001

自分は中3で、そして今は12月上旬である。
たったそれだけの事がこんなにも焦燥感を駆り立てるだなんて、中学校に上がったばかりの頃は想像もしなかった。



ぶっちゃけかなり追い詰められていた。

はらはらと粉雪のちらつく中、今日塾で返されたテストの答案をコートのポケットで握りしめたまま、わたしは自分の家のすぐ近くで30分以上立ち尽くしていた。
 膝丈のスカートから伸びてる足も、手袋を塾に忘れてきた指先もとっくに真っ赤になっててびりびりと痺れるような冷たさで、わたしはまたごしごしと手で膝を擦った。

はぁ、と息を吐いても、喉の奥まで冷え切っているのか思ったほどは白くなかった。

「もう、だめかも」

何気なく言葉にすると、焦燥感がより重さを増して自分に圧し掛かってくるような気がした。

それは、ついさっき塾の講師に言われたばかりの言葉だ。

『この時期にこんな点しか取れないんじゃ、星奏は駄目かもしれんなぁ』

世間話みたいな軽さで言われたそれは、わたしの目の前を真っ暗にするには充分な威力で、気がついたらカバンと上着を抱えて家の近くまで走って来ていた。

早く帰ったらお母さんがどうしたのって言う。
そしたら嘘なんかつけないわたしは全部話してしまうだろう。
こんな点数のテスト見せて、先生にダメって言われた、なんて話したら、きっとお母さんがっかりする。

9年前お父さんが死んでから、パートをいっぱい増やして働いて働いて、わたしが好きな事できるように、好きな高校に行けるようにって塾に入る事も許してくれて、いつだって応援してくれるお母さんに、さっきの先生みたいに「駄目かも」って言われたら、きっと本当にだめになってしまう。

街灯に照らされるローファーの爪先を見つめる視界が、じわっとぼやける。


「真衣ちゃん……だよね?」

急に後ろから名前を呼ばれて、びっくりして振り返るとお隣の王崎さんちの一番上のお兄さん――信武さんが少し離れた所に立っていた。

「どうしたの、中に入らないの?」

優しい声でそう言われた瞬間、顔が一気に熱くなって、両目から涙がぼろぼろと流れ出した。

「ふぇっ……ぅえ゙えぇぇ…」

口から嗚咽まで零れて、わたしはもう本当に、小さな子供みたいに泣いていた。

驚いた顔の信武さんが早足で近づいてきて、いつの間にかわたしの肩と頭にうっすら積もっていた雪をぱっぱっと払うと、とても優しい顔をして「おいで」と言った。

「うちで温かいものでも飲もう。」

そう言って、手袋を外して差し出された手を、わたしは鼻をすすってからうなずいて、きゅっと握った。



「おかえり… あら、真衣ちゃん?」

「ただいま。 そこでたまたま会ったから久しぶりに遊びにおいでって誘ったんだ」

レンズが曇ったのか、信武さんはポケットから取り出した布で眼鏡を拭きながら返事をする。
 小さい頃はよく遊びに来ていた王崎さんちの玄関は、記憶とは少し違っていて(きっとわたしが大きくなったせいもあるんだろうけど)でもそこに立ってる王崎のおばさんの不思議そうな顔は昔と変わっていないように見えた。

多分目もほっぺたもものすごく真っ赤になってるだろうわたしを一瞬見つめると、おばさんは何も聞かずに「ゆっくりしてってね」と笑って、台所の方に向かってぱたぱたとスリッパを鳴らして歩いて行った。

「お兄ちゃん、クッキーあるでしょあれ出したげたら?」

「そうだね。 真衣ちゃん、先に部屋に行ってて。 場所、覚えてるかな?」

「えっと、二階の、奥から2番目?」

実際には完全に鼻声で、「に゙ばん゙べ?」って感じだったけど、信武さんはそれを笑ったりせずに優しく微笑んで頷いた。

「そう。 悪いんだけど、ヒーターの電源を入れておいてくれるかな。」

「はい」

こくりと頷くと、信武さんはにこっと笑って、靴箱の横のスリッパ立てから取ったオレンジ色のスリッパをわたしの前に置いて自分も台所に向かった。

もぞもぞとローファーを脱いでスリッパを履くと、足の先がほわんと暖かい空気に包まれるような感じがした。
 玄関に置いてあるスリッパなんてそんなに温かいものじゃないのに、わたしの足はよっぽど冷え切ってたんだろう。

たしったしっと少し余るスリッパを鳴らして階段を上り、記憶を辿って廊下の奥に向かう。
うちよりも広くて奥行きもある王崎さんちはなんか特別な感じで、小さい頃は毎日のように遊びに来てたなぁ、と思い出しながら、奥から2番目のドアのノブに手を掛ける。

なんだか随分小さくなってしまった気がするそのノブを回してカチャリとドアを開けて、真っ暗な部屋の壁に手を這わせる。手探りで電気のスイッチを探し当ててぱちんと押した瞬間、目の前が真っ白になってわたしは眩しさに目を細めた。

明るさに目が慣れてから、やっぱり記憶とは大分変わってる部屋を見渡して、壁際に見つけたヒーターのスイッチを押す。
ブーン、と音を立ててすぐに赤くなったヒーターから心地よい熱を感じて、思わずふぅと息を吐き出す。
遠赤外線ってやつなのかな、体の内側に染み込むような温かさが気持ちいい。
 しばらくヒーターの真ん前にしゃがみこんでいると、急にあったまったせいでじわじわと指先がむず痒くなってきたので、ごしごしと両手を擦り合わせてマッサージする。
やばい、しもやけになったらどうしよう。

「真衣ちゃんごめん、ドアを開けてもらえる?」

「うぇっ?」

一生懸命手を擦っていたわたしは、ドアの向こうから聞こえて来た信武さんの言葉に、無意識に鍵を閉めてしまったのかと思って慌てて立ち上がってドアに駆け寄ってノブを回す。
と、ドアは何の抵抗もなく開いた。

「ありがとう。 ここまで来てから両手が塞がってるのに気付いて焦ったよ。」

笑ってそう言う信武さんの両手は、片方にマグカップとクッキーの乗ったお盆、片方に何やらもこもこした布類が抱えられていて、わたしは慌ててお盆を受け取った。
そのままカップの中身をこぼさないように、綺麗に整頓されてる机の上に置く。
……なんでこんなに綺麗に片づけられるんだろ? コツを聞いてみようかなぁ。

振り返ると、信武さんは少し開いたドアの下に細い棒みたいなドアストッパーをはめ込んでいる所だった。
せっかくヒーターに暖められてる部屋に廊下の寒い空気入れちゃっていいのかな? 換気?

「よかったら、コートこれに掛けて。 それからこれ、母さんのだから大きすぎるって事はないと思うけど」

てきぱきと木製のハンガーを手渡して、手に持っていた布の中から厚手のカーディガンを広げて机とセットらしい椅子の背もたれに置く信武さんに、わたしはただただ恐縮して「すみません」と呟くように言う事しかできなかった。
 湿ったコートを壁にあるフックに掛けてもらい、ふわふわした手触りのカーディガンを着て促されるままに椅子に座ると、小さめの毛布みたいな分厚い膝掛けを脚の上にふわりと広げられ、白いマグカップを手渡された。 いたれりつくせりすぎる。

わたしが、熱々のホットミルクが入ったカップをふぅふぅ吹いていると、信武さんはクッキーが入った小皿をお盆から持ち上げて「よかったらどうぞ、頂き物なんだけどうちではあまり食べないから」とわたしの近くに置いてから、ようやく自分の黒いマグカップを手に取ってベッドに腰を下ろした。
中身はコーヒーのようで、信武さんが動いた拍子にふわりと香ばしい香りがミルクの甘い匂いと混ざる。
コーヒーだ。ミルクも入れないで飲んでる。やばい信武さんが超大人。

そうだよね、もう6年以上、たまたま会った時に交わす挨拶の付き合いしかなかったんだからその間に色々変わるよなぁ……信武さんも、下のお兄ちゃんたちも、多分わたしも。

「……もしかして、ホットミルク苦手だったかな?」

その声にびっくりして、カップに向けてた目を上げると、信武さんがちょっと心配そうな表情でわたしの方を見つめてて、わたしはあわてて首を振った。

「いえ! 大好きです! カップがあったかいなーって思ってただけで!!」

「そう、ならよかった。」

ほっとしたように笑って、昔は冬によく一緒に飲んでいたからついそれにしちゃったんだよね、と懐かしげに言う信武さんはわたしにあれこれと尋ねる気はないようで、わたしはホットミルクを半分飲んでから、「あの」と小さく声を出した。

「ん?」

「あの……王崎さん、は、高校受験の事って覚えてますか?」

信武お兄ちゃん、と昔のように呼ぶのも恥ずかしいし信武さん、って言うのもおかしい気がするしで、結局苗字で呼びかける事にして、そのままおそるおそる尋ねる。

「高校受験か…そうだな、思い返すとけっこう昔のような気もするけど……。 そう大部分を忘れてはいないと思うよ」

「えと、じゃああの、質問してもいいですか?」

「おれで答えられる事なら、喜んで。」

にっこり笑う信武さんが『おれ』って言った事に少し驚いて(だって中学生の頃は僕って言ってた!)から少し考えて、とりあえず基本的な事から訊くことにした。

「えっと、王崎さんは、どこの高校行ってたんですか?」

「星奏学院の音楽科だよ。」

「ぇ!?」

驚いて思わず大きく体を跳ねさせると、両手の中でミルクがトプンと音を立てた。
慌てて膝掛けに零してないか確認してから、もう一度顔を上げる。
そういえば見慣れない制服を着てるのを見た覚えはあるけど、あれ音楽科の制服だったのか。

「わ、わたし、星奏学院の普通科が第一志望なんです」

「そうなんだ。 科は違うけど、先輩後輩になるんだね。」

少し嬉しそうに言われた言葉に、わたしは自分の顔が歪むのを感じた。
多分いま、生のままゴーヤ丸かじりした人みたいな顔してる。

わたしの表情の変化に戸惑ったように口をつぐんだ信武さんの困った顔から目を逸らして両手で持ったマグカップにまた目を落とす。

「…さっき、塾で、テストが返って来たんですけど……」

黙って聞いている様子の信武さんの顔はやっぱり見る気になれなくて、手の中でころころとマグカップを回す。 白い水面がくるくると渦を巻いた。

「95点以上取れなきゃ星奏は無理、って言われてたんだけどわたし、全然で」

ころころ、くるくるとカップを回し、ミルクが目まぐるしくたゆたう。

「せんせいが、ダメかもなって言っ…………」

最後まで言い終わる前に、またぼろぼろと涙が流れ出す。
カーディガンに落ちないように慌てて手のひらで拭うけど、どんどん出てきてあせってこれ以上流れないように両目を強くつぶった。その途端またぽろぽろと一粒ずつ涙が零れる。

不意に、ふわんと柔らかいものがまぶたに触れて、そのまま頬まで流れた涙を拭われる感触がする。

目を開けると、タオルを手に持った信武さんがわたしのすぐ前に立って見下ろしていた。 じっと見上げていると、信武さんはにこっと笑ってわたしの頬に指先で触った。

「頑張ってるんだね。」

小さな声で言われて、わたしはぎゅっと胸が潰れるような気がした。

「うん、…うんっ…でも、だめなの、 頑張っても、頑張っても、て、点が上がらなくて、おかっ、お母さん応援してくれてるのに、心配かけたくないのに、塾以外でも勉強してるのに、なのにっ……」

しゃくり上げながらそこまで言って、わたしは信武さんから受け取ったタオルに顔を埋めた。
 ずっと我慢していた弱音を吐いてしまった、という後悔と、やっと吐き出せた、という安堵で、わたしの涙は止まる様子もなくますます溢れてタオルを湿らせた。

「真衣ちゃん。 テストの答案、今持ってる?」

突然かけられた言葉に、不思議に思いながらも顔を隠したままうなずく。

「見せてもらってもいいかな。」

「こ、コート、の、右の…ポケット…」

「わかった、ちょっとごめんね。」

そう言った信武さんがわたしの後ろの壁に掛かっているコートに近づいて、ポケットの中からくしゃくしゃの数学のテストを取り出したのが気配と音で分かった。
 カサ、と紙を広げる音がして、しばらく静けさが続いてわたしは思わずぎゅっと体を縮めた。

「……なんだ。」

拍子抜けしたような声に、思わず顔を上げて信武さんを振り返るのと、信武さんがテストから顔を上げてこっちを向くのはほとんど同時だった。

「『全然』、なんてことないじゃない。」

「……え…」

「一番むずかしい引っかけ問題はちゃんと解けているし、間違えてるところだって少し勘違いしているだけだよ。」

ほらね、と言いながら差し出された皺だらけのテストを受け取って目を落とす。 95点には届かないし、間違えてるのはいつも苦手な傾向の問題だし、やっぱりだめな答案にしか見えなかった。

「……でも…」

「ほら、これが解けてるんだから、こっちもよく考えたら解けるはずだよ。」

信武さんの長い指で指された問題を「?」と首を傾げてしばらく見比べていると、突然目の前が明るくなったように感じた。

「あ!こ、これ、こういうこと?」

紙の上で指を動かしながら説明すると、信武さんが嬉しそうにうなずいた。

「あっ、じゃあこっちもちゃんと解けるかも」

間違えた問題を次々に指さして解き直していくと、なぜ今まで間違えていたのかと不思議になるくらいすらすらと答えが出てきた。

「わぁぁ……全部解けた!分かった!」

塾の講師に何度尋ねても分からなかった問題が、指さされただけで全部解けるようになるなんて、やっぱり信武お兄ちゃんはすごい!
 テストを抱きしめるようにしながら見上げると、すぐ近くに優しい瞳があって、なんだか嬉しくなってしまう。

「信武おにいちゃ……あ、」

思わず昔の呼び方で呼びそうになって途中で口を閉じたわたしを、少し首を傾げて信武……さんがしばらく見つめて、口を開いた。

「真衣ちゃんさえよかったら、またそう呼んでくれないかな」

「え、」

「正直言うとね、昔と違って他人行儀だなって、少し寂しかったんだ。」

思わず目を見開いて見ると、困ったような照れたような笑顔で見つめ返される。

「……しのぶ、おにいちゃん」

「うん?」

「信武お兄ちゃん、あのね」

「なに?」

「また遊びに来ても、いい?」

「もちろん、家族みんなで歓迎するよ。」

にっこり笑った信武お兄ちゃんの顔は昔と全然変わらなくて、わたしも久しぶりに思いっきり笑顔を浮かべた。




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