙るの。そこはキレるとこでしょ? 意味分かんない。だから嫌いなんだよ、シズちゃんなんて」
「俺は手前のこと……好き、だ……」
「はあ?」
野次馬がどよめくのと同時に、臨也が柳眉を逆立てる。……本来、この言葉は女性に使うべきものだけど、今の臨也を表す言葉は、これが相応しいと僕は思う。
「なんなのさ、それ。最近おかしいよシズちゃん。昔俺が嫌がらせでシズちゃんに送った無意味なメールに、今更になって返信してくるし……。ていうか、メール残してたんだね。まずそこに驚きなんだけど? しかもシズちゃんからの初メールの内容が『好きだ』だからね。俺はてっきり、送信相手間違えたのかと思ってたよ」
淀みなく、一定の声のトーンで淡々と言葉を紡ぐ臨也。
他にも『最上階の俺の事務所に缶ジュースが狙撃してきた』だとか、『出掛けようとしたらエントランスのソファーにシズちゃんが腰掛けて煙草を吸ってて、それが怖いくらい馴染んでいたことに驚いた』と愚痴り始める臨也に、僕は思い切り苦笑した。
静雄君の壮大な、且つ、どこかズレたプロポーズ。
確かに臨也にとってそれは、大変迷惑な『嫌がらせ』だろう。
けどそれは、嫌がらせじゃない。立派な愛の告白だ。僕には分かる。
だって、静雄にとって臨也は、自分の力を使っても殺せない相手。つまり唯一無二の存在。二人は歪な相思相愛の関係だ。
その関係は何時何時、崩れるか分からない。
だから僕は、この光景を見てそれほど大きな衝撃は受けなかった。
驚いていないと言えば嘘になるけど……。
いつかこうなるような気はしていたからね。
静雄と臨也なんて、未来永劫嫌い合うか、晴れて結ばれるかのどちらかだから。
「今日だって人と会う約束があって、嫌々池袋まで来たってのに、見事帰りに俺を見つけて、その上散々追い掛け回した挙げ句……なんなのかな、これは……?」
「それは手前が……早く返事、寄越さねぇからだろ」
「だからノーだって言ってんじゃん」
「……」
「……ね、苦し……力……地味に……こめな……っ……抱き潰す気!?」
ああ、静雄……。
私は静雄の尊大な主我主義に目眩がした。
きっと静雄は、臨也が『イエス』と答えるまで、臨也を追い続けるのだろう。それが例え地の果てまでだとしても、だ。
静雄は臨也を絶対に追い詰める。
こうなっては臨也が折れるしかないのは、目に見えていた。
「シズ……ちゃ……眼球抉る……ぞ……このっ――……聞けよ平和ボケ静雄ッッ!!」
臨也が、怒鳴った。
あの、いつも余裕の笑みを浮かべている折原君が、青筋を立ててキレている。
これに驚いたらしい静雄君は、思わず力を緩めたのだろう。
臨也は猫のように体をしならせると、静雄君の腕から抜け出した。
そして間合いを取ると、威嚇だとでも言わんばかりに、ナイフを突きつける。
正直な話、僕も動揺した。
だって、臨也だよ? 臨也が感情的になってキレるところや怒鳴るとこなんて、古往今来、見たことがなかった。
……。それにしても……。
平和ボケ静雄って……。
「誰がぁ〜……平和ボケだって……?」
ああ、ほら、やっぱり。
これには流石の静雄君だって黙ってはいられない。
俺は、臨也が怪我をした時の処置方法を考えることにした。
軽い切り傷ならともかく……骨や臓器が潰れては、家の設備じゃどうにもならない。
相手は臨也だ。もし仮にそうなったとしたら、高額な治療費を容赦なく請求してやろう。
稼げるところで稼いでおかないとね。別にお金に困ってはいないけど。
「君以外に誰がいるのさ?」
また臨也は。そうやって火に油を注ぐことを言う。自ら死亡フラグを立ててどうするんだかね。
僕は首を横に振りつつ、怒りの化身と化したであろう静雄を見た。
そこで見た、静雄君の顔は――
「俺は平和ボケじゃねぇ」
とても、楽しそうだった。
「平和主義静雄だ、ばーか!」
――――――!!!?!?!!
「え……静雄……」
思わず声が漏れてしまった口を、僕は慌てて塞いだ。
だって。
だってだって。
静雄……君が気にしていたのは――
そこ……だったのかい……!?
「あ? ……新羅……?」
僕の声が耳に届いたのか、静雄が怪訝そうな顔つきでこちらを見つめる。
そして、なんで語尾が疑問符なんだろう?
そんな静雄とは対照的に、臨也は僕を視界に入れると、『助かった』とでも言うように、半ば縋るようにして駆け寄ってきた。
「新羅! あぁ、新羅。君に会えてこんなに良かったと思った日は今までないよ! 助けて新羅。シズちゃん、なんか、変。ついに頭が逝かれちゃったみたいだよ」
「いや、『機械が故障しました』みたいに言われても……。ていうか、さり気に言ってることヒドいよね」
僕のもとに駆け寄ると、臨也は僕の後ろに隠れながら、小さく呟く。
はて、困ったもんだ。
僕は今にも静雄の眼力で殺されそうだし、臨也は静雄が本気だと思っていない、思いたくもないらしい。
これはもしかしたら、死亡フラグが立っているのは私のほうのようだ。
「おい新羅、どけ」
「もちろん」
「ダメ! どかないで!!」
静雄のドスの効いた声にすんなりと肯定した僕の肩を、臨也が必死に掴んで止める。
その瞬間に、静雄君から『ブチリ』と血管かなにかが切れる音がした。
ああ、まずい。
僕は思う。
こうなるくらいだったら、大人しく家に居るべきだったと。セルティの帰りを待つだけにすれば良かった。
そして、セルティ。君に言いたいことがある――
僕はもしかしたら、もう帰ってこれないかもしれない……ってね。
静雄君が手近にあった街頭に手を伸ばすのが、スローで見える。
それを見た野次馬達は、一目散に八方へ散っていった。
臨也は僕の背中から離れない。
街頭に、ゆっくり力が篭められる――
ЪоOooЬvwWrRrЯяяя
そんなスローモーションの僕の世界を、バイクの音と馬の嘶きの音が、掻き乱した。
「!」
「!?」
「あ……」
不気味で獰猛な何かの音。
その音を引き連れ現れたのは、闇色の『影』だった。
「セルティ……」
少しだけバツが悪そうな口調で、ごもごもとある名詞を発音する静雄君。
呆然としていた僕の脳味噌は、徐々に感極まっていった。
『影』の存在を認識した僕の口許が、ゆるゆると弧を描く。
「セルティ!」
『! 新羅!? お前、どうしてこんなところに……!?』
愛しの彼女の名前を呼ぶと、彼女は驚いたように反応し、PDAの画面を僕に見せ付けた。
俺の中の死亡フラグが、陽炎のように薄れていく。
すると、臨也が漸く僕の背中から剥がれた。
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