テニスの王子様
隣の席の乾くん

 隣の席の乾くんは私の三十倍は賢いし、その倍は人間のことが好きだ。
 私が困ってる人にはなんとなく手を差し伸べたくなる程度の好きだとすれば、乾くんのそれは微に入り細に入り観察して四六時中人間のことを考えてなんとなくじゃなくちゃんと意味のある手の差し伸べ方をするレベルだ。
 すごいなあ、と乾くんの三十分の一の賢さの私は愚直に思う。

 乾くんは授業はとっくに終わったというのに(あの『乾』と大きく書いてある)ノートに顔を突きつけ一心不乱に人間を書いている。
 私の六十倍も人間のことが好きな乾くんが、私は好きだ。
 だからこそただ一定の動きでなんの面白みのない光景を、パンを齧りながらも休み時間の間中眺めているのだ。
 面白みのないというのは嘘だ。ノートに向き合う乾くんの横顔はかっこいいけれど、定期的に口が半開きになるのが面白い。筆が乗ってきたのか、ぐっと手に力が入る瞬間に浮き上がる血管が色っぽくて、何をそんなに必死になるのかと面白い。
 私の好きな隣の席の乾くんは、面白い。

「ミョウジ、何か用だろうか」

 機械のように動いていた手が止まり(私の視線はそこに注がれていたので、その手の主がこちらを向いたことを声をかけられるまで気付かなかった。)、乾くんは愉快そうに言った。
 面白い乾くんは、面白いことに私が言葉にする前に大概を予測している。残念ながら私は賢さが彼の三十分の一で六十倍人でなしであることのデータは中々下方修正されない。
 大概のことを予測して三割外す。大概というのは90%ほどなので、つまり、私の行動は四割ほど意表をつく。
 つまり私が彼を好きだということは、まだ切り札たりえている。はず。きっと。

「んや。乾くん、好きだなあと」

「前々から気になっていたけど。ミョウジ、最近言葉が足りなくないか?」

「そうかな」

「それだと、君が俺のことを好きだと思っているようにもとれる」

「ひどい、乙女の切り札をブラフ扱いとは」

 それでも六割は見透かされてしまう。なので私はいつだってこうやってふざけて、茶化して、心臓の音を誤魔化して、バレてしまいそうなジョーカーをわざと取りやすいようにする。

「確かに俺はデータ収集も、ドリンクの開発も好きだよ」

「お、流したね」

 そうすれば、こと恋愛に関してはちょっと型落ちのものしか対応していない乾くんは気付かない。
 何か隠していることはわかっても、それが恋心(恋心!なんてこっ恥ずかしい響きだ)だという答えにはあと四五年は辿り着かないだろう。そう、同窓会かなにかで再開した頃、私は言うのだ。「私あの頃、乾くんのことが好きだったよ」と。乾くんはあの眼鏡の奥で少し目を見開いて、それから優しい声で「気付いてた」と見得を張るんだ。

「ミョウジ、おいミョウジ」

「おっと」

「君はもう少し、俺との会話を大事にする気はないか?」

 すぐにあっちこっちと考えが飛ぶ私を、揶揄するように乾くんは喉を鳴らす。
 その笑顔に心臓がはねた。
 本当に、人間関係っていうのは難儀なものだ。みんながみんな手札を持っていて、切り札だったりジョーカーだったりを隠しているが、何のゲームをしているのかはてんでバラバラ。たとえ同じでも、分からないのだから。
 ――私はババ抜きをしているつもりだけれど、もしかしてジジ抜きだったりしないだろうか。

「してるよー乾くん超超大事」

「だから言葉が……それで、俺を観察をした結果、なにか発見はあったか?」

 つまりは私の切り札と同じものを、乾くんも持ってはいないか。

「えっと、飲む?」

 そんな風に乾くんの三十分の一動く頭は期待してしまうのだから、恋は病というのは正しい言葉だ。六十分の一もまともに働いていない。
 私はため息をつきながら、水の入ったペットボトルを差し出した。

「そんなに口開いてた?」

「まだ飲んでないからいいよ、あげるよ。120円」

 私の三十倍賢くて私の六十倍人が好きな乾くんは、きっと手札も私より二十倍は多いんだろう。そこから私が望むものを引けるのは、一体いつになるのか。
 そんな日はくるのか。そもそも欲しいカードはあるのか。
 なんか違うだろ、というように首を傾げながら財布を探す乾くんを眺めながら、私はもう一度ため息をついた。

「何か悩み事でもあるようだな」

 百円玉と五円玉四枚を私の手に置いて、乾くんはペットボトルのキャップをひねる。

「悩み事、ですか」

 そう言えば、私と乾くんが話すようになったのもため息と悩み事のお陰だ。
 人間が好きでコミュニケーション能力の高い乾くんは、それまでほとんど話したことのない隣の席の女の子(私だ。)のため息も聞き逃さなかった。あの時も同じように、踏み込まないようにそっとドアをノックする軽さでたずねてきた。
 それは私にとってすごく新鮮で、すごくいいなあと思った。
 今も、同じく。

「……乾くんのその聞き方好き」

「どうも」

 照れくさそうにはにかまれると、胸がぎゅーっとなって好きの気持ちがいっぱいになって、今にでも手札を全て開示したくなる。
 私はこういう人間で、あなたよりずっと冷たく愚かな人間ですが

「あなたが、好きです」

 と。

「それが、悩みか?」

 ――アイヤー。
 乾くんの表情は声音と眉根と口からしか読み取れないのが不便だ。

「私なんか言っちゃいましたか」

「そうだな。あなたが好きですとかなんとか」

 驚いてるのだけはわかるが、そこからもう少し奥、せめて快か不快かだけでもおしえてくれないだあああああああああああああああああああ!

「わあ!」

「なんでミョウジが驚くんだ!」

「わあ! 言っちゃったね。すごい言っちゃったね。うわー。わー! わー……死にたい」

「落ち着け」

「わーああああああ、乾くんの十分の一でも落ち着きたい」

「そっちがそんなに慌てるから、落ち着いてしまったんだ」

 これでも驚いている。と頬を掻く乾くん。
 驚いてるのは知ってる!そこから!そこから先!

「とかより死にたい。うわ、辛い。どうしよう」

「落ち着けって」

 乾くんが笑い出す。笑いながら席を立ち上がって、私の背中をさすってくれる。そして開けたばかりのペットボトルを差し出した。

「ほら、飲んで。気分がいいからおごりだ」

 俺は君のように120円なんて言わない。と笑って、笑って、嬉しそうに、

「俺のデータでは、ミョウジからの告白は四五年後の同窓会だったんだが、思わぬ計算ミスだな」

 それは予想が裏切られた時の顔とは違う。いつもの乾くんは驚いた後、データを修正しなくてはというように眉をキリッとさせる。
 でも今の彼のしっかりした眉は、柔らかくハの字を描いている。
 この顔を、私は知っている。

「乾くん、私『乾って変わってるね』って言ったわけじゃないよ」

「え?」

「あ? いや、でも、だって、」

 はやくいつもの顔をしてくれないと困る。なにせ三十分の一の更に半分、驚きと困惑で更に二分の一しか私の頭は動いていないのだ。

「嬉しい誤算だ、って言ってるんだよ」

 これはジジ抜きで、押し付けあっていた『ジジ』はデータミスだって、思い込んでしまうから。

「いやでもどっちもデータミスって、これなんのゲームだったの……」

「すまん、それは初耳だ」

 私は事の経緯を説明して、その途中で告白(告白!)の恥ずかしさに顔を赤くした。
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