月と星





 待ちに待った刻のカーニバルは、きっかり十三時に開始された。
 ミルクバー「ラッテ」は満員盛況だった。あまり広くないフロアを観客が埋め尽くし、入り口の階段から外まであふれ出す始末だ。
 集まった人々はほとんどがゾーラバンド「ダル・ブルー」のファンだろう。だが、前座として登場したゴーマン一座が、思いがけなく彼らの記憶に残ることになる。
 完成したグル・グルの曲とルミナのギターに合わせて、ローザ姉妹が新作の踊りを披露する。ミルクバーの外では、席を取れなかった人々のためにアカとアオがナイフ投げまでやってみせた。座長は舞台奥の暗がりで、涙をいっぱいにためた目でうんうんうなずいていた。
 自分のステージを終えたルミナは息を切らせながら座長に駆け寄った。
「座長!」
「よくやったな」
 ぽん、と肩を叩かれる。それだけなのにどうしようもなく嬉しくて、ルミナは満面の笑みで「うん!」とうなずいた。
 その時、ミルクバーの明かりが落ちる。人々のざわめきが落ち着いていく。そして舞台にライトが再び灯ったその瞬間、ルミナはただのファンになっていた。
 熱狂の中心でゾーラたちが次々と舞台に姿を現す。リーダーでキーボード担当のエバン、ベーシストのジャパス、ドラムのディジョ、歌姫ルル、そしてギタリストの――
「ミカウ!」
 彼女は人々に混じって歓声を上げる。のちに伝説と称されるダル・ブルーの特別公演がはじまった。
 最初の一音を聞いた瞬間、ああ本当に生きていてよかった、と思った。観客は皆同じ気持ちだろう。
 ダル・ブルーの新曲はグレートベイの波間のように落ち着いたテンポの曲だった。自然と体がリズムに乗って揺れるのが分かる。アンコール曲はもちろん、往年のナンバー・風のさかなだ。
 ルルの澄んだ歌声が最後の反響を終えるのを待って、観客は惜しみない拍手を贈った。
 夢のような時間が終わり、余韻に浸りながらミルクバーをうろうろしていたルミナは、客席にいる知り合いを見つけた。
「ゼロ! もー心配したんだよ。でもこれでみんな無事だったんだね、良かった良かった!」
 ゼロは申し訳なさそうに頭をかく。
「ごめん、オレ本当に寝坊助でさ……。でもルミナの演奏良かったよ」
「でしょ? まあダル・ブルーには負けるけどね!」
「嬉しそうに言うなあ」
 ゼロは苦笑した。
 そこに、リンクとチャットが戻ってきた。ルミナは首をかしげる。
「これでみんなそろった――と思ったけど、アリスがいないね」
 リンクは眉をひそめる。ゼロは寂しそうに笑った。
「アリス……なんだかずっと会ってない気がするな。確か大妖精の泉にいるんだよね?」
『そうよ』
 チャットが答え、リンクもうなずいた。
「迎えに行ってこい」
「いいの?」
「その間、俺たちは屋台を回ってくる」
 リンクがごく真面目に言うので、ルミナがくすくす笑った。
「あれーリンク、めちゃくちゃお祭り楽しんでるねえ。意外」
「俺にだってそのくらいの権利はあるだろう」
『当然よね、タダでミニゲームさせてほしいくらいよね』
「それはさすがに無理じゃないかなあ」
 にぎやかに街に繰り出す三人と別れ、ゼロは一人で大妖精の泉に向かった。
 北地区の草原ではボンバーズ団員が楽しそうに駆け回っていた。その中心にはスタルキッドがいる。いつの間にか仲直りできたらしい。ゼロのほおは自然とほころぶ。
 記憶通りの道をたどって大妖精の洞窟に入っていく。初めてここを訪れたのが、はるか昔のことのようだ。あの時、何も分からない自分の隣にはアリスがいてくれた。彼女はゼロの進むべき道をいつでも案内してくれた――
「こんにちは。アリス、いますか……?」
 奥にたどり着いて声をかけるが、泉はしんと静まり返っている。妖精珠すら浮かんでいない。
 しばらく待っても返事がなかったので、ゼロは諦めてきびすを返そうとした。その瞬間。
 いきなり背後に誰かの気配がして、ぴたりと彼の背にあたたかさが寄り添う。ゼロは後ろから回ってきた細腕に抱きしめられていた。
「え、だ、大妖精様……!?」
 淡く光るようなその肌は大妖精のものに違いない。ゼロの心臓は大変な音を立てて鳴りはじめる。
 背中から小さな声がした。
「ずっと黙っていてごめんなさい。私は聖地のことも、リンクさんのことも全部知っていたのに……」
 その声でさすがのゼロにも分かってしまった。
 最後の「一日目」にゼロが目覚めてからずっと、皆が何かを隠している様子だった理由、アリスが姿を見せなくなった理由――全ての答えに思い当たる。
 ゼロは大きく息を吸って、なんとか心を落ち着けた。
「キミは、鬼神の頃からの知り合いだったんだね」
 目を閉じればある光景が思い浮かぶ。鬼神の記憶にいた「大妖精」と、小さな青い妖精の姿がまぶたの裏で重なった。
「はい。ですが、私はゼロさんのことを――」
 震える細腕にそっと手を置いて、ゼロは振り返る。
 泣きそうなほどに顔を歪めた大妖精が彼を見上げていた。艶やかな長い黒髪に、晴れ渡った空色の瞳。思わず緊張が走るほど整った美貌だった。
 そこで、ゼロは思い当たる。
(オレが今まで大妖精様と会う度にドキドキしてたのって、もしかして……!?)
 苦笑がこみ上げてきた。フクロウの件からすると、ゼロの抱く不思議な感情は鬼神時代に原因があるのだろう。それには、敵意だけでなく好意も含まれるに違いない。
 鬼神さん、そういうことは言わないと伝わらないよ。
 ゼロはうつむく彼女の両肩に手をのせた。大妖精アリスはぱっと顔を上げる。
「オレは、キミといろんなところを旅して、とっても楽しかった。その気持ちはアリスも一緒?」
「はい……!」
 アリスは万感の思いを込めて首を縦に振る。ゼロは心の底から嬉しそうに笑った。
「そっか。良かったよ。あのさ、大妖精様って、ずっとここにいなきゃいけないの?」
「それは、その……」
 言葉を濁すアリス。彼女がそらした視線の先で、不意に水面が光った。
「いーや、そんなことないワ!」
「末妹の仕事くらい、私たちが分担してこなすので大丈夫です!」
 割り込んできた声はアリスの姉たちのものだった。いつの間にか会話を聞かれていたらしい。
「お姉さま……」アリスは赤面する。
 ゼロは「ありがとうございます」と泉に頭を下げ、アリスに向き直った。
「ねえアリス、たまにでいいから外に出ない? オレと一緒に、また旅をしてくれないかな」
「……はい」
 あたたかい涙のひとしずくが、二人の重なった手に落ちた。



「私も刻のカーニバルに行きたいです!」
 クロックタウンに迫っていた不気味な月が消えた。その一報を受けたデクナッツの王国は歓喜に湧いた。あの町と王国は商業的な結びつきがあるのだ。刻のカーニバルにやってきた旅人が沼の観光に訪れることもあるだろう――商魂たくましいアキンドナッツたちはそんな皮算用を働かせた。が、何よりもタルミナの危機が回避されたことがめでたかった。
 そんな中、デク姫は玉座の間で思いっきりだだをこねた。デクナッツ王はおろおろする。
「そうは言っても姫、クロックタウンはつい最近まで危険な場所だったのじゃぞ」
「もうお父様ったら分からず屋! あーあ、こういう時、あの子ならきっと賛成してくれたのに」
 執事がはっとしたようにデク姫を見た。姫は、いつも執事の隣にあった小さな影を思い出したのだ。幼い頃は一緒に城の外で遊んだ気がする。それなのに、彼がいついなくなってしまったのか、記憶は曖昧だった。
 何故だろう、とても最近彼に助けられた気がする。あるはずのない思い出を拾い上げようとするたび、デク姫の胸にはぽっとあたたかな火が灯るのだ。
「とにかく、町が落ち着いてからではダメなのか、姫……」
「はいはい分かりました」
 それならおサルさんに頼んででも連れ出してもらおう、と算段し、おてんば姫はほくそ笑むのだった。



「……コロ?」
 とても心地よい子守唄が聞こえた気がして、ゴロンの長老の息子は首をかしげた。この山の南――町の方角からだ。
 ゴロンのララバイではなかった。しかもメロディを奏でるのは声ではなく、鐘の音のようだ。
 それを老いた父親に言ったら、「クロックタウンの鐘の音が聞こえるわけなかろう」と一笑に付された。
「ダルマの兄ちゃんなら、絶対信じてくれたのになあ」
 あれだけ積もっていた雪が解け、ゴロンの里に春がやってきてから、長老の息子はもう泣くのをやめた。ダルマーニ三世のお墓参りにも行った。墓石を見ると改めて喪失感がこみ上げてきたが、墓場に沸いた温泉はあたたかくて気持ちよかった。
 長老の息子は一人で春の野を歩き、ゴロンレース会場に向かう。氷の溶けた池のほとりではカエルの合唱団が鳴いていた。彼らのうたう歌は、あの鐘のメロディと同じだった。
「お前たち、その曲知ってるコロ?」
 いい曲だコロ、と長老の息子はにこりとする。
 ドン・ゲーロという有名な指揮者であるカエルはケロケロと笑った。



「ミカウ?」
 人混みの向こうに恋人の姿が見えた気がして、ルルは立ち止まった。
 ライブを終えたダル・ブルーのメンバーは、カーニバルで盛り上がるクロックタウンを練り歩いていた。水色の肌を持つ彼らは当然周囲の注目を集めたが、カーニバルの慣習に則りお面をかぶっているため、おおっぴらに声をかけるファンはいない。
「どうしたんだよルル」エバンが振り返って不審がる。
「あ、ごめんなさい。気のせいだったわ」
 ルルが取り繕うと、ディジョがお腹をゆらした。
「それにしても、ミカウどこに行っちゃったのかなあ」
「本当に、ね……」
 ルルは目を伏せる。彼女の沈んだ様子に気づかず、ディジョは屋台を見つけて嬉しそうに駆け寄っていった。
 ミカウの末路を知っていて、それでもルルは彼の面影を追いかけてしまう。
 カーニバルの直前、グレートベイの浜辺を散歩していた時に、彼女はミカウの墓を見つけてしまった。墓標には「伝説のギタリスト・ミカウここに眠る」と刻まれ、愛用のギターが立てかけられていた。
 ルルは涙を流さなかった。何故だかずっと前からそれを予感していたのだ。
 ――ダル・ブルーのライブがはじまる直前になって、ミカウは幻のように姿を現した。ルルは彼に何も言わず、形見のギターを手渡した。
「ありがとうルル。あとは、オレに任せろ」
 彼はミカウの顔と声でそう言ってくれた。
 ライブの後、神妙な顔をした人間の子どもがいきなりやってきて、ミカウの顔にそっくりな仮面をルルに手渡した。そして何も言わずに去って行った。
 ファンのプレゼントにしてはおかしなものだった。ルルはその仮面を眺めるうちに、やがて確信に至った。ライブに来てくれたのは、きっとミカウの亡霊なのだ。そう、海の大妖精は「またミカウとライブができる」と言ってくれた。あれは本当だったのだ。
「なあ、ダル・ブルーのライブ行った?」
「中には入れなかったけどな。うちの母ちゃん、ずっと同じ曲ばっかり鼻歌でうたうんだよ」
 すれ違う子どもたちが口ずさむメロディに聞き覚えがあった。それは発表したばかりの新曲だ。ミカウとジャパスが協力し、エバンに内緒で考えていた旋律だった。
 どうしようもなくルルの胸にこみ上げる寂しさが、薄らいでいく。
(そうか……ダル・ブルーの曲ひとつひとつの中に、ミカウはいるのね)



 イカーナ王は困惑していた。
「おお、なるほどこれが本物の亡霊であるか!」
 古城の大広間では、白衣の男が興奮した様子で大声を張り上げていた。その隣には気まずそうな娘が付き添う。
 この親子は、朝日が昇ると同時に堂々と真正面からイカーナ古城に侵入してきたのだ。
『な、何者であるか!』亡霊兵士二人が慌てて王の前に出て武器を交差させたが、
「ワガハイは高名な亡霊研究家であーる。以後、お見知りおきを」
 男は偉そうにふんぞり返って挨拶し、戸惑う亡霊たちをしきりに観察しはじめた。どうやら盗掘しに来たわけではないらしい。
 王国の呪いは解けて月も消え、イカーナ王の悲願は果たされた。だが、彼が――鬼神を継ぐ者が帰ってくるまでは、しばらく彼岸への旅立ちを待つつもりだった。この親子の研究も我慢するしかないと割り切る。
 日差しに照らされた明るい大広間で研究家に迫られる王を、部屋の隅から四色の光が見守っていた。
「イカーナもこれからにぎやかになりますね」
「ええ。ゼロ様が来てくださる日が楽しみですわ」
「一体いつになるかしら?」
「その時は、あの大妖精との関係をたっぷり問い詰めないと……」
 幽霊四姉妹は顔を合わせて笑う。
「……あまりにも激しく歓迎されると、鬼神の彼も来る気が失せそうだな」
 と同じく部屋の隅にいたポウマスターはつぶやくのだった。



 カーニバル一日目を締めくくるのは、待ちに待ったアンジュとカーフェイの結婚式だ。
 刻のカーニバルの日に行われる結婚式には、親戚知人など関係なく誰でも自由に参加することができる。リンクやゼロは普段着での参加になってしまったが、二人を祝福する気持ちは誰にも負けていない。
 結婚式はクロックタウンの外、タルミナ平原で行われた。白いタキシードをまとった新郎は――ムジュラの呪いが解けて大人の姿に戻ったカーフェイは、穏やかな日差しを浴びながら静かに花嫁の登場を待つ。
 ルミナはなんとか最前列に並ぼうと人垣を押しのけ、そこに知り合いがいたことに気づく。
「あっクリミア!」
「ルミナも来てたのね」
 ロマニー牧場の姉妹は目一杯おめかしして参加者の列に並んでいた。生花を飾って編み込んだオレンジの髪の毛は姉妹でおそろいである。二人とも晴れやかな顔だった。クリミアが新郎カーフェイのことを好いていたことはルミナも承知しているが、今、クリミアの表情に影はない。
(なんだかんだあって、吹っ切れたのかな?)
 ルミナがこっそりにこにこしていたら、ロマニーが下からのぞき込んで「何で笑ってるの」と首をかしげる。
 その時、町の門からアンジュが姿を現した。人々はわっと沸き立つ。
 雪のように白い花嫁衣装はぴたりとアンジュの体に合っていた。ナベかま亭の従業員室に飾られていたものと同じとは思えないほど、輝いて見える。隣を歩く母親が誇らしげに胸を張っていた。
 アンジュはバージンロードをしずしずと歩き、その終点にいたカーフェイと見つめ合った。二人の顔が近づいていく。
 背負った風船で宙に浮かんだマップ売りが、手製の紙吹雪をこれでもかと舞い散らした。
「二人とも、おめでとー!」
 ルミナは花嫁の投げるブーケをクリミアと奪い合い、見事に勝ち取った。しかし、ブーケトスのいわれについてチャットから説明されたリンクに「誰か相手がいるのか?」と率直な質問をされ、存外ダメージを受けていた。
 カーニバル一日目は終わりに近づいていた。リンクは時のオカリナでエポナを呼び寄せて、
「俺はそろそろ帰る」
 とだけ仲間たちに告げた。
『エッ、もう帰るのか?』
『まだカーニバルは続くのに……』
 寂しそうにそう言ったのは、いつの間にか仲間の輪に加わっていたスタルキッドとトレイルだった。他は皆、なんとなく察していた。
 時計塔の入り口に、見送りの人々が集まった。中には結婚式を終えたばかりのアンジュとカーフェイもいた。
 月が消えてから初めての夜がやってきた。太陽が沈み、代わりに山の端に白っぽい光が顔を出す。人々は動揺したが、暗い空に上ってきたのは顔のない月だった。
 それは、リンクがアリスに頼んでタルミナに贈った新たな月だった。「ゼロさんのこと以外で何か願いごとを」とアリスに言われ、結局そうしたのだ。
 リンクは青い妖精にささやく。
「助かったぞ、アリス」
『いいえ。あなたにしていただいたことに比べたら……』
 あくまで謙遜するアリスは、大妖精だとは思えないほどに腰が低い。
 リンクは少し眉をひそめ、
「お前は、鬼神がゼロになっても良かったのか?」と小声で問う。
 アリスは凜とした声で答えた。
『どちらも私にとっては大切な方です。きっと鬼神様の中にもゼロさんはいましたし、ゼロさんが彼を引き継いでいる部分も多くあります』
 リンクは表情を和らげる。
「そうか。本人に伝えたら喜ぶぞ」
『……そ、それは、まだ、ちょっと』
 こそこそと会話する二人を、皆が不思議そうに見ている。
 リンクはエポナの首を軽く叩いて、
「ルミナはこれからどうするんだ」と芸人一座の少女に声をかけた。
「まだまだゴーマン一座と一緒に旅を続けるよ。来年のカーニバルこそは私のステージをお楽しみに!」
「ああ、期待している」
 ここで、ルミナの目から突然ぶわっと涙が出てきた。
「リンク、本当にタルミナを救ってくれたんだね。ありがとう。今でも十分かっこいいけど……十年、いや七年後が楽しみって感じかな!」
 ルミナは泣き笑いのような表情をしていた。
「その時もカーニバルに来てくれたら、歓迎するからね!」
 リンクはしっかりとうなずく。
 次はチャットの番だった。
『預かったデクナッツとゴロンの仮面は、必ず各地方に返すわ』
「ああ、頼む」
 そして彼女は、フェザーソードを背負ったリンク――結局大妖精の剣はゼロに渡したのだ――と旅の荷物を背負ったエポナを一瞥し、
『アンタ、これから一人で大丈夫なの?』
「別に平気だ。今までだって、タルミナに来るまでは一人だったんだから」
『本当かしら?』
 リンクは少しむっとして、「……お前は俺のなんなんだ。保護者か?」
『何言ってるの、相棒でしょ?』
 リンクは軽く目を見開く。チャットは彼と視線を合わせるように飛ぶ高さを調節した。
『アタシは何も言わずにいきなりいなくなったりしないわよ。スタルキッドだって、そのせいで面倒なことになったんだし。だから、好きな時に会いに来てくれて構わないわよ』
 リンクの唇が小さく動く。ありがとう、という言葉はほとんどが息となって放たれたけれど、その場にいた皆には伝わったようだ。
 スタルキッドが、トレイルが、アンジュとカーフェイが、去りゆく旅人に声をかけた。順繰りに仲間たちが言葉を交わし、最後に前に出たのは――
「リンク」
 ゼロが静かに話しかける。背丈の関係で目線は斜め下に向いているけれど、彼はリンクを見上げているような心地だった。
「なんだ」
 応えるリンクの声はいつになく穏やかだ。
「いつでも帰ってきて。タルミナはオレたちの……キミの故郷なんだから」
 リンクはたんぽぽ色の髪をなびかせ、冬空色の瞳を細める。そして口をぱっと大きく開けた。それは、今まで誰にも見せたことのない、でも彼にしかできないとびきりの笑顔だった。
「ああ。行ってきます!」



 白銀の髪が潮風になびく。ゼロの紅茶色の瞳はかすんだ海の彼方を見つめている。
「聖地とハイラルをつなぐ場所は、あの時計塔だけじゃないと思うんだよね」
 彼の視線の先には、海賊から借りた小舟があった。今にも出航の時を待つように、波間に揺れている。
 ゼロの隣には青い妖精がいて、同じように海を眺めている。
「その場所が海の向こうとは限らないけど。それでも楽しみだなあ」
『リンクさんは何を用意してくれているのでしょうか』
「なかったらオレがつくるよ。いつか帰ってくるリンクの故郷を、もっともっと素晴らしい場所にしたいな」
 ゼロとアリス、肩書きのない二人の前にははてしない世界が広がっていた。



「これが約束の品だ」
 歯車の回る規則正しい音がこだまする、時計塔の中。リンクがムジュラの仮面を手渡すと、お面屋はいつもの表情のままいっそう笑みを深くした。
「あなたは本当にいい仕事をしましたね」
 リンクは肩をすくめる。
「いい仕事、か。お前は一体なんなんだ。タルミナの――聖地の住民ではないな」
「ワタクシはただのお面屋ですよ。信じなさい、信じなさい……」
 まばたきする度にお面屋の姿はだんだん消えていった。リンクはもはやお面屋の正体を探るのも面倒になった。ああいう訳の分からない輩とは関わらない方が賢明だろう。敵対しなかっただけマシだ。神や魔王などとはまた違う、だがこの世の理には決して縛られない存在というわけだ。
 リンクはエポナにまたがり、ひたすら時計塔の中を奥へ奥へと歩いていく。
 かつてタルミナにはじめてやってきた時にくぐった扉があった。その前に行くと、触れもしないのに音を立てて開く。
 その向こうは薄暗い森だった。ハイラルの国境近く、禁断の森と呼ばれる場所だ。
 今、ここにいるのはエポナと自分だけ。すっかりタルミナに来る前に元通りだ。だが、今のリンクの胸には積み重ねた三日間の記憶が残っている。
 リンクは静かな森に佇み、ゼロが最後に残した伝言を思い出していた。
「ムジュラにやられて気を失った時、不思議な夢を見たんだよね。その夢に、時の賢者――ゼルダ姫っていう人が出てきたんだ。その人は『時の向こうでキミの友達と一緒に待ってる』って言ってた。友達っていうのはアリスみたいな青い妖精さんだったよ」
 リンクは人知れずほほえんだ。
 なんだ、ただ時を超えるだけでまた会えるのか。それなら簡単だ。今まで何度もやってきたことじゃないか。
(……だが、まずは帰ろう)
 生まれ育った森を訪ねて思い出話に興じてもいい。城に行って、幼い姫に今回の不思議な出来事を報告してもいいだろう。
 森の木々の隙間には夜空の真っ黒なキャンバスがあって、そこに月と星が輝いている。明るい光を放つ月にも負けず、隣には一番星が寄り添っている。
「あそこに俺が帰る場所があるんだな」
 リンクは夜空に手を伸ばした。エポナがうなずくように首を振った。
 長い旅路の果てに、時の勇者はいつでも帰ることのできる故郷を見つけたのだった。


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