最近、彼がそっけない。
獅子の王の名を頂く、見た目に反し随分と男前な性格をした刀。自身とは人でいうところの恋仲である彼とそういう間柄になってからというもの、任務以外の時を共に過ごすことも多かったのだが、最近の彼はどうにも必要以上に光忠のそばに寄らないようにしている節がある。
目もあまり合わせてはもらえず、名を呼んでも返事のないこともしばしばだ。それは本当に気付いていない場合もあるのだろうが、ほとんどが敢えてそうしているようだった。
自身は彼に避けられている。認めたくはないが、頭に浮かぶ限りの彼の言動がそれを許してはくれない。
ああ見えて年長者の彼である。私的な場面では己の意思を貫きながらも、いざ任務や必要なこととなるときっちり言いたいことを伝えてくるのだからちゃっかりしたものだ。ただ、やはり目を合わせてはくれないが。
彼の瞳が自分に向けられないことが、これほどまでに寂しいものだったとは。
まだたったの数日だというのに、もう何年も彼と触れ合えていない気がする。
掌に吸い付くような白磁の肌を思い出しそうになり、思わず漏れそうになったため息を、畑でとれた苦瓜で作った炒め物と一緒に飲み込む。きちんと下処理もしていて美味しいはずのそれは、どんよりとした心情が作用したのか妙に苦々しく感じられた。
続けて何に伸びるでもない箸を映していた視界の端。このところそればかり目にしている気のする金糸の尻尾が揺れた。
夕餉を終えた獅子王はもう部屋に戻るようだ。引きとめる理由もなければ、名を呼んだところで今はまだ喧騒に包まれるこの空間では、それを理由に気付かぬふりをされるだろう。
諦めの理由は幾つも浮かぶのに。
何もできないまま、こちらに一瞥もくれない彼が障子の向こうに消えてしまう。
賑やかで温かい場所から、静寂と月明かりの落ちる廊下へと、溶けるように。
「みっちゃん?」
「…ん?どうかしたかい?」
再び彼が戻ってくるかもしれないなんて思っていたわけじゃない。名残惜しむようにそちらを見つめていた光忠の耳に、自身を愛称で呼ぶ声が届く。
獅子王のことを気にしすぎている己を気取られまいと、何事もなかったかのようにそちらに目を向ける。
うっかり何か見落としてしまっていただろうか。不安にさせてしまっただろうかと、獅子王のこととなると他が見えなくなってしまう己を戒めながら。
光忠の懸念に反して、つい先日この本丸に顕現したばかりの太鼓鐘貞宗は、箸を口に咥えたまま小首を傾げている。
「貞ちゃん、行儀が悪いよ」
何が、とは言わずとも意図は伝わったようで。貞宗はハッとしたように箸を口から離し卓上に据えた。
素直な反応に笑みを溢す。彼は自身と同じで格好悪いことを嫌うから、こういう面では非常に従順だ。加えて、現在貞宗にとって光忠は教育係でもあるので尚のこと。
貞宗とは互いに「みっちゃん」「貞ちゃん」と呼び合う仲で、顕現したばかりでこちらの世にも人の身にも馴染みのない貞宗の教育係を光忠が任せられるのは自然なことだ。
元々この本丸では新しく顕現した刀には刀工や持ち主によって馴染みのある刀が教育係につくことになっている。知らぬ刀の多い中で馴染みの刀がいた方が安心できるし、相手の性質を知っている方がやりやすいこともある。
ただ、貞宗が顕現した際にはその場に立ち会っていた獅子王が真っ先に光忠を指名したと聞いている。例え獅子王が進言せずともそうなっただろうに敢えて言及したのは、同じくこちらに来たばかりの頃の光忠がよく貞宗の名を口にしていたからだろう。
「今はまだこうやってみっちゃんに世話かけてるし、来たばっかの俺じゃ頼りないかもしんないけど、何かあったら遠慮なく言ってくれよ」
「…ありがとう。もしかしたら近い内にお願いするかもしれないな」
「おう! どーんと任せとけ!」
食事の席での行儀作法はまだ少々危ういようで、何かわからないことがあって呼ばれたのだと思っていた光忠は、貞宗の口から出た言葉に軽く目を瞠る。
伊達に古い付き合いではない。詳しくまでは分からずとも、貞宗なりに何かを察しているのかもしれない。
貞宗は光忠の返答に満足したのか、愛らしい顔に快活な笑みを浮かべた。
その時を心待ちにしているかのようにうきうきとした面持ちで自身の手元に向き直り残りの料理に手をつける貞宗を横目に、こっそり苦笑を漏らす。
――寧ろ、頼りないのは僕の方だな。
こんな情けない己では、彼を振り向かせることなんてできやしない。
まずは与えられた責務を全うすべく、貞宗を立派に教育してみせようではないか。
決意も新たに、光忠はまだ半分も減っていなかった自身の夕餉に手を伸ばした。


「獅子くんおはよー! 」
「おう、今日も朝から元気だなぁ」
朝餉を終えて並んで廊下を歩いていた貞宗が、前方からやってきた獅子王の姿を発見して声を上げた。
腹が満たされていることもあってか精気に満ち満ちたその声に返った彼の声は、いつもより微かに低く、朝日に照らされた顔もまだ眠気を引き摺っているようだ。
うっそりと溢された台詞からは、彼が年長者であることを思い出させるような年寄り臭さが滲んでいる。
「おはよう、獅子王くん。なんだか眠そうだけど大丈夫かい?」
「ん、へーきへーき」
貞宗の後ろから覗き込んだ際に一瞬合わさりかけた瞳が、あと僅かなところで貞宗の方へと流される。
今日もまた、あの銀色の瞳が光忠の姿を映すことはないらしい。
諦めと慣れが心の中で混在してきていることが、光忠の不安を煽る。
「獅子くん年寄りみてぇ」
「十分年寄りだっつうの」
「いくら眠くても、朝餉はきちんと食べないと駄目だからね」
夕餉とは違い朝餉は各々でとることになっているので、誰が食べて誰が食べていないのか把握することは難しい。
獅子王は今から朝餉に向かうのだろうが、この様子ではまともに食べるか怪しいものだ。
自身の不安以上にそのことが気掛かりで、貞宗と獅子王の会話に割って入る形になってしまったお節介もまた、軽くあしらわれる結果に終わる。
「わかってるって。そういや、そっちは今から畑仕事だよな。だいぶ慣れてきたか?」
「慣れたっちゃ慣れたけど、まだ不思議な感覚が抜けないな」
「ま、俺たちは所詮刀だからな」
「飯が美味いのは最高だけどな! みっちゃんはやっぱりすげぇぜ」
「そうだな…」
眠さの残るゆるい笑みが、自分ではなく貞宗に向けられる。
こんな時なのに、その笑みを自分以外には向けないでほしいと思うのは、さすがに独占欲が過ぎるだろうか。
いつもならば光忠が褒められれば自分のことのように喜んでくれる彼の反応の違いに、いつまでも自身をみない瞳に。今は光忠の方がそんな彼をみていられなくて、そっと視線を床に落とす。
「わからないことがあれば教育係にちゃんと聞くんだぞ」
「獅子くんに聞いてもいい?」
「…気が向いたらな。そんじゃ、頑張っていってこい」
見えていなくても、笑顔でされているだろう会話は耳に届く。
本来ならば嬉しいはずの自身の大事な者同士の会話も、今は見せつけられているように感じられてしまい、心苦しいばかりだ。
獅子王がいて、貞宗がいて。それは光忠が待ち望んでいた光景のはずなのに。
「みっちゃん、俺たちもいこうぜ」
「、あぁ、そうだね」
顔を上げたそこに、もう獅子王の姿はなかった。
彼の去っていく姿を見たくなくて気配を追いながらも顔を上げなかったのも、後ろ姿ばかりで記憶を埋めたくなくて振り返らなかったのも光忠の我が儘で。
少し進んだ先で、彼がこちらを振り返っているなんて、思いもしなかった。


「光忠! お前の待ち望んでた相手がやっとお目見えだぜ!」
慌ただしい足音が近づいてきたかと思えば勢い任せに障子を開け放って姿を現した獅子王に、光忠は目を丸くした。
その勢いに驚いたというのもあるが、弾んだ彼の声が、こぼれる笑みが、本当に嬉しそうで。
つい見惚れてしまった光忠は、次いで獅子王が言っているのが貞宗のことだと気が付いた。
じわじわと喜びが湧き起こり、それを自分のことのように喜んでくれている目の前の相手への愛しさも相俟って顔が緩むことを止められない。
せっかく獅子王が呼びに来てくれたのだからと、早速主の元へ向かおうとしたところを引きとめられて、意外に思いながらも彼に向き合う。
「貞宗の教育係はお前だからな、光忠。嬉しい気持ちもわかるけど、しっかり面倒みてやってくれな」
言われなくてもそうするだろうけど、と近侍らしい風体をした彼が目を細める。
その言葉は彼からの信頼の表れのようで、光忠を奮起させるには十分だ。
「あぁ、任せてくれ」
「頼もしいこったな。…じゃあ、またな」
獅子王の手を煩わせることがないように、自身が責任を持って教育係を任されると胸を張った光忠に返されたのは、苦笑を交えた彼の声。
引き止めて悪かった。さっさと行ってやれ。態度だけでそう示した獅子王が、ひらひらと手を振りながら背を向ける。
よくよく思い返せば、その時点で彼の様子に僅かながら違和感を覚えることはできただろうが。その時の光忠は、早く貞宗の顔がみたくて、ゆっくりとした足取りで離れていく彼の小さくなっていく背を見送ることもしなかった。
貞宗との長い時を経た再会を果たし、次に貞宗を伴って獅子王に会った時には改めて光忠から紹介しようと思っていたのだが、その時にはもう彼の態度は今のようにそっけないものになっていた。
到底恋人だとは紹介できない空気に、身に覚えのない光忠は内心おおいに戸惑った。けれど、それを顕現したばかりの貞宗の前で表に出すことは憚られて、平常を装っているうちにどんどん機会は失われていった。
光忠と獅子王の関係を知らない貞宗からすれば、最初からこういうものなのだという認識で、多少距離があることを不審に思わなくてもおかしくはない。これまでにそこをつっこまれたことはなかった。
まともな会話のできない状況で、憶測だけが頭を回る。
ぐるぐると。あてのない考えを巡らせていると、小さな気配が隣に立った。
「眠れないのか?」
「少し、月をみたい気分になってね」
「そっか。俺もちょうどそう思ってたんだ」
あまり夜更かしはしない方なのに。珍しく起きてきたのは、光忠のことを気にかけてくれていた証拠だろう。
少し苦しいかと思われた言い訳につっこむこともなく、それにのるように頷いた貞宗が、光忠の隣に小さな体を並べる。
「静かなもんだな」
「ほとんどの刀はとっくに夢の中だろうからね。起きている刀たちも、こうして月を見上げているのかもしれない」
普段庭を駆け回っている短刀たちの姿も、主からの命で本丸内を駆けずり回る刀たちの姿もない、月明かりだけが満ちる夜の世界。
空っぽな風景は寂寥感が呼び起こされるようで不思議な感じがするが、夜目は利かずとも月は等しく寛大で、物思いに耽るにはちょうどいい。
「この前言ってたあれ、お願いしてもいいかな」
「もちろんだぜ。ほんとに話聞くくらいしかできないけどな」
曖昧な言い方ながら、夕餉の席でした近いうちに頼らせてもらうという話にすぐに思考が結びついてくれたらしい。いや、貞宗はきっと最初からそのつもりでここに来てくれたのだ。
光忠から切り出したことでその目に輝きが宿る。頼ってもらえることが嬉しいと、口にせずとも表現できるのは彼の美点だと思う。
「…こんなこと、貞ちゃんに聞くのはどうかと思うんだけど」
前置いたのは、なにも貞宗を軽んじてのことじゃない。
今からする問いが、顕現して間もない彼に聞くには少々不向きであると思ったからだ。貞宗も光忠の言わんとしていることは察してくれているだろう。真剣な眼差しで話に耳を傾けてくれている。
「貞ちゃんがもし、好きな人から距離を置くとして、それはどういう時かな?」
「そりゃあ、確かに俺には難しいな…けど、やっぱきら…」
「待って、それ以外で!」
真っ先にその答えがくるのは当然のこと。最初に一言添えなかった光忠の失態だ。
思わぬ力強さをもったそれにきょとんと目を丸くした貞宗の姿に、なんともバツが悪い心地になるが、今は誰の口からでもその言葉を聞きたくなかった。
「お、おう…じゃあ、バレたらやばそうな悪戯とか失敗とかをやらかした時、とか?」
「貞ちゃんまさか」
「違う!なんもしてねぇって、まだ!」
「…鶴さんに唆されても変なことには手をかさないようにね」
まだ、の部分が引っ掛かって釘を刺せば、あからさまに貞宗の目が宙を泳ぐ。
いったい何をやらかしたのやら。新たな厄介事が増えてしまった気配に頭が痛む。
それは後日改めて追及することにしようと心に決めていると、彷徨っていた視線がひたと戻ってくる。
「あとは、格好悪いところをみられて、相手にき…失望されたくない時とかか?」
「……」
それは予想だにしない意見だ。同時に、仮に光忠の方が相手から距離をとるようになるならばそれが原因だといえる。
なによりもまずその考えが浮かばなかったのは、単純に獅子王の格好悪い姿など想像もできないからだ。見た目繊細そうなあの刀は、いつだって凛として勇ましく、自身よりも余程男前だ。これに至っては、惚れた欲目もなくそう言いきれる。
「今の俺に考えられんのはこんくらいだな。自分から言い出しといてなんだけど、こういう話なら鶴丸とかの方が力になるんじゃねえか」
「いや、参考になったよ。ありがとう、貞ちゃん」
ついでに悪戯に関してもそのまま鶴丸に聞いてくれ。隠された意図が透けて見えるようだったが、相談に乗ってもらった手前この場で咎めるようなことはしないでおこう。
それに、貞宗の言っていることもあながち間違いでもない。
恐らく鶴丸ならば色々な意味で力になるだろう。だが、普段から飄々としてみせてはいても、他人のことを易々と言い触らしたりなどしない刀だ。
助言くらいならもらえるかもしれないが、自身よりも獅子王のことをわかっているのだとみせつけられるようで、今の複雑な心境ではより気が滅入りそうだ。
ただでさえ光忠から距離を置くようになった獅子王が鶴丸といる姿をよく目にするようになって、気が気ではないというのに。
他の誰が獅子王と仲良くしている姿をみても微笑ましいばかりなのに、現状での鶴丸はその枠の外。鶴丸が獅子王といる姿をみるだけで、心がざわざわと騒ぐのだ。
「…みっちゃんは好きなやつがいるんだな。そんで、今は何でか距離を置かれてるけど、相手もみっちゃんのことが好きなんだよな」
こんな話をすれば、気付かない方がおかしいというものだ。隠しておきたいならばいくら弱っていても仄めかすような相談を持ちかけたりなどしないのだから、知られて不都合はない。
むしろ知っておいてほしかった。
心の奥でそんな考えをもっていた己に、今になって気付く。
――あぁ、そうだ。僕は貞ちゃんに、自分には大切な相手がいることを知っていてほしかったんだ。
「そうなんだ。彼は僕なんかよりずっと格好良くて、初めて会ったときから目が離せなくて、僕の憧れでもあって。大事なんだ、すごく。…問題が解決したら、きちんと貞ちゃんにも紹介するよ」
「そっか。うん。みっちゃんが好きになった相手なら、俺もきっと好きになると思う。楽しみにしてるぜ」
意中の彼について語る光忠の話を眩しそうに聞いていた貞宗の自身を映す瞳が、静かな夜の中、星のようにきらきら輝いてみえた。
言ってしまったからには、やはり駄目だったなどという報告をするわけにはいかない。
もともと引く気などなかったが、これでもう完全に後には引けなくなったというわけだ。
彼の話をしたせいか、今すぐ会ってその華奢な体を抱き締めたい気持ちが溢れそうになって。そうできない手をそっと掴めない月に翳してみた。



next→










[*前] | [次#]





人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -