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「そういうのやめてくださいよ。タチ悪ぃっスよ」


迷惑だと言わんばかりに顔を歪めた年下の男は、カウンターで肩を寄せる年上の女に吐き捨てるような口ぶりで言ったが、しかしその薄い耳朶はじゅわっと赤く色づいて威圧のかけらもない。彼女は一言、「可愛い」とおかしそうに笑ってアルコールのメニュー表へ視線を落とした。

───お祝いしよっか。ふたりで。

お誘いというよりほとんど決定事項のような口ぶりだったから檜佐木はハイかイエスかしか答えられず、瀞霊廷の隅っこにある席数の少ない小さな小料理屋へ連れ出された。

(今さらなんだよ、俺が副隊長になってからどれだけ経ったと思ってるんだ)

檜佐木が副隊長に昇格したのは、ふた月前だ。入隊当初から面倒を見てくれていたこの女がいつ祝ってくれるのかソワソワし続けていて、そろそろ待ち疲れたというタイミングでようやく喉から手が出るほど待ち望んだお誘いを受けたのだ。内心ほっとしていた。だが、二つ返事で了承しそうなところをわざと渋って、悩んで、はあ…、と素っ気ない返事で肯いたのは、男なりの意地だった。
彼女が通い慣れたこの店は、シンプルだが高級感があった。常日頃からこういったところに出入りしているのだと初めて知り、なんだか、泣き出したい気持ちになる。可愛いだとか彼氏にしたいだとか散々毎日揶揄っておいて結局はなにも教えてくれないでいる女を批判したくなったが、とろんとした声で「檜佐木くん、次なに飲もっか」と尋ねられるとたちまち喜びに頬を緩めてしまう自分が単純で馬鹿らしくて、嫌だった。何より、テーブル席でなくカウンターを選んでくれたところも複雑だった。男として意識していたのなら、こんな距離で座らないだろう。檜佐木は余計に目つきを鋭くさせ、猪口の中身を乱暴にあおった。


「…同じので」
「ふうん」
「あの、マジでこういうのやめてください」
「こういうのって?」
「だから、…」


右手を掲げる。指を絡めて繋ぐふたりの手は、隙間なく密着している。彼女は悪戯っぽく笑って、檜佐木くんの手は大きいね、なんて平然と言ってのけた。


「軽い女だと思われますよ」
「そういうのきらい?」
「男なら誰にでもしてるだろ、あんた」
「しないよ。檜佐木くん以外には」
「勘弁してくださいって」
「ね、次のがくるまで、このままにしようか」


嫌だと言えば本当に離されてしまうと分かっているから、檜佐木はぶすっとだんまりを決め込んだ。しかし、握り返す度胸もない。そもそもこんなふうに触れること自体が初めてで、ふっくらとした皮膚の感触だとか冷えた指の形だとかが生々しく伝わって気が気ではないし、嬉しいような嫌なような、様々などきどきが胸の中で足踏みを繰り返している。バレないように演技をするだけで、必死だった。


「飲んだら、俺帰るんで」
「うん。わたしも帰る」


(帰るのかよ、まあ言い出したのは俺だけど)

引っ込みがつかなくなってしまった。訂正するのもダサいので檜佐木はそれ以上なにも言わない。というより、言えなかった。
すると、彼女が思いついたような声をあげた。


「お家といえば、副隊長になったらお屋敷もらえるんだってね」
「え?ああ、はい」
「引越し、大変だったでしょう。もう片付いた?」
「ある程度は………」
「檜佐木くんのおうち、見てみたいなぁ」


そこで、もしやと目を開く。
ふた月待たされた理由を何となく良いように理解して、胸が痛いほどどきどきと期待に騒ぎ出した。ああ、こんな女好きになるんじゃなかった、やっぱり乱菊さんみたいなハッキリした性格の女がいい、ちくしょう、なんでこんな女を。鋭利な檜佐木の表情が苦しげに歪む。毒吐いても後悔しても、それでもやっぱり年上の我儘で狡い女が好きで好きでたまらない。目が合うだけで嬉しいし、名前を呼ばれるだけで胸が熱くなる。叶わなくていい、近くにいられたらそれだけでいいと諦観していたにも関わらず、こんなことをされると、もしかして、と希望が顔を覗かせる。
檜佐木は波立つ心を落ち着かせるように細く息を吐いた。


「家なんか入れませんよ」
「だめなの?」
「だめですよ。さすがに」
「わたし酔っちゃったのに」
「全然酔ってねえだろ」
「檜佐木くんのケチ」
「そういう問題じゃ…」
「あ、じゃあわたしの家くる?」
「は?」
「決まり。ね。お祝いだもん。いいよね」


とろけるような甘い声で言われると、もう強く言い返す気も起きない。祝われる側の都合を無視した身勝手な女は得意げに笑った。
やがて新しいグラスが運ばれる。右手は繋いだまま、左手だけじゃ飲みにくくてしょうがないのに、早く飲み干したくて一気にあおった。反して彼女はゆっくりゆっくり飲むのだから、本当に本当に腹立たしかった。

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