皇女(045)
朝番勤務の終了を、厨房の時計が告げた。晩餐会の指示を細かく書いた巻物を厨房に残し、ドラコーン様の部屋で待機中のサヘルさんを呼ぶ。一緒にわたしの部屋に行くと、湯浴みの準備まで彼女はしてくれた。
「第一印象が大事だからね!私が責任を持って、ジャーファル様の婚約者として相応しい女性にゴンベエちゃんを変身させるから」
そう言いながら、サヘルさんは湯殿にローブを置く。肌触りのいいローブは、国王から頂いたもの。国王お抱えの職人が編んだもので、シンドリアで入手可能な最高級品だ。もったいなくてたまにしか着ないものの、"政務官の婚約者"が着るに相応しいと思い、久々に袖を通すことにした。
湯浴みを手伝うとの彼女の申し出を断り、1人でわたしは湯殿に向かう。サヘルさんとはいえ裸を晒すのは抵抗があるし、わたし自身は高貴な身分でもないので、湯浴みを手伝ってもらったことはない。
こういうときだからこそ、慣れないことをせずに普段通りに過ごしたいのだ。それ以上に、もうすぐ始まる怒濤の1週間に備えて1人でゆっくりしたかった。
朝番の日は太陽が昇らないうちに起床するため、湯船に浸かると眠気が全身を襲う。うつらうつらしながら浴槽内で身体をマッサージするうちに、そのまま眠ってしまった。
なかなか湯浴みから戻らないわたしを心配して湯殿に来たサヘルさんに発見され、のぼせかけたわたしが湯殿から救出される。団扇を仰いでもらいながら、「ゴンベエちゃんに何かあったら私のせいなんだから!」とサヘルさんに叱られたのは言うまでもない。
「すごい、わたしじゃないみたい!」
皇女を迎えるべく、シンドリアの正装に身を包む。整髪やお化粧はよくわからないので、サヘルさんに一任した。衛生面が最優先の厨房で働くわたしは、昔からおしゃれと縁がない。華やかな場に映える髪型や可愛いお化粧には、強い苦手意識があった。
かつて東国で女官をしていたときには、同僚とともに練り香水に凝ったこともある。しかし、それとて10年前の話。18歳で今の仕事を始めてからは、おしゃれとほぼ無縁の生活を送っていた。
謝意を告げてはしゃいでいると、わたしに釣られてサヘルさんも微笑む。きれいにおめかしした姿を見せたかった、とある人の顔が脳裏をよぎる。しかし、サヘルさんが口にした"婚約者"の名前に、わたしは我に返った。
政務官の婚約者として堂々と振る舞わなければ、と思うと急に表情が強張りはじめる。わたしの緊張を察したのか、「シンドバッド王たちの待つ場所に行こう」とサヘルさんは提案した。彼女に同意し、大広間に行く準備をする。
「ゴンベエちゃん、忘れ物」
そう言って、わたしにサヘルさんは指輪を手渡した。ジャーファル様とわたしの誕生石が埋めこまれた、銀色の指輪。手袋をしていても指輪が汚れる可能性があるので、勤務中は白銀色の懐中時計にしまっている。
指輪をすること自体数年ぶりだが、左手の薬指に指輪をするのはこれが初めて。左手の薬指に沈む銀色の輪に、嬉しさと悲しさが同時に込みあげる。しかし、今から仕事なのだと自分に言い聞かせ、悲しみを心の奥に押し込めた。
「今日のゴンベエちゃん、めっちゃ綺麗!」
大広間に姿を見せるなり、わたしをべた褒めするのはシャルルカン様。普段と違う化粧がいいだの、髪型もいいだの、太鼓持ちを疑うくらい彼は褒めちぎる。サヘルさんのお陰だと言うものの、褒められ慣れないので照れてしまう。
「ゴンベエちゃんが綺麗なのは本当だけど、見境のない男ってやーね」
ムスッとしたヤムちゃんの言葉を端に、わたしを挟んで2人は喧嘩を始めた。
「いい加減にしなさい!」
ピシャリと喧嘩を止め、2人からわたしを救ったのはジャーファル様。大きな袖からちらりと覗く彼の左手には、わたしとお揃いの指輪が光る。この1週間のためだけに作られたのは重々承知していた。しかし、2人だけのために作られた指輪を身に着ける事実がくすぐったい。
「どうですか?変じゃないですか?」
くるりとその場で1周しながら、"婚約者"に問うた。再び"婚約者"を正面に見ると、大きな袖で口元を彼は覆う。
「…とても綺麗です」
軽い気持ちで尋ねたわたしに、真剣な眼差しをジャーファル様は向けた。偽装婚約だとわかっているのに、胸の鼓動は早くなる。来週には終了する任務だとわかっているのに。
わたしたちの間に割ってわたしの全身を見るのは、国王。彼もまた、シンドリアの正装に身を包んでいる。普段から"七海の覇王"の威厳を感じさせるが、正装は内々に彼が秘める力強さを一層際立たせていた。
「ゴンベエは化粧映えするな。皇女が帰国したら、正式に王女にならないか?」
「人の婚約者を口説くな!」
国王の冗談に、わたしより先に反応したのはジャーファル様。
「ジャーファルはやけに気合いが入ってるな」
「某国との国交が懸かってるんですよ?それに、今から気を引き締めなければボロが出ますから」
ジャーファル様の言葉に、すでにわたしたちの"偽装婚約"が始まっていたと気づかされる。先ほどの言葉もお揃いの指輪も、すべて任務であり演技だ。わかりきっていたことなのに、事実を突きつけられて心の底から悲しみが湧く。
悲しみの原因を薄々自覚してはいるものの、まだわたしは認められない。彼以上に好きになれる方はいないし、一生彼だけを想い続けると決めたのに。心変わりする自分の薄情さを認めたくなかった。
「皇女様ご一行が到着されました!これよりお迎えに参ります」
文官の声に、わたしは顔をあげる。落ちこんでいる暇はなく、今のわたしは任務に集中すべきだ。ギリギリになって1週間続く任務への気持ちを高めていると、誰かに左手を握られた。驚いて左を向けば、左手を握るのはジャーファル様。
「いつものように振る舞えば、ゴンベエさんは大丈夫です」
偽装婚約が決まってから、いつもジャーファル様はわたしを励ましてくれた。彼の言葉に幾度となく元気づけられ、今もまた元気づけられている。今はジャーファル様の婚約者として、精一杯振る舞うだけ。そう思うと、強張っていた表情筋が緩むのがわかる。周囲を確認するように見渡したあと、ジャーファル様はわたしに耳打ちした。
「ゴンベエさんが綺麗なのは、本当ですよ。演技でも嘘でもありません」
ジャーファル様の言葉に、彼にも聞こえるくらい鼓動が大きくなった。ちらりと左隣の彼を見ると、いつも通りのすまし顔だが耳は赤い。ジャーファル様の右手を握り返したい衝動に駆られる。しかし、そんなことをすれば胸の高鳴りに気づかれてしまうのではないか。そう考えるうちに、部屋の扉が開いた。
「皇女様をお連れしました」
扉を文官が押さえ、皇女やその部下たちを先に通す。初対面の皇女は、同性のわたしから見ても華のある美女。ヤムちゃんもシンドリア指折りの美女だが、皇女とは系統が違う。妖艶な雰囲気を纏う皇女に、シンドリアの文官たちは鼻の下を伸ばしっぱなしだ。
長い裾を引きずりながら、大広間の中央を皇女が闊歩する。国王の正面に着いた彼女は、小さく膝を折った。こちらを一瞥したあと、すぐに彼女は国王に挨拶を始める。
挨拶を終えると、国王は八人将を紹介した。こちらの女性は?と問うた皇女の視線の先にいるのはわたし。一歩前に出て、"ジャーファル様の婚約者"として自己紹介をする。
「あなた、手を出してくださる?」
皇女の言葉に、素直に両手を差し出した。薄紅色の爪紅を塗った爪と、白くてもっちりした手のひら。いかにも温室育ちの皇女らしく、切り傷一つ見当たらない。
「…重い鍋や包丁を日常的に握っている手。あなたが料理人なのは嘘ではなさそうね」
両手を触診し、わたしを睨んだまま彼女は言う。皇女の手とは対照的に、わたしの手には包丁の切り傷や火傷跡も少なくない。クリームを塗らなければすぐに手は荒れるし、前回爪紅を塗ったのが何年前かわからなかった。仕事柄、指からはみ出ない長さで切り揃えているわたしの爪は、爪紅を塗ったところで不格好だ。
皇女の発言で、ジャーファル様とわたしの仲を疑っている可能性に気づく。この1週間はより慎重に行動せねば、と心に誓った。
下がるよう皇女に言われ、ジャーファル様の右隣に戻る。国王直々に王宮を案内すると仰り、荷物をまとめた皇女一行は大広間から立ち去った。ジャーファル様を呼ぶ主の声に、婚約者も国王の元に飛んでいく。
大広間の扉が閉まる音を確認すると、肩の力がふと抜けた。これが1週間続くと思うと、今すぐにでも逃げ出したくなる。そうも言っていられず、晩餐会準備の様子を見るべく、厨房にわたしは向かった。
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