ひまわり(シンドバッド)
夢を見た。あなたと暮らした夏のこと。いつ振りかえっても色褪せないあの季節が永遠に続くものと、当時のわたしは信じて疑わなかった。
クシテフォンでお母さんが出稼ぎをはじめ、エスラさんとシンの家にわたしが身を寄せて数年。わたしが十四歳で、まだエスラさんが元気だった頃の話だ。
ともに父親を亡くし、学校に通えるほど裕福でなかったシンとわたし。バドルさんと同じ漁師を志した幼馴染は、十歳を過ぎた頃から荷車の運転手や見習い漁師として生活費を稼いでいた。
本人はもっと早く船に乗りたがっていたものの、それを許さなかったのは亡き父君の仲間やエスラさんといった周囲の大人たち。到底納得できないとばかりに反発しても「エスラさんを一人にする気か?」と諭されればシンは反論できず、機が熟すまで陸で働いていた。
わたしもわたしで、村の女性たちから刺繍や家事を教わって。エスラさんと実母の負担にならないようお小遣い程度の稼ぎを刺繍で得たり、シン母子が外で働く間に家のことをしたりしていた。
ある夏の夜。夏のティソン村の日は長く、夜でも空は黄昏色に染まっている。開けっぱなしの窓から抜ける風が清涼感をもたらしていた。
「ゴンベエ」
食事の片づけを終えて仕事の準備をしていると、わたしの頭上からシンが声をかける。至近距離から聞こえる声を意識しないよう、あえて幼馴染に顔を向けず、依頼品と羊皮紙、筆記具を手にわたしは絨毯に腰を下ろす。
「どうしたの?」
「膝貸して。まだ刺繍に入ってないんだろう?」
膝の上に置いていた羊皮紙を勝手にどかすと、返事を待たずにシンの頭を覆うタオルが膝に乗った。ターバン状に巻いたタオルで髪を覆う幼馴染は、決まって洗い髪を乾かしていない。ターバンからはみ出た紫の髪で濡れないよう、そっとわたしは依頼品をシンから遠ざける。
わたしの仕事は、客からの依頼に応じて客の持込品に刺繍を施すこと。依頼品を預かってから刺繍の図案を提案し、それにOKをもらえれば依頼品に刺繍をしていく。幼馴染の"まだ刺繍に入ってない"とは、わたしの作業がまだ図案の考案段階であることを意味している。
図案の考案段階だからって仕事中に膝枕などできない。注意しようと膝に視線を落とすと、まっすぐこちらを見上げるシンと視線がぶつかった。咄嗟に両手に持つ羊皮紙を広げ、染まる頬を中心にわたしは目の下を隠す。
「これに刺繍を?…よくわからないけど高そうだな」
わたしの膝を枕にするシンは、いつの間にか遠ざけたはずの紫の胴着を手に取っている。深い紫の胴着は客の持込品で、汚れ一つつけられない貴重品だ。預かり品を他人の手の届く範囲に置いた自分の落ち度を棚に上げつつ、慌ててわたしは幼馴染から胴着を奪う。
「ダメ!すごく大事なんだから…」
「今までは触ってもそんなに怒らなかったのに」
「そうだけど…今回は絶対に失敗できないの!」
唇を尖らせる幼馴染を可愛いと思いつつ、奪い取った胴着を丁寧に畳む。どうやらわたしの刺繍は人より多少秀でているようで、刺繍仕事を始めて一番大きな依頼が舞い込んでいた。依頼主は葡萄酒商人の男性で、開業記念に購入した一張羅に刺繍を施してほしいという。
預けられた紫の胴着は一張羅と言うに相応しい上物で、わたしなどが刺繍する余地はない。かといって一度引き受けた仕事だし、報酬は従来の仕事の二月分。今後の刺繍仕事のためにも家計のためにも、絶対にこの仕事を成功させるしかなかった。
「明日お客様に図案を提示するのに、何も決まってなくて…」
「確かに難しいな…」
しばらく考えてもいい案が浮かばないわたしの膝の上で、ぽつりとつぶやいたのはシン。
「俺なら内側を使うな」
胴着の裏を見て固まるわたしに、シンは見本のようなドヤ顔を向ける。表への刺繍ばかり考えていて、見えないところへの刺繍は盲点だった。着用時の見た目が変わらない内側への刺繍なら、柄も色も選択肢は大きく広がる。
一度立ち上がったシンは、本棚にある花辞典を手にわたしの膝に戻ってきた。仕事で花を刺繍する機会の多いわたしが、初仕事の納品後に買ったのがこの辞典だ。
「この前盗賊から助けたお嬢さんに教わったんだが」
図鑑の紐を解いて巻物を広げる幼馴染の発言に、ちくりと胸の奥が痛む。幼馴染にその気はないし人助けが正しいこととわかっていても、他の女性に優しくする彼に醜い感情が燻る。誰にでも優しいのがシンのいいところで、そこにわたしも惹かれたのに。想い人に気づかれないように、わたしは深く長いため息をついた。
巻物の一点を指さすシンが続けたのは、ある花の花言葉。ティソン村の近くにも咲く花で、過去にも仕事で刺繍したことがある。花言葉は"常に前進"や"希望"とポジティブで、これから事業を始めるお客様にぴったりだ。
「いいかも…!内側なら派手な色も使えるから、黄色にしようかな」
「確か黄色の花言葉だよ。他の色だと花言葉も変わるんだってさ」
幼馴染の助言を機に、わたしの頭にはさまざまなアイデアが湧き出てくる。羊皮紙と筆記具を一度手にすれば筆記具を持つ手が止まらず、あっという間に羊皮紙は提案用の図案でいっぱいになった。予想していた所要時間の半分以下で仕事を終えたわたしは、羊皮紙を紐でまとめてから膝の幼馴染に視線を移す。
「ありがとう。すごく助かったよ…お礼は何がいい?明日の夜ご飯はシンの食べたいも」
「来週、祭に行こう」
言い終えないうちに提案されたお礼に、わたしは目を丸くする。コンタスティア港の夏祭は村一番の行事で、毎年わたしたちも訪れていた。つまり、お礼としての祭はあまりに特別感に欠ける。
「そんなことでいいの?毎年エスラさんと…去年はお母さんも一緒に四人で行っ」
わたしが羊皮紙を机に置いたのを確認してから、空いたばかりの右手をシンの左手が掴んだ。
「今年はゴンベエと二人がいい」
シンに掴まれた右手は彼の口元に誘導させられる。手の甲に唇が触れてもないのに、わたしは真っ赤になって黙るしかできない。
「…エスラさんは?今年お母さんは来ないんだよ」
なんとか声を絞り出したのは、シンの発言から少し経った後。クシテフォンにいるお母さんは、帰村のタイミングが合うときしか祭に行けない。今年はタイミングが合わないため、エスラさんと三人で行くものとばかりわたしは思っていた。
「そりゃ俺が十歳にもならないガキだったからついてきただけで、もう二人で行くって言っても母さんは何も言わないだろ」
「ガキって…まだ十二歳じゃない。…そうじゃなくて、年に一回の祭でエスラさんに留守番させるなんて、そんな…」
どんなに大人びた振る舞いをしようと、シンは十二歳でわたしは十四歳。わたしだって世間からすれば十分子供だ。
「だったら母さんには氷菓子でも買って帰ればいい」
一度決めたら曲げない意思の強さも、周囲を照らす明るさも、わたしに向ける力強い眼差しも。太陽に向かってまっすぐ伸びるひまわりのようなシンに、わたしは滅法弱い。おそらくシンもそのことを理解している。
「…じゃあ、エスラさんにはシンが話してね!そうじゃなきゃ行かないからっ」
どちらが年下かわからない態度を取るわたしは、仕事道具や図鑑を片付けるべく、シンの頭を持ち上げながら立ち上がった。
翌週。約束通りエスラさんに事情を説明したシンとともに、コンタスティア港の夏祭に来ていた。コンタスティア港の桟橋から少し離れた海沿いのひまわり畑は、昔からわたしのお気に入りの場所の一つだ。
潮風に晒される出店に吊るされた風鈴の音が、会場の至る所から響いている。数十、数百の風鈴は決して耳障りではなく、むしろ子守歌のようで心地いい。
「天気がよくて本当によかった…」
わたしのつぶやきの返事の代わりに、満面の笑みをシンは浮かべる。約束の翌日、胴着の内側に刺繍する提案はお客様に大好評で、一発OKを頂いていた。
わたしは刺繍仕事に集中すべく家に籠りきりで、買い物など外での用事はエスラさんたちに任せっきりで。洗濯以外でわたしが陽の光を浴びたのは、十日ぶりといっても過言ではない。
「ゴンベエ、あっちに焼きそ」
「シンドバッド!おまえ来てたのか」
「あっ、シンちゃん!」
村一番の人気者に気づいた誰かが声をあげれば、あっという間に大勢に囲まれる。屋台を物色していてシンから目を離していたわたしは気づけば蚊帳の外で、人垣の中心にいる彼は一切見えない。
普段からシンにはひっきりなしに声がかかるとは、かつてエスラさんから聞いていた。行く先々で人に話しかけられるのは大変ではないかと問えば、「人から好かれてる証拠だから」と顔を輝かせていたのを思い出す。
小柄なシンの姿は見えないが、彼の声だけが耳を通過していく。明らかに女性を褒める幼馴染の声が聞こえれば、わたしの心をどす黒い靄が覆い尽くす。
想い人を囲む半数近くが女性となると、わたしは心穏やかではない。しかし、この状況を打破する手立てはなかった。シンを中心とする人だかりを離れたところから見つめるわたしは恋人でもなく、ただの幼馴染にすぎないのだから。
個人的な感情を優先すれば、心を鎮めるためにもシンを置いてどこかへ逃げてしまいたい。しかし、エスラさんからいただいたお駄賃がわたしの巾着にある以上、それは不可能。
「なあシン。さっきからずっとこっちを睨んでるあの子、おまえの知り合い?」
誰かの大きな声に、幼馴染とわたしを隔てていた人たちがサッと避ける。よほどわたしが怖い顔をしていたのか、先ほどシンに問うた張本人と思われる男性が不気味そうにこちらを見ていた。
「ああ」
端的に回答した幼馴染は、少し大股でわたしに歩み寄る。シンの答えの詳細、わたしたちの関係の説明を待つのは、彼を囲んでいた数十人だけでなくわたしも同じ。"恋人"でないのは言わずもがな、とはいえ同居中だけど"家族"とも違って。やはり"幼馴染"以上の正答はないだろう。
"幼馴染"が正解とわかっていても、知りたいのは"シンにとってわたしは何なのか"。真横に立った想い人の右手がわたしの右肩に触れたとき、心待ちにした答えが明らかになった。
「今はデート中なんだ、邪魔しないでもらえるかな」
"デート"の一言に、「紹介しろ」「彼女か」などの新たな問いと悲鳴が木霊する。時たま矛先はわたしに向けられるが、わたしだって知れるものなら答えを知りたい。
想い人に肩を抱かれて林檎飴のように真っ赤なわたしは口をパクパクさせるが、彼の視線は周囲の人たちに向けられている。「じゃあな」と聴衆に向けて手を振ったシンは、わたしの肩を抱いたまま歩き始めた。
「デートなんて…嘘ばっかり」
「嘘じゃないだろ」
人に囲まれていた先ほどまでの声色から一転して、想い人の声は急に大人びる。調子のいい幼馴染に流されそうになったわたしは、流されてしまいたい気持ちを堪えて右肩に乗せられた手をどかした。肩を抱かれるわたしのほうが長身なため、かっこつけていてもシンは歩きにくそうなのだ。
「ううん…だってわたしたち、付き合ってないでしょう?」
「付き合ってなくてもデートくらいする」
わたしが知らないだけで、どれだけの女の子と彼はデートしてきたのだろう。シンの言葉に、そう考えを巡らせずにいられない。"幼馴染の嫉妬"にすぎない感情を飲み込むわたしの「でも」を、わたしの左手を掴んでシンが遮った。
「少なくとも俺はデートだと思ってるんだけど」
「え」
「ゴンベエは?」
"俺はデートだと思ってる"と想い人に言われ、"わたしはデートだと思っていません"と返せるわけがない。とはいえシンの顔を見るのは恥ずかしくて、潮風に揺れる出店の屋根の風鈴に視線を向けた。
「デート…です」
「なんで敬語になるんだよ」
くくくと声を漏らし、わたしの頭にシンは右手を伸ばす。優しい手つきで幼馴染が触れたのは、ひまわりの簪。コンタスティア港のひまわりを参考にデザインしたもので、角度や光の当たり方で花びらは金色にも黄色にも見える。
「今日のために作ったんだろ?すごく可愛い」
事実、この簪は先週シンと祭の約束をしてから、仕事の合間に刺繍で作ったものだ。想い人と二人きりの祭に浮かれていたのを悟られるのが嫌で、彼の寝静まった後や不在時に作業していたのに。わたしは平静を装いつつ、ようやく熱が取れた顔を幼馴染に向けた。
「ありがとう。ひまわりの刺繍なんだけど、花びらの糸」
「髪飾りも可愛いけど…ゴンベエが、だよ」
普段歯の浮くことを女性に言うときも一切顔色を変えないシンが、目の前で顔を林檎飴のように真っ赤にしている。その姿に先ほど引いた熱が一気にぶり返す。しばらく無言が続いた後わたしの奥に視線を向けたシンが「あ」とつぶやくと、ずっと繋がれていた彼の左手が右手から離れる。
「…おっちゃん!焼きそば二つ!キンキンに冷えたラムネもちょーだい!」
いつも通りの明るい声で叫んだ幼馴染は、焼きそばの出店に駆けて行った。置いて行かれて呆然と立ち尽くしていると、焼きそばとラムネを手にしたシンがわたしを呼ぶ。
「あ、ごめん!シン、今行くから!」
エスラさんからいただいたお駄賃はわたしが持っていることに気づいたわたしは、支払いを待つ店主の元に向かって走り出した。俊足のシンにとってわたしは鈍く映るのか、「ゴンベエ、早く!」と手招きして彼が急かす。
「今日お金はゴンベエに任せてるんだから」
「シン、ごめんってば…すいません、これでお願いします」
支払いを済ませてお駄賃を入れた巾着をしまうと、突然首筋にひやりとした感触が伝う。思わず素っ頓狂な声をあげると、いたずら成功と言わんばかりの悪い笑みを浮かべた幼馴染がラムネをわたしに差し出していた。
「ありがと、シン」
言葉にせよ仕草にせよ女性が喜ぶことを熟知している想い人は、それを誰にでも与える。わたしの喜ぶツボを知ったうえでの発言だとわかっていても、刺繍した簪に触れたシンの一言が本当に嬉しくて。
「ねえ、シン。次はチョコバナナ買いに行こっ!」
この日家に着くまでの間、わたしは何度も彼の名前を呼んだ。
夏祭の帰り道。三人分の氷菓子を持ったわたしたちは馬車で帰ることにした。しかしその日の馬車はすでに終わっていて、結局海沿いの道を歩くことになったのだ。帰宅した頃にはすっかり氷菓子が半減していたのも、今シンに会えれば笑い話になるのだろう。
あの日わたしたちが乗り遅れた馬車は、もう廃村の跡地を走っていない。しかし、馬車を諦めたわたしたちが歩いた海は、今も変わらずそのままで。あの夏のように、コンタスティア港には今もひまわりが咲いている。
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