月と星

エピローグ 新しい日


 この一ヶ月間、タルミナの人々を悩ませ続けていたあの月が、消えた。
 ロマニー牧場をはじめとする各地方に避難していた人々、それにクロックタウンにとどまり続けていた人々は、最初は信じられない思いでそれを眺めていたが、やがて誰ともなしに笑い声を上げた。近くの者をつかまえては、脅威が去ったのだと興奮気味に話し合う。誰の顔にも晴れ晴れとした表情が浮かんでいた。
 ――刻のカーニバルの朝だ。



『目が覚めた?』
 リンクが意識を取り戻すと、白い妖精が目の前にいた。視界の端に、予言の大翼と呼ばれるフクロウが飛び去っていくのが見える。
 彼は上半身を起こした。それだけでもう分かる。元の、子供の姿に戻っている。昨日からろくに寝ないまま戦い続けていたというのに、不思議と体は元気で、爽快な気分だった。
『アンタも案外お寝坊さんなのね』
 チャットがいたずらっぽい響きの声を出す。タルミナ平原は新しい日を浴びて朝露がきらきらと輝いていた。あの決戦からまだあまり時間は経っていないようだ。
 リンクは空っぽの左手を見て、荷物を漁った。だが、どこにも鬼神の仮面はなかった。
 ――そうか、とだけ呟く。
『ネエちゃん!』
 平原の向こうから、トレイルとスタルキッドが走ってきた。彼らの後ろにはぼんやりと空気に霞んだ四人の巨人たちが立っている。
「こいつら、オイラのこと忘れてなかったんだ」
 リンクのそばまで来たスタルキッドは嬉しそうに巨人を見上げた。ムジュラの仮面から解放された小鬼は素朴な顔をしていた。
 小鬼自身の話と鬼神の仮面から得た記憶を総合すると、スタルキッドは天界の出身ということらしい。彼もやがては神となるべき一人だったのだろう。天界が栄えていた当時、スタルキッドと巨人たちは友として仲良く暮らしていた。そして巨人たちは先に神として四方をおさめるためタルミナの各地に散っていったが、別れの際に何も告げられなかったスタルキッドは「友達に捨てられた」と思い、どうしても彼らを許せなかった。そのわだかまる思いにムジュラの仮面がつけ込み、力の依り代としたのだ。
 スタルキッドは巨人と妖精たち、そしてリンクを順番に見比べた。
「友だちっていいよな……へへッ。なあ、オマエもオイラの友だちになってくれるか?」
 リンクは薄く笑った。「ああ、構わない」
 二人は握手する。その拍子に、スタルキッドはずいっと顔を近づけた。
「ウヒヒッ……オマエ、森でオイラに歌を教えてくれた妖精の子と同じニオイがする」
「? それは――」
 リンクは何かを訊ねようとして、口をつぐむ。代わりに別の質問をした。
「そうだ、誰かムジュラの仮面を知らないか。あれがないとお面屋が怒り狂うんだが」
『僕ら、時計塔のてっぺんにいたけど……どこにもなかったよ』トレイルはスタルキッドとうなずき合う。
「仕方ない。大妖精にでも探してもらうか」
 それに、アリスには事の顛末を報告しなければならない。そのことを考えると、どうにもリンクの気は重くなる。
 彼がかすかに暗い顔をしたことに気づきつつ、チャットは尋ねる。
『アンタ、ムジュラの仮面が見つかったらすぐに帰るの?』
「急ぐ旅じゃない。カーニバルくらいは見学していくさ」
『なら、もうしばらく相棒を続けてやってもいいわよ』
 リンクは不思議そうに首をかしげた。
「スタルキッドや弟についていなくていいのか」
『何よ。カーニバル初心者のアンタが迷わないように案内してあげるって言ってるの! 素直に甘えなさい』
 リンクはふっと力の抜けた顔で苦笑した。
「そうか。それは助かる」
 何はともあれクロックタウンに戻らなければならない。エポナは結局ナベかま亭に置いてきたのだったか――とぼんやり考えていたら、蹄鉄が立てる軽快な音が近づいてきた。さすが賢い子馬だ、主人の戦いが終わったことを悟ったのだろう。町の方向からタルミナ平原を横切って一直線にこちらに向かってくる。
 リンクは愛馬に向かってゆっくりと歩いていく。チャットはその背中に小さく声をかけた。
『リンク。……ありがとう』
 妖精の小さなつぶやきをしっかり聞き取り、リンクはほおを緩めた。



「リンク、チャット! 良かったあ、本当に無事だったんだね」
 太陽が高く昇りはじめる頃、クロックタウンには各地に避難していた人々が列をなして逆流し、ごった返していた。どこもかしこも、先の三日間では見たことがないほどにぎわいに満ちている。そんな町中をリンクたちが若干戸惑いながら歩いていたところ、ルミナが真っ先に見つけてくれたのだ。ちなみにスタルキッドは「もうしばらく巨人と話したい」と言って平原に残り、トレイルもそれに付き添っている。
 ルミナは心底嬉しそうにリンクたちへ駆け寄った。その目にはうっすら涙が浮かんでいる。
「アリスがなんにも言わないから、みんな月と一緒に消えちゃったのかと思って怖かったんだよ、もう。
 それで、ゼロは……?」
 絶対にその質問が来ると分かっていた。なのにリンクは言葉に詰まった。
「実は、行方不明なんだ。大妖精に捜索を依頼する予定だ」
 かろうじて淡々と答えると、ルミナは残念そうに眉を下げる。
「そうなんだ……。でも、月の中ではリンクと一緒だったんだよね? 一緒に悪いやつをやっつけたんでしょ? 本当にすごいよね、みんな!」
 ゼロと一緒にムジュラと戦った。それは事実だが――チャットが心配そうにリンクを見やる。
「そうだ。俺も気づいたら平原にいたから、どこかに弾き飛ばされているかも知れないな」
 実際はフクロウに運んでもらったのだが。チャットはさり気なく話題を変える。
『そういえば、月の中でいやしの歌が聞こえてきたわよ。あれってもしかして』
 ルミナは得意げに胸を張る。
「そう! 大妖精様の探していた楽器って、時計塔の鐘のことだったんだ。それをわたしが演奏したの。……座長にもちょっと助けてもらったけど」
『時計塔の鐘を使うなんて、考えたじゃない』
「まあ、それもカーフェイに教えてもらったんだけどね」
『……アンタ、何かの役に立ったわけ?』
 チャットが鋭く問い詰めると、「分かんない……なんだろう」とルミナは真剣に考え込んでしまった。
 リンクはぼんやりそのやりとりを聞きながら、改めてルミナの横顔を見上げた。彼女の見た目はほんの少しだけゼルダ姫と似ている。もしもあの姫に何の試練も襲いかからなかったら、ルミナのように明るい性格になっていたのだろうか……とリンクは夢想する。
 彼は軽く首を振って会話に参加した。
「だが、カーフェイもゴーマン座長も、ルミナが行動しなければ三日目のクロックタウンにいなかっただろう。あの時のいやしの歌は助かった。感謝する」
 ルミナは盛大に照れたようだ。
「えへへ、そっかー、なら良かったよ。演奏者冥利に尽きるなあ」
 そこで、リンクがやや重い口調で切り出した。
「悪いが、俺はこれから大妖精の泉に行ってくる。ルミナとチャットはここで待っていてくれ」
『……分かったわ』「アリスによろしくね」
 リンクは気遣わしげなチャットにうなずきかけ、一人でクロックタウン北地区に向かった。
 特に施設もないためいつもは閑散とした地区だが、今は北の山まで逃げていた住民たちが続々と戻ってきており、門兵はその対応に大わらわだった。そこに自警団長のバイセンがやってきて素早く指揮をとり、スムーズに列が流れはじめる。人々を迎え入れるバイセンは生き生きした様子だった。
 一方、リンクの背後にある中央広場では、いそがしく大工たちが駆け回り、カーニバル実行委員長のムトーが刻のカーニバル開催に向けて最後の準備を行っていた。本来は今日の朝からはじまるはずだったカーニバルだが、月の接近や巨人の出現により町の一部が壊れ、そもそもバクダン屋を除く店舗はほとんどが昨日の時点で長期閉店していたため、客を迎える準備が整っていないのだ。だが人々は、今まで月に抑圧されてきた鬱憤を晴らすかのような猛スピードで準備を進めており、おそらく昼過ぎにはカーニバルも開催されるだろう。
 リンクは浮かれた人々の波をかき分け、一人でどんどん静かな方へと歩いていく。
 大妖精の洞窟に入る。ひんやりとした空気が頬を叩く。奥から力の気配を感じた。アリスは間違いなくこの中で待っている。
 洞窟の奥、神秘の泉の上には長い黒髪を垂らした女性が浮かんでいた。
『リンクさん。この度は、本当にありがとうございました』
 アリスは泉に足を浸して頭を下げる。リンクは首を振った。
「いや。お前やルミナの助力のおかげだ」
『そうですか。お役に立てて光栄です』
 リンクはやや視線をうつむけた。
「アリスは、タルミナがハイラルの聖地だということを知っていたのか」
 大妖精は長いまつげをそっと伏せた。
『ええ……私はこの聖地の内側の存在であって、ハイラルの――外側の存在ではなかったのです。ですから大妖精としてその情報を知り得ていても、口に出すことはできませんでした。本当に、申し訳ありません』
「いや、別に構わないさ。それでもムジュラは倒せたからな」
 リンクはどこか自嘲気味に笑った。アリスは表情を消して、
『ムジュラの仮面を倒してくださったら、あなたの願いを叶えるという約束でしたね。なんなりとお申し付けください』
「ゼロを復活させてくれ」
 リンクは即答した。それは、かつて別れた友に再会できる可能性を放り投げてでも選んだ答えだった。
 アリスは薄い唇を引き結ぶ。リンクは水面に視線を向けながらつぶやいた。
「俺の作った世界だというなら、どうして思い通りにならないんだ。大妖精ならなんとかできるんじゃないのか。お前だってあいつに会いたいだろう、アリス。だから……頼む」
 リンクの言葉はぽつりぽつりと泉に落ちて、岩肌に反響する。その手は血がにじむほど強く握りしめられていた。
 だが。アリスはぴしゃりと告げる。
『残念ながらそれはできません』
「何故だ」
 リンクの切なる問いが腹の底から発せられた。
 二人はしばしにらみ合う。先に均衡を崩したのはアリスだった。
 ふわり、彼女は花開くようにほほえんだ。
『その必要がないからです』
 リンクは目を見開いた。



 緑の香りを含んだ風が、乾いた谷の間を吹き抜ける。
 呪いから開放されたイカーナには、わずかながら生命が芽生えはじめていた。湧き水の洞穴が解放され、清らかな水が村をめぐり、潤いを取り戻した大地に新芽が顔を覗かせる。
 かつての王国を彷彿とさせるような生命の気配に満ちた薫風が、倒れた「彼」の白銀の髪を揺らした。
 鐘の音がきっかり十二回鳴った――ような気がして、彼は目を覚ます。
「ううん……」
 頭の奥の鈍い痛みを振り払うように首を振り、起き上がる。
「やっとお目覚めですか、ゼロさん」
 ぼんやりした焦点を合わせると、呆れたような顔の少女、ムジュラがそこにいた。
「うわ!?」ゼロは大きくのけぞる。
「人の顔見てその反応は失礼じゃないですか?」
 ムジュラはむくれる。月の中や、鬼神の記憶で見たままの姿だ。蜜色の長い金髪に、ゼロと同じ色の瞳、そして黒っぽいワンピースを着ていた。今の彼女からは敵意は感じられない。表情もいたって穏やかだった。ゼロと彼女は、イカーナを見渡す丘の上、そこに一本だけ生えた木の根元にいた。
 ゼロは混乱したまま尋ねる。
「お、オレたち、ついさっきまで殺し合ってたよね? それでオレは仮面になって、キミは真っ二つになっちゃったよね? えっと、ここって天国なのかな」
「安心してください、ちゃんとタルミナですよ。私たち、人でも神でもなくそもそも仮面なので、死ぬっていう概念がないんです」
「あ、そうなんだ……」
「まあ、あれだけ戦ったので今は一時的に力を失っていますが。お互い、この姿を保てるくらいには魔力が残ったようですね」
 言われてみれば、記憶を取り戻す度に増していた鬼神の力はどこかへ消えていた。自らの内面に思いを馳せてみれば、記憶の混乱も落ち着いたようで、今なら少し努力すれば鬼神の頃の記憶も思い出せそうだ。その件についてはゆっくり時間をかけて消化していこう、とゼロは思った。
 ムジュラは大きく伸びをした。
「あーあ、また負けちゃいました。もう完敗ですね。何をする気も起きないです。悔しいけど、私のことはもうお面屋に引き渡してどこへでも売り飛ばしてください」
 彼女は憑き物が落ちたような表情をしている。
 ゼロはおそるおそる、
「あの、鬼神のことは、もう諦めた感じ……?」
「はい。だってあなたが今さら鬼神さんになるなんて無理でしょう。私はどうしても彼に帰ってきてほしかったけど、無理なものは無理ですよ」
「そっか……。あのさ、オレたち、ちゃんと自分で考えて行動してるよ。タルミナはリンクにだけ都合のいい場所じゃないよ」
「そうかもしれませんね」
 イカーナ村を眺める赤い瞳は、もっと遠くのどこかを見据えていた。ゼロは少し息を吐いて、
「タルミナは、好きになれない?」
「ここはやっぱり私の故郷じゃないんです」
 彼女はもはやどこにも存在しない故郷に囚われ続けている。そんな彼女も、いつかは別の居場所を見つけられるのだろうか。自分たちは寿命なんて関係ない存在になってしまったのだから、きっとそうなるだろうと願いたい。
 ムジュラは噛みしめるようにつぶやく。
「私の帰る場所はどこにもない……か。でも、時の勇者が言ってたな。私が負けたのは考え方が間違ってたからじゃないって」
 ゼロにも、仮面となってリンクと共に戦った記憶がある。ある意味で、決戦の終わりにリンクがかけた言葉は、彼女の救いになっているようだった。
「私、イカーナを滅ぼしたことも、タルミナに戦いを仕掛けたことも、一つも後悔してません」
 ムジュラはすっと立ち上がり、丘の上からはるかイカーナの大地を見下ろした。その目線には懐かしさだけでなく、どこか愛おしさも含まれていた。
「きっと、戦いに勝ったら何もかもハッピーエンドになる、負けたら全部悪い方に転がるってことも、ないんでしょうね」
 滅んだイカーナだって全てがなくなったわけではない。少なくとも土地と記憶は残っている。王国の亡霊たちに見守られた土地に、いつか新たに生まれる命もあるだろう。
「イカーナはまた緑豊かな場所になるよ、絶対」
 ゼロが力強く断言する。ムジュラはほおを持ち上げた。
「そうなるといいですね。ま、あの大妖精が力を貸したらすぐに復活できるんじゃないですか」
 大妖精? とゼロは首をかしげる。
 向かい合う二人の頭に影が差す。太陽を遮ったのは、ばさばさ羽音をたててやってきたフクロウだった。
「お久しぶりね」
 予言の大翼に向かってムジュラは軽く頭を下げる。月と太陽は同じ空に昇れない――かつてフクロウにそう告げられたことを「悔しい」と言っていた彼女だが、そのわだかまりは解けたようだ。
 一方のゼロは複雑な表情で口を開く。
「あなたの言っていたことは、あくまで予言だったんですね」
「ああ、そうじゃな」
「すみませんでした。勝手にあなたを敵視してしまって」
 ゼロがフクロウに対して向けていた理由のない敵意は、かつての鬼神が抱いていた感情を引き継いだものだったのだ。フクロウが月と太陽の予言をした直後、死神ムジュラはイカーナを裏切った。だから、フクロウの発言こそがムジュラが凶行に走る引き金になった、と鬼神は考えていたのだろう。
「いいや、言葉が足りなかったのはワシの方じゃからな。すまなかった」
「何の話してるんですか?」とムジュラは首をかしげる。
「鬼神がキミのことを結構想ってたって話だよ」
 ムジュラは「えっ」と驚くが、明らかに嬉しそうな顔をしていた。
 フクロウはこの聖地の行く末を見つめ、導く存在として、仮面となった二人に優しいまなざしを向ける。
「神々の時代は終わった。そなたは、人々の中で生きていくのじゃな」
「はい、そうします」
 ゼロは晴れやかに宣言した。フクロウは面白がるように首を回し、飛び去っていった。
 それを見送り、ムジュラは何気なくゼロの背中の向こうに視線を移動させた。刹那、びくりと肩を跳ね上げる。
「ヒッ」
 突然引きつった声を上げ、彼女は一気に仮面の姿になった。ぽふん、と乾いた音を立てて仮面が草の上に落ちる。
「む、ムジュラさん……?」
 ゼロはおっかなびっくり仮面を拾い上げる。その背後からかすかな足音が近づいていた。誰かが丘を登ってくるようだ。
 ゼロは振り返る前に、仮面を持ったまま目の前の大きな木を見上げた。どこかで見た覚えのある木だ。かすかな葉擦れの音と迫る足音に耳を澄ませるように、彼は紅茶色の目を閉じる。
 軽い足音はゼロのすぐ後ろで止まった。
「本当に、ひどい寝坊助だな」
 幼さに似合わぬ氷のような声が背筋を貫く。ゼロの心臓がとくんと音を立てた。
「キミは――」
 振り返った先に、腕組みして仁王立ちする緑衣の少年がいた。
「リンク!」
 一瞬歓喜に湧いたゼロの心はすぐにしぼんだ。リンクは黙ったまま、盛大に眉間にしわを寄せていた。
「もしかして、怒ってる……よね?」
「ああ。かなり」
 ゼロは慌てて持っていた仮面を手渡した。
「ご、ごめん! あ、これムジュラの仮面だよ。お面屋さんに返すんだよね?」
 リンクは仮面を乱暴に受け取り、ふところにしまい込む。
「ふん。お面屋に渡す約束がなければ、俺がこの手で真っ二つにしてやったものを……」
 なるほど、ムジュラがリンクを恐れて反射的に仮面になってしまうわけだ。ゼロは心の中でムジュラの無事を祈った。
 リンクはまだ文句を言い足りないようで、口をとがらせた。
「この怒りはしばらく収まりそうにないな」
「お、オレに何かできるかな?」
 ゼロはひたすらおろおろしている。リンクはしばらくそれを眺めてからにやりとして、
「俺が満足するまで刻のカーニバルに付き合え」


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