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それがすべてさ(シンドバッド)


南の楽園を同郷の仲間に譲り、別の仲間を引き連れて母国に戻って数週間。帝都・クシテフォンで商会の旗揚げ中、俺に声をかけたのはピピリカだった。

「シンド…失礼しました、会長」

「そんなに畏まらなくていいと言ってるだろ?」

元八人将で最古参の兄と故郷に帰らず新天地を選んだ妹は、シンドリア時代同様にジャーファルの部下として働いている。謝罪と裏腹に顔を綻ばせるピピリカに、事務仕事中のジャーファルと長机を一人で運ぶマスルールも作業を中断して彼女の元に集う。

「紋章の図案制作と制服への刺繍、パルテビアのナンバーワン刺繍職人に依頼できましたっ」

興奮を隠そうともせず声を張る会長室室長秘書に、野郎三人は完全に置いてけぼり。キラキラと目を輝かせるピピリカは、人生の半分以上をともにする俺らでも長らく見ていなかった。そんなに喜ぶことか、と自身の右腕に問うのは目を丸くした会長室室長。

「もちろんですっ!その刺繍作家は母子家庭出身なんですけど、自分の刺繍で稼いだお金で学校を出て、今では若者に絶大な人気を誇る作家になったんです。同世代の女性として私も憧れてるんです!…でも彼女が引き受ける仕事は依頼の一割未満!いくら前シンドリア王が会長とはいえ、組合申請前で商会としての実績は皆無なのでダメ元だったんです。そしたら即答に近い形で引き受けてもらえたんですから、誰だってこれくらい喜びますよ!制服だろうと刺繍された服を着られるなんて夢みたいで…」

「…」

早口で捲し立てたと思えば恍惚とするピピリカの勢いに、ジャーファルもマスルールも若干引いている。ピピリカの話を聞く俺の脳裏には一人の少女が浮かぶ。ゴンベエ・ナナシノは二歳上の幼馴染で、初恋の相手だった。しかし、すでにこの世にいない。

得意な刺繍で生計を立てようとしていたゴンベエにも、ピピリカの褒めちぎる職人と同じ未来があったかもしれなかった。蛍火のような儚い過去で感傷に浸っていると、次第にその感情は罪悪感に変わっていく。

俺の中で十六歳のまま生き続ける幼馴染を救えなかったのは、胸の内でずっと燻っていたことの一つ。しかし商会立ち上げのバタバタで、ここ最近は故郷の悲劇を思い出す暇もない。

「そういうことなので、打ち合わせの予定も詰めておきますね!」

晴れやかに宣言したピピリカは、二徹の疲れを微塵も感じさせない軽やかな足取りで会長室をあとにした。



翌々日。さっそく例の刺繍職人を連れてきた、と会長室の入口でピピリカが言う。打ち合わせの予定は寝耳に水で、俺の隣の会長室室長に目配せすると、「この時間が空いていたので」と彼はつぶやく。

右腕の言う通り予定はないし、わざわざ俺の空き時間に訪ねた職人を追い返す理由は何一つない。起立してから「入りなさい」とだけ告げれば、背後を向いて短い会話をしてからピピリカたちが入室した。

「失礼いたします」

ピピリカの背後から記憶にしか存在しない声が聞こえた気がして、初対面用の好感度百二十パーセントの微笑みがこわばる。声が似ている人なんてこの世にごまんといるだろうし、いくら何でも俺の考えすぎだ。一度深呼吸をしてからピピリカの背後に視線を向ければ、ガラガラと音を立てて俺の笑顔は崩壊した。

「…っ、ゴンベエ…」

「シン…いえ、会長、お知り合いでしたか…?」

大事な打ち合わせの初回にもかかわらず、俺の呼吸は乱れて額には脂汗が浮かぶ。あまりの狼狽ぶりに隣のジャーファルが俺に声をかけるものの答える余裕はなく、刺繍職人から俺は目を離せない。

なんせ死んだ初恋の相手に酷似した女性が目の前に立っているのだ。正確には、"十六歳で亡くなった想い人が生きていたら"という妄想を具現化した大人の女性。別人だとわかっていても、少女の面影を探さずにはいられない。

「ゴンベエ・ナナシノと申します」

刺繍職人が口にした名前に、ぐらりと俺の視界が歪む。同姓同名の別人にしてはあまりに容姿が似ているし、刺繍が得意だったことや声など、記憶の中の幼馴染との共通点も多かった。しかし、故人が生き返る未来など俺は見たことがない。

「悪い…彼女と二人きりにしてほしい。ピピリカ、ここに書類は置いてくれ」

左手を伸ばしてトントンと机を叩くと、そこに書類を置いたピピリカとジャーファルは会長室をあとにした。昇降機の中に消えた二人を横目で追った客人は、無言で俺に視線を向ける。

責められているようでいたたまれなくなった俺が「どうして」と覚悟を決めてつぶやくと、「どうしてって?」と刺繍職人。口調は明らかに初対面の顧客に向けたものではなく、旧知の仲の相手に向けたものだ。

「いや…ティソン村は、その、十年以上前に」

旧シンドリアの土地を俺が購入した頃、迷宮生物との融合実験の失敗作として生まれ故郷の人々は処分されたと聞いている。"国を作って迎えに行く"という俺の約束を信じて待っていた幼馴染も、例外でないと思っていた。

「…シンがティソン村を出てすぐ、お母さんのところに行ったの。若いうちに都会で刺繍職人として揉まれたかったし、私だけのために母さんを帰村させるのも悪くて。…何よりあの村にいたら、エスラさんとシンを思い出さずにいられなかったから。お母さんとは今もクシテフォンで一緒に暮らしてる」

「そうだっ…たのか。てっきり例の件で死んだとばかり…ゴンベエ、本当にごめん。それと…今回の依頼を引き受けてくれてありがとう、感謝する」

「でも商会の紋章の設計を依頼した職人について会長が把握してないなんて、依頼が来た時点で夢にも思わないよ」

「せめて名前くらい確認すべき」と呆れ顔で微笑むゴンベエの言い分は、ぐうの音も出ない正論。乾いた笑いではぐらかすと、「もしかしてあれも?」と対面から思わせ振りな声がした。一切の心当たりがない"あれ"に、今度は手汗が止まらなくなる。

「シンが王様だった頃、何度かシンドリアに行ったの。入国許可証や旅券にシンが押印するはずだから、わたしの名前に気づいてくれれば会えるって…勝手に期待してた」

幼馴染の発言に、いたたまれなさから書類に視線を落とす。在位中のシンドリア王国では、入国許可証や旅券の管理は政務官の仕事だった。しかし間違いなく押印は俺の仕事だ。

入国者の確認は国の安全に直結する仕事であり、適当に判を押していたわけではない。たとえ適当でなかろうと、かつての想い人を見逃していたのは事実で、間違いなく俺の過失。嫌われたのかも、と思えばこの場から逃げ出したくもなってくる。

「文も送ろうと思ったよ。でも検閲が入るだろうし、なれなれしく"シン"なんて呼ぶ女の文が王様に届くとは思えなかったから」

謝罪を遮ったゴンベエの発言に、俺の胸は痛む一方。来るもの拒まずな俺の気質もあって、シンドリア王国では文への検閲は一切行わなかった。

入国許可証と文でどれだけ初恋の相手を傷つけたかと思えば、机上の書類から俺は視線を上げられない。そんな俺に「わたしも迷ってたの」と、声色を変えずにゴンベエは続ける。

「今まで何をやってもシンに会えなくて、もう住む世界が違うんだって諦めて。…でも今回こうして直接シンに会えるチャンスをもらったから、自分の信念を曲げてここに来た」

「信念?」と鸚鵡返しすれば「うん」とだけ刺繍職人は返す。

「普段は正式受注前の面談でわたしに依頼する理由や依頼事項を掘り下げて、"その人の力になりたい"、"本当にやりたい"って思える仕事しかしないの。でも今回は…シンに会いたいって私欲だけで、面談もせずに引き受けちゃった。ずっと守ってた信念を曲げてまで仕事を進めて、正しかったのかなって」

「正しくないわけないだろ?」

まるで"俺に会ったのは間違い"と言わんばかりの発言に、思わず顔を上げて俺は反論する。久しぶりに視線の合った幼馴染は、豆鉄砲を食らったような顔で俺を凝視していた。

「…もっと自由でいいんだよ。"誰も見捨てない国を作る"って決めて俺はティソン村を出た。当然シンドリア王国を作って終わりじゃないし、王として国を守る立場だったが…争いのない、互いに共存できる世界を作るために今はパルテビアにいる。ゴンベエが間違ってるなら、"国を作る"という信念を曲げた俺も間違ってるな」

「ううん、シンは間違ってないよ…!"迷宮"に七回も行って敵に立ち向かって、わたしには到底対処できない辛くてきついことにも向き合って、頑張ってきたんだから」

「わかってるじゃないか。今の自分がやりたいことや感じること、それがすべてさ。だからルールの正しさが変わるのもルール変更が生じるのも当たり前だし、今ここにいる選択をしたゴンベエも間違ってない」

語気を強めた幼馴染に謝意を告げれば、小声で「わたしこそありがとう」とだけ返される。年齢相応の変化はあるが、柔らかく微笑む表情は記憶の底に眠っていたものとほとんど変わらない。まじまじと初恋の相手を見つめていると、俺の視線に気づいた彼女の頬が色づいていく。

「そんなに見ないで…シンの中でわたしは十六歳で止まってたんでしょう?その倍の年齢になったんだから恥ずかしいよ」

「いや、会えなかった年月相応の変化はあるが昔と変わらない。ゴンベエは綺麗なままだ」

思ったままを口にすれば、耳や首までゴンベエは赤くする。あらかじめ考えてきた図案であろう書類で目の下を覆った初恋の相手は、「早く打ち合わせを始めよう」と俺を急かす。

壁時計に視線を移すと、空白の埋め合わせにそれなりの時間がかかったようで。打ち合わせに同席予定のジャーファルとピピリカをかなり待たせていた。

返事の代わりに呼吸を整えた俺は、商会本部周辺に生息する鳥に音波を介して干渉する。"ゼパル"の能力で自分のルフを相手の頭にねじ込んで住みつかせ、短時間なら身体を乗っ取れるのだ。対象は最大三人で、煌帝国の内戦終結後に紅玉姫からルフを取り除き、クシテフォンに越してすぐ俺のルフを鳥の中に住まわせていた。

翼を上下させて身体を操れるのを確認してから、下の階でマスルールと雑務中の会長室室長の元に飛ぶ。ピピリカも十年以上前から"ゼパル"の能力を知っているが、世界中から情報を集めるために今の俺がこの能力を使っていることは知らない。

ピピリカと上司の別行動は俺にとって好都合。刺繍職人に聞かれない距離でジャーファルを呼べば、瞬き一つせず彼は鳥に視線を向ける。

「待たせたな。さあ、始めよう」



打ち合わせが終わり、シンドリア商会の紋章はもちろん、制服の生地や刺繍に用いる糸も決定した。商会本部の入口まで客人を送ろうとするジャーファルとピピリカに、もう少しだけゴンベエと話す旨を伝えて人払いをする。会長室を去る二人の背中をじっと見つめる刺繍職人に、改めて俺は謝意を告げた。

「こちらこそ…こんな大仕事をやりきれるか不安だったけど、ここに来る前に想像してた以上のものができそう」

力が抜けた幼馴染の微笑みは、在りし日の十六歳の少女とぴったり重なる。幼少期から俺を知る人物に、ジャーファルたちと違う安心感を覚えていた。

思うことがあって生涯女性を娶らないと決めていたが、元を辿れば国に迎えた幼馴染と一緒になるつもりで。"シンに会いたいって私欲"が今のゴンベエにあるなら、俺に対する彼女の愛情は薄れていないはずだ。"恋はタイミング"というし、王から会長になった今がそのときだと直感した。

むしろ独身を貫く決意も、初恋の相手との最高の再会の引き立て役にすぎないとすら思えてくる。生涯独身宣言の翻意に抵抗がないと言えば嘘になるが、人生を楽しみ自由でいることが大事だ。"一度決めた信念に縛られるな"とは、他でもない俺が先ほどゴンベエに言ったのだから。

「ゴンベエ、せっかく久々に再会したんだ。食事でもどうだ?」

目を輝かせて頷く昔の幼馴染を想像して返事を待つものの、期待と裏腹に彼女は壁時計に顔を向ける。視線を戻した刺繍職人の回答は想定外のもので、間髪容れずに俺は理由を問う。

「それは…」

俯いて言い淀む幼馴染に、彼女は怒っていると俺は直感した。俺は自国に迎える約束を守れなかったのに、ゴンベエは俺が来るまで待つ約束を守り通したのだから。

「…村のことを知った後もいつだってゴンベエを思ってたし、可能ならずっとゴンベエと生き」

「結婚してるの」

焦りすぎたかと求婚紛いの発言を悔いる俺を遮るように、ゴンベエが告げる。真っすぐ俺の目を見て紡がれた言葉に、頭が真っ白になった。小刻みに震える脚に気づかれぬよう、足の裏から踏ん張って震えを最小限に留める。俺の耳にすら届くか届かないかの「いつ」を拾った刺繍職人は、一拍置いてから「二年前かな」と返す。

「小さな商会の平社員で、シンみたいな二枚目じゃない。国も作れないし、"迷宮"攻略に行ったら多分真っ先に死んじゃうタイプなんだけど」

聞いてもないのに聞かされる配偶者の話に耳を塞ぎたくなるが、見ず知らずの男を語る幼馴染からなぜか目を逸らせない。しばらくして、ほんのり頬を染めるゴンベエのはにかみ顔には見覚えがあることに気づいた。ティソン村で暮らした頃の初恋の相手が俺に向けた表情そのものだ。

「でもね…すごく些細なことにも気をかけてくれるの。この前なんてわたしも気づかない指のささくれを心配してくれて」

<ねえ、シン。"国"とか"世界"とか大きなことばかりじゃなくて、目の前の小さなことも見てよ>

ティソン村を出る前日、俺を引き留めようとした同居人が口にした言葉が頭をよぎる。それを振り払って海に出た俺は、約束を反故にした自分を完全に棚にあげて怒りを滲ませていた。

「約束しただろ…」

国を作ったら真っ先に迎えに行く、と。幼馴染の生死を勘違いしていたとはいえ、今に至るまでその約束を守っていない後ろめたさから続きは口にできない。

「"迎えに行くと約束した幼馴染がいた"なんて、『シンドバッドの冒険書』にまったく出てこなかったから…その約束はシンの中で無効になったとばかり思ってたんだけど」

痛いところを突かれた俺は、閉口せざるを得なかった。会長室室長や彼の秘書を交えた打ち合わせでも、ボロボロになるまで『シンドバッドの冒険書』を読んだと刺繍職人が発言したのを思い出す。リップサービスと思っていたが、実際にゴンベエは熱心な読者だったらしい。

幼馴染のエピソードを書くか考えたことはある。しかし、ゴンベエのことを書けば故郷の悲惨な末路、つまり村民の処分について書くのは避けられない。いや、正確には故郷の人たちと未来の自国を両天秤にかけて後者を選んだこと。十数年一緒にいる右腕に今も話していないことだ、書籍に書けるはずなどなかった。

もっとも、故郷の幼馴染に触れれば、パルテビア帝国の人体実験への言及を避けては通れない。他国の軍事機密について、倫理問題への告発でもないのにシンドリア国王の立場で暴露できなかったのもある。

「思わず言っちゃったけど、本のことはそんなに気にしてないよ。でも本当にショックだったのは…ティソン村を離れたわたしを探してくれなかったこと。わたしが知るシンなら、わたしの死を確信するまで何が何でも生きてるって信じてくれてると思ってた」

村民たちがいた軍事施設の撤去後は建国に向けて慌ただしく動いていて、とても人探しする余裕はなかったのだ。

「迎えに来てくれるなんて自惚れ、と言われればそれまでだけど。それに変わったのはシンだけじゃないし、わたしも強行突破してシンドリア王国で会おうとすればよかったのにね…でも」

深いため息をついたのち、俺からゴンベエは視線を逸らした。

「思っていた以上に仕事がうまく回ってたのもあるし…何より結婚の少し前からお母さんの身体がよくなくて」

思いがけないゴンベエの一言に、きゅっと胸が締め付けられる。"ゼパル"攻略で衰弱する母さんのそばにいてやれなかったのは、三十歳の今でも悔いることの一つ。たとえ母さんに後押しされたからといって、すべての原点だからといって、数月の間病に伏す親を放置したのは事実だ。

迷宮に行く直前の母さんとの会話を何度やり直しても、必ず俺は迷宮を選ぶだろう。それは間違いないし迷宮行きを後悔したことは一度もないが、肉親に対する想いはそう簡単に割り切れるものではない。

「エスラさんみたいに薬がなければ数日と生きられない状態で…わたしがお母さんのそばを離れるわけにはいかないの」

「…それなら仕方ないな」

他の言葉が見つからなかった。夕方から始まった打ち合わせは数時間に及んでいたため、すでに陽は傾き始めていて。少し待つよう告げてから、刺繍職人に声を聞かれない程度の距離を取る。再び鳥でジャーファルを呼び出した俺は、ピピリカとマスルールに一階の商会本部出口で待機するよう指示した。

「ピピリカとマスルールにゴンベエの家まで送らせるよ…マスルールは俺よりも屈強な男だから安心してくれ」

「うん…もしかしてマスルールって、二十二巻で巨大化して"ガォォ"って鳴いてたマスルール?」

「ゴンベエ!あれは脚色した物語なんだ。あまり鵜呑みにしないでくれないか?」

ジャーファルに続いて実物のマスルールに会えるなんて、と目を輝かせる幼馴染を制すれば、はっと彼女は我に返る。

「え?あ…そうだよね。わたし、ずっと夢中になって読んでたからつい…。シンと会えなかったし文も届かなかったけど、『シンドバッドの冒険書』を読めば元気で生きててくれてるって伝わったから。…お世辞でも何でもなくて、本当に夢中で読んでたの」

ふにゃりと微笑む初恋の相手は昔のままで。思わずゴンベエの背中に腕を回しそうになったところで、ちょうど一階に向かう昇降機の到着音が鳴り響く。

扉が閉まって一階に着くまでの間が、二人きりで過ごす最後の時間。一階に行けば送迎係がいるはずで、次回以降の打ち合わせにもジャーファルとピピリカが同席することになっていた。

「シン」

「ゴンベエ」

幼馴染と彼女の声を遮った俺は互いに譲り合いが続いたが、最終的に先手を取ったのは俺。

「今度…ゴンベエの家に行きたい。久しぶりにおばさんにも会いたいし、ゴンベエの結婚相手にも挨拶しておきたい。いくら幼馴染とはいえ、女性しかいない家に俺がふらりと現れたらいい気はしないだろうからな」

続いてゴンベエが話しはじめる前に一階に着いたため、彼女の話題を聞くことはなかった。



その日の夜。思うように寝付けず、寝台脇にあるテーブルの燭台の蝋燭に火を灯す。原因は自明で、幼馴染をマスルールたちに預けた後の仕事は身に入らなかった。大きなため息をついたあと、下半身だけ布団に入れた状態で明かりの灯る蝋燭があるテーブルの引き出しを開ける。

「…」

それなりに大きなテーブルの引き出しにしまってあるものはたった一つ、十七年前の宝物だけ。数週間前の荷解き以来に触れる簪を握り締めれば、初恋の相手との思い出が洪水のように押し寄せる。

幼馴染を、村のみんなを、世界を救うために俺はティソン村を出て、旅を続けてきたはずだ。しかし、ティソン村の人たちもゴンベエも、俺の力では誰一人救えなかったように思えてならない。幼少期から決して裕福でなかった初恋の相手を救ったのは、彼女の母であり配偶者であり客であり、何より彼女自身の努力で身に着けた技術だ。

<ここに来る前に想像してた以上のものができそう>

今日の打ち合わせを終えた刺繍職人の発言が頭をよぎる。ゴンベエにとっての俺は、ここに来る前の想像以上の俺だっただろうか。脳裏に浮かぶ初恋の相手に何度問いかけても、答えは返ってこない。

強く握り締めていた右手の簪に視線を落とすと、ゆらゆら揺れる火によって花びらは黄色にも金色にも見える。あの頃のようにゴンベエにとっての俺が金色に輝くことはないだろう。深くため息をついた俺はひまわりの簪を元の場所にしまい、火が消えるまで寝台脇の蝋燭を眺めていた。



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