毒薬 -Love is a Poison...-(ジャーファル) | ナノ


健康(072)


5時30分、起床。前日に夜警がなければ、いつもこの時間に私は目を覚ます。寝台から下りて真っ先に向かったのは部屋の簡易厨房で、薬缶に水を溜めて火にかける。寝間着から身軽な服装に着替える間に熱くなった湯をマグカップに注いだ。

やや熱めの湯を一口飲んで身体の内側から温めつつ、軽く柔軟体操をして身体を解す。一つの部位を解し終えるたびに湯を口に含み、空になったマグカップを洗ってから私は部屋を出る。誰もいない王宮の廊下でも足首や肩を回しながら歩みを進め、ついに王宮の敷地外に到着した。

王宮の外でもう一度脚の筋を伸ばしてから、遅めのペースで走りはじめる。標高が高く起伏に富んだ祖国と違って、平坦な道の多いシンドリア。この国に来てからの朝のランニングでは、ペースを上げて距離を踏むようにしていた。

八人将として多くの軍人に慕われる存在になったとはいえ、慢心は禁物。ササンの騎士たるもの、鍛錬を怠るべきではない。



しばらく走り続けると、海辺の道に出る。南下しようと右折すれば、小さな人影が視界に入った。遠くて顔を判別できないものの、対面の人物はブンブンと左手を振り回している。

「誰だ…?」

影の大きさから判断して、ドラコーン殿やヒナホホ殿ではない。マスルールでも王でもないが、そもそも彼らに早朝から走る習慣がないのを私は知っている。ヤムライハやピスティも同様だ。

シャルルカンなら「おーい」とか叫ぶだろうし、ジャーファル殿は私に気づいたところで遠くで手を振らない。相手が誰かわからず足を止めて考えるものの、一向に答えは見えてこなくて。無反応な私に痺れを切らしたのか、次第に人影がこちらに迫ってくる。

「久々に南側を走りたくてコースを変えたんだけど、まさかスパルトス様に会えると思わなかった」

「ゴンベエ殿だったか」

私の前で足を止めたのはゴンベエ殿。王宮副料理長に早朝ランニングの習慣があるとは初耳で、詳細を彼女に尋ねる。毎朝ではないものの走る習慣はあると口にするゴンベエ殿は、国の西側を走るのがお気に入りらしい。シンドリアに来て約2年の王宮副料理長と東側を好んで走る私が顔を合わせなかったのも頷けた。

「今日はスパルトス様と一緒に走ってもいい?」

1人納得している私にゴンベエ殿が声をかける。もちろん、と返事しようとすれば「やっぱいい」と王宮副料理長は身体の前で右手を揺らす。

「いや、走ろう」

「いいよ、だってスパルトス様のペースを邪魔したくないし」

確かに騎士として鍛錬を積む私と料理のために走り込むゴンベエ殿の走力には小さくない差がある。私のペースで走れば王宮副料理長がついてこれないのは目に見えていた。しかし、これはあくまで早朝トレーニングであり、本気のスピードで走る必要はない。

「こうしてゴンベエ殿と会えたのもこの2年で初めてなんだから、次はいつになるかわからないぞ」

ここで断られたらこれ以上食い下がるつもりはなかった。しかし、私のダメ押しに観念したのか、一緒に走ろうとゴンベエ殿。1人で走っていたときの6割ほど、話しながら走れるものの苦しくないペースで私たちは走りはじめた。

「料理人はこうして走り込むものなのか?」

「…走る必要はないけど、体力勝負の仕事だから」

勤務中は火のそばに10時間立ち続ける、と軽々しく答えるゴンベエ殿に私は驚きを隠せない。火のそばに料理人がいるのは当たり前とはいえ、10時間だ。ただじっとしているだけでなく重い鉄鍋を振るわけで、体力勝負というのも頷けた。

「あと…健康じゃないと味覚が偏るし不健康だと病気にかかりやすいから。それって、王宮料理人としての自覚に欠けると思わない?」

感心している私に、「健康的な食生活を不健康な料理人が呼びかけても説得力がないでしょう?」と続けるゴンベエ殿。

「王宮で働く人って、シャルルカン様やスパルトス様みたいに日常的に身体を動かしている人ばかりじゃないでしょう?ジャーファルやヤムちゃんみたいに屋内に籠りがちの人も多いから。両方に対して説得力を持たせるには、料理人自身が健康じゃないとダメなんだよ」

とはいえ、シンドリアには丸々とした体型の王宮料理人もいる。それを指摘すれば、わかりやすくゴンベエ殿は顔をしかめた。

「…国王や八人将、官職の食事の面倒を見る立場としては、その辺も気をつけてほしいのが本音なんだけど」

軽く愚痴を零しつつも「でも料理の腕は間違いないんだよ!」と王宮副料理長はフォローを欠かさない。王宮料理人とて、全員が全員ゴンベエ殿のような意識を持つわけではないようだ。逆に言えば、この意識の高さこそが入宮半年で副料理長に昇進した理由ともいえるだろう。

「そういう考えはご両親から教わったのか?」

私の質問に、ゴンベエ殿は頷いた。しかし、"ご両親"の単語に一瞬だけ眉間に深く皺が寄ったのを、私は見逃さない。その皺について私が問おうとすれば、タイミング悪く王宮副料理長が口を開く。

「ササンでも王宮の中や庭をミストラスと走ったんだよ」

不意にゴンベエ殿が口にした兄上の名に私の思考が奪われている間に、さらに彼女は畳みかけてきた。これによって、眉間の皺についての疑問は私の頭から完全に抜け落ちる。

「"未来の騎士王たるもの足腰が強くなくては"って、ダリオス騎士王が仰ってたから。鍛錬とかじゃなくて、ただのかけっこだったんだけどね」

"未来の騎士王たるもの"という言葉は父上から私もよく聞いていて。それを告げれば「ダリオス騎士王も変わらないんだね」と、ゴンベエ殿は目を細めた。



息を切らさずに会話できるペースでしばらく走り続けて30分ほど。気づけば島の南から南東まで移動していて。王宮副料理長から送られた視線の合図を受け、少しずつ私はペースを落とす。

「せっかくだし市街地で朝食でもどう?」

ゴンベエ殿の提案に二つ返事で承諾し、彼女のおすすめの店に向かって再び走り出した。しかし、もうすぐでその店に到着するというタイミングで大きな問題に私が気づく。なるべく身軽な状態で走りたかったこともあり、2人とも金銭を携帯していないのだ。

「ごめんね…余計に走らせちゃって」

両膝に手をつきながら申し訳なさそうに額の汗を拭うゴンベエ殿に、「気にするな」と私は返す。

「金銭を持っていないことに気づかなかったのは私も同じだ。それはそうと…市街地が無理なら食堂はどうだ?」

私の代替案を快諾した王宮副料理長は、「じゃあ早く戻ろう」と私を急かす。ゴンベエ殿に誘われるがまま、ペースを上げて私たちは王宮に直行することにした。しかし、そのペースは上がったり下がったりと安定しない。

その理由は単純で、7時を過ぎれば市街地を行き交う人も増え、国民から挨拶される頻度が急増したのだ。ササンの騎士として、シンドリアの八人将として、1人の人間として挨拶を無下にするわけにはいかない。挙手や会釈で手短に対応する私のやや後方では、市街地の料理店の店主にゴンベエ殿が足止めを食らっていた。

だんだん小さくなる王宮副料理長の姿に走るのをやめ、その場で足踏みしながら後ろに顔を向ける。自分を待つ私に気づいたゴンベエ殿は慌てて店主との会話を切り上げた。

猛ダッシュで私に追いついたゴンベエ殿は、呼吸を乱しながら私に謝罪する。気にしなくていいと返すものの、さすがに疲労の色が濃くなってきた王宮副料理長に今すぐ走りを再開するわけにはいかない。

「少し休憩を」と言おうとしたとき、背後からゴンベエ殿と私を呼ぶ声。声の主は先ほど王宮副料理長を足止めしていた男性で、どうやら果物屋の店主だったらしい。

邪魔したお詫びにと言って、生絞りのパパナップルジュースを私にまで手渡してくれた。あとでお代を払いに行くと言っても、店主は「受け取れません」の一点張り。

「生き返る〜!」

今度果物を買うときはいつもより多めに買うと宣言したゴンベエ殿は、改めてジュースの礼を店主に告げる。私ももう一度謝意を伝え、ジュースを飲み終えてから再び王宮に向かって走り出す。王宮に着いた我々は紫獅塔の廊下で一度別れ、互いに自室で汗を流してから食堂で集う約束をした。



「この前のコーヒーマカロン、おいしかった」

食堂で落ち合った我々が向かい合うのはテラス席。先々週頃の八人将会議にジャーファル殿が持参した茶菓子の感想を告げれば、満足気に王宮副料理長は口角を上げる。そのコーヒーマカロンは国の北端にあるパン屋の新商品で、ゴンベエ殿が開発に携わったと彼女の恋人から聞いていた。

「わたしが携わったのは事実だけど、あの味になったのはジャーファルのおかげ」

詳細を求めれば、ウイスキーボンボン事件の朝まで遡って経緯を説明してくれる。コーヒーマカロンの売れ行きは好調のようで、開発秘話を口にする王宮副料理長はどこか自慢げだ。普段聞くことのない商品開発の裏側に感心していると、思い出したように「あ」とゴンベエ殿が口にした。

「あのお店、ライ麦パンのペタンチーズ乗せが絶品なんだよ。今度北側を走るときはスパルトス様もそこで朝ご飯を食べて!景色もすごくいいから」

朝食にパンを摂ることは多くないが、祖国のチーズと相性抜群と聞けば興味が湧く。ぜひ伺いたいと返せば、店名とパンの焼き上がりの時刻を記した紙をあとで届けるとまで王宮副料理長は言う。

公私を問わず食道楽のゴンベエ殿とはいえ、市街地のパン屋の焼き上がり時刻まで把握してるとは思わなくて。料理に対する王宮副料理長の熱量には、舌を巻かざるを得ない。

「本当にゴンベエ殿は料理が好きなんだな」

目をぱちくりとさせた王宮副料理長は、「料理が嫌いな人なんているの?」と私の言葉に尋ね返す。料理が嫌いでなくても、関心がない者はいるのではないか。私の回答を理解しようとする素振りを見せたものの、"料理は全世界共通の関心事"とゴンベエ殿は信じて疑わない。

「…ジャーファル殿も、元はそこまで食に関心があるほうではなかっただろう?」

恋人の名に、王宮副料理長は右手のフォークを落としそうになる。ジャーファル殿の食の細さは知っていたものの食への関心のなさは知らなかったようで、食いかかる勢いでゴンベエ殿は私に詳細を問う。

手軽に摂れるものばかりを仕事人間の彼が食べていた。そう説明するものの、「忙しいから手軽なものばかり食べるんだと思ってた」と生粋の料理好きは腑に落ちない様子だ。

「しかし…それももう昔の話だ。ゴンベエ殿に好意を寄せてから、ジャーファル殿も変わったぞ。なんならゴンベエ殿の勤務時間を見計らって来て、どれがゴンベエ殿の料理か考えながら食べているように見えた」

「そうだったの?知らなかった」

自身の知らないジャーファル殿の一面に、王宮副料理長は目を丸くする。誰が作ったかわからない状態で食堂に並べられる料理を見てどれが自分の料理かを当てようとする恋人に、ふにゃりとゴンベエ殿は頬を緩めた。

「ジャーファルが食に無関心だって聞いたときはショックだったけど、わたしの存在でジャーファルが健康になったならすごく嬉しい」

そう言って王宮副料理長はコーヒーカップに口をつける。別に私自身はゴンベエ殿を恋愛対象として見ていない。それでも可愛らしく思えるほど、恋人の変化に喜ぶ姿は可愛らしい。

こんな王宮副料理長と2人でいるところを政務官に見られたら命がないのではないか。そんな不安さえ頭をよぎる。コーヒーカップに口をつけたままじっと私を見つめるゴンベエ殿は、最後の一口まで飲み終えてからコーヒーカップをソーサーに置いた。

「ねえ。"わたしに好意を寄せてから"って、いつの話?」

ゴンベエ殿にジャーファル殿が好意を寄せはじめた時期を、彼女は知らないという。私とて直接聞いたわけではないと返すが、「いつから食堂で見かける機会が増えたの?」と王宮副料理長は追及の手を緩めない。

「…偽装婚約が決まった頃には、ほぼ毎日通っていたはずだ」

「それは"婚約者の仕事を知る"任務の一環だよ」と、先ほどとは打って変わってゴンベエ殿は渋い表情を見せる。本当はそれよりも前から政務官を見かける頻度は増えていた。もっと言えば、ゴンベエ殿が王宮副料理長になる前だ。

しかし、ジャーファル殿が恋心を抱きはじめた本当の時期を私は知らない。「偽装婚約と同じ時期に好意を寄せはじめた可能性だってあるぞ」と返すので私は精一杯。自分から情報提供しておいて明確な答えを提示しない私に首を捻るゴンベエ殿の追及から逃れるように、コーヒーカップに私は口をつけた。



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