毒薬 -Love is a Poison...-(ジャーファル) | ナノ


餞別(番外編)


「ゴンベエ?」



何となく嫌な予感がして、信頼のおける王宮料理人ゴンベエ・ナナシノの私室を尋ねた。しかし、何度扉を叩いても返事はない。早朝であり、仕事でなければ寝ていて当たり前の時間だ。

理由はわからないが、こういうときの僕の嫌な予感は昔からなぜか当たってしまう。実現してほしくない予感であればあるほど、現実になってしまうのだ。

女性の部屋の扉を未明に無断で開けるなど、まるで夜這いではないか。一国の副王でなくても、言語道断だ。そう思えば、自然と身体が震え出す。しかし、一向に反応のない部屋の奥が気になって。僕はたまらずドアノブに手をかけた。

「…」

ドアノブは、僕がかけた力の通りに回る。回せる限りの位置まで回りきったのを確認してから、そっとドアノブ越しに扉を押し開けていく。想定しうる最悪の事態が起きていないのは、部屋の匂いから明らかで。そこに安堵しつつも、やはり応答のない居住者に不安を覚えた僕は、部屋の明かりを点ける。

「…え?」

その部屋は、もぬけの殻。"一介の官職"の私室を副王の身分で訪ねる機会などないわけで。この部屋で普段ゴンベエがどう暮らしていたかは知らない。しかし、あまりに生活感のない部屋は、主の退去を示唆するには十分だ。

部屋に入ってあちこちを見渡すと、机上の文が目に飛び込む。文をひっくり返しても宛名はない。自分以外の誰かに宛てられた可能性の高い文に頭を下げ、そっと僕は便箋を開いた。

<この文を最初に開くのは、きっとバルカーク殿かサブマド様でしょう。バルカーク殿にはお伝えしていましたが、バルバッドを去ることになりました>

自分の行動を見透かされていたことと突然の退官に、僕は短く驚きの声をあげる。

<前居住国で揉め事を起こしたわたしを、何も聞かずに引き取ってくださった先王には、感謝してもしきれません。バルバッドの歴史や国のいろはを教えてくださったバルカーク殿や、トラン語を教えてくださったサブマド様にも、改めて感謝申し上げます>

自分への謝意を告げる一文に、懐かしい記憶が蘇った。今は亡き父さんがスラムから連れ帰った弟・アリババ。彼の世話係と王宮料理人を兼務していたのが、この文の差出人だ。

王族としての高等教育の一環で習うトラン語に、アリババは苦手意識を抱いていた。そんな弟に発破をかけるため、学習仲間としてゴンベエもトラン語を学ぶことになったのだ。

とはいえ、学習時間を設けて一流の講師から学べる第三王子と違って、王宮料理人は仕事の合間を縫って自習しなくてはならなくて。それを知った僕が、"一介の官職"たちとの接触を嫌う兄さんの目を盗んでゴンベエにトラン語を教えたのだ。

もっとも、父さんが荼毘に付してアリババが下野した今、僕たちのトラン語学習は自然消滅している。最後にトラン語を教えたあの日から、気づけば季節は一巡していた。文の続きを読み終えた僕は、封筒にしまうために便箋を折ろうとする。そのとき、文面に触れた右中指の腹によって、文字が掠れてしまった。

「あっ…せっかくゴンベエが書いたの…に…」

指で擦ってインクが掠れるのは、まだ文をしたためてから時間が経っていない証拠。少なくとも、まだゴンベエはバルバッドにいる。急いで私室に戻った僕は、あるものを適当な巾着に詰めて城を飛び出した。



「ゴンベエ!」

「…サブマド様」

ゴンベエがいたのはバルバッド港。海洋国家・バルバッドの玄関口で、さまざまな船が出入りする港だ。地面に腰を下ろして海を眺める王宮料理人は、僕の姿に気づくなり、さっと立ち上がる。もっとも、この時間に就航する船は漁船ばかり。ゴンベエの目当ての船はいないはずだ。

思っていたよりも早く見つかったと笑うゴンベエとの対面は、最後にトラン語を教えたとき以来。城内で見かけても声をかけることはなかったし、世話係を任されていた弟と違って、わざわざゴンベエに声をかけられることもなかった。およそ一年ぶりに間近で見たゴンベエは、前よりも痩せた気がする。

「バルカークには、退職を伝えていたんだね」

「ええ。アリババ様が入城される前から、ずっとお世話になっていましたから」

そう口にするゴンベエの表情は、とても晴れ晴れしていて。その横顔に見入っていると、何かに気づいた王宮料理人が慌て出した。

「ちっ…違うんです!サブマド様にお世話になってないなんて、そんなことは思っておりません!トラン語を教えていただきましたし、それに、それに…」

「大丈夫だよ。そんなこと、僕は思っていないから」

僕の言葉に安堵の色を浮かべたと思えば、ゴンベエの表情は曇っていく。

「それより…サブマド様、こんな時間に城を抜け出して大丈夫なのですか?今頃、女官や守衛たちが総出で副王を探しているはずですよ」

大丈夫ではない。目の前の王宮料理人は、身をもって経験しているはずだ。かつて初日の出を見たいとせがんだ弟を連れ、一般の民に交じって初日の出を見に出かけたゴンベエ。王子が行方不明となれば、元日休暇を返上して多くの官職が捜索したわけで。

甘酒を手にケロリとした顔で城に戻ったゴンベエには、バルカークや父さんから雷が落ちた。半月ほどの謹慎処分中にトラン語を教わろうと、僕の部屋をこっそりゴンベエが訪ねたのも、今となってはいい思い出だ。

「僕は…大丈夫。それよりゴンベエ…」

君に伝えなくてはならないことがある。しかし、緊張で言いたいことが喉元に来ない。そんな僕を、小首を傾げたゴンベエが見ている。

伝えたいことは、たった三文字なのに。勇気を振り絞って言えばいいだけとわかっていても、言葉が出てこなくて。自分の立場もわかっていて、"一介の官職"にそんなことを副王が告げていいはずがないのも、僕自身よくわかっている。

「…その、ゴンベエ…」

言い淀む僕の奥に視線を向けたゴンベエは、微かに目を大きく開く。小さな声で僕を呼んだ王宮料理人は、城の者たちが見えると告げた。

「このままでは…見つかるのは時間の問題です。副王はどうされますか?」

先程までこの時間に城を抜けた僕の心配をしていたのに、今は僕に意思を委ねるゴンベエ。副王の脱出を幇助したと知られれば、君もただでは済まない。そう告げようとした僕を見透かしたように、ゴンベエは微笑む。

「もうわたしは退官した身ですから」

「それじゃあ…余計にダメなんだってば!官職なら僕が兄さんからかばえるけど、ただの民では…守ってあげられないんだよ」

アリババのときだってそう。"初日の出を王子と見に行きました"が通用したのは、ゴンベエが官職だったから。いつも"一介の官職"と遜るゴンベエは、どれほど自身がその身分に救われていたかをわかっていない。

「じゃあ…ゴンベエ、ついて来てくれるかい?」



"一介の官職"ですらないゴンベエを連れた先は、遠い昔に見つけた秘密基地。秘密基地といっても、父さんが亡くなってから使われなくなった港の駐屯基地だ。

「ご、ごめんよ、ゴンベエ…大事に巻き込んでしまって」

気になさらないでくださいと言って、ゴンベエは変わらず笑みを浮かべる。罪の意識を感じさせない笑顔に、そうじゃないんだ、と僕はつぶやいた。

「アリババのことも兄として守ってやれなかったし…ゴンベエや…他の官職たちも、城外の国民も…僕たちのせいで苦しめている…」

僕が伝えたかった三文字の意図を正確に把握したゴンベエは、途端に緊張を宿す。この一年でゴンベエが痩せたのは、兄さんが官職の給与を削っているから。「王宮に住み込んで料理も提供されるなら、給料はいらないでし」と言って兄上が一年で減らした給与は約四割。そうバルカークから聞いていた。

「これは…今の僕にできる精一杯のお詫びだよ。受け取ってほしい」

ずっと懐に提げていた巾着を取り出し、ゴンベエに手渡す。予想以上に巾着が重かったのか、手のひらに巾着を乗せるとゴンベエの腕がガクンと下がる。その重量に中身を察したのか、珍しく元王宮料理人は声を荒げた。

「なっ…なりません!わたしは受け取れません!これだけの金品をくださる意味、サブマド様ならご存知でしょう?」

ゴンベエだけを特別扱いするわけにはいかない。とはいえ、すべての官職に同じ扱いをできるほど、僕自身の富は多くなくて。

「…」

それでも、バルバッドにアリババがいたら、彼も同じようにしたと思うから。もっとも、アリババの下野さえなければ、ゴンベエがバルバッドを発つことなんてなかった。僕はそう思うけど。

巾着を持ったゴンベエは、それを僕に返そうと僕の手を取る。巾着のなかで動く金貨の音に、思わずゴンベエの手を振り払う。

「…やっぱりダメだよ、ゴンベエ。受け取ってほしい」

そう言ったはいいものの、依然として元王宮料理人は食い下がろうとして。

「バルバッドを出るのに、一文無しで…どこに行くつもりなんだい?君のことだ、煌帝国には戻らないんだろう?」

煌帝国の通貨・"煌"を貿易で使うバルバッド。ゴンベエの持つなけなしのお金だって"煌"だ。前に住んだ東国に戻らないなら、どの国に行こうと"煌"はただの紙切れでしかない。それに比べ、巾着の金品は国を問わず金になる。たとえ煌帝国に戻ったとしても、金品の価値は落ちないのだ。

「…どうして、サブマド様がそれを」

「詳しいことは何も知らないよ…"前居住国で揉め事を起こした"って、部屋の文に残したのは君じゃないか」

詳細を知らないのは、父さんや兄さんとて同じ。それに、ゴンベエの過去に何があろうと、父さんの時代に受け入れを決めた以上、それを覆す気はない。

「何とお礼を申し上げればいいのか…本当にありがとうございます、サブマド様」

巾着を自身に引き寄せた元王宮料理人は、瞳に涙を浮かべる。恭しく頭を下げるゴンベエに、謝らないでくれと僕は告げた。

「感謝される資格なんて、僕にはないんだ…それに、このあと君が行く国を知る資格も…」

僕の言葉を聞くゴンベエの眼差しは、温かいようで冷たいようで。国軍右将軍には行き先を伝えているんだろう?と問えば、僕の期待に反してゴンベエは首を振った。

「…でも、バルカークに話せば、万が一アリババが帰ってきたと」

「そのときわたしが別の国に移っていたら、アリババ様に無駄足を運ばせてしまいます。それに…いつ帰られるかわからないアリババ様への言伝を、何年もバルカーク殿に託すわけにはいきません」

寂しそうに語るゴンベエは、駐屯基地の壁時計を見て立ち上がる。自分の乗る船がそろそろ来るから、と元王宮料理人は僕に早く城に戻るよう告げた。僕も僕で伝えたかったことを伝え、渡したかったものを渡せたわけで。官職たちの目を掻い潜って港まで来て、さらに逃げ回ったことに悔いはない。

ゆっくり立ち上がった僕は、元王宮料理人と別れの握手を交わす。バルバッドで最後にゴンベエが教えてくれたのは、数年後に僕たちが再会する場所。

「これからわたしが向かうのは…アリババ様が憧れていた方の国です」



[ << prev ] [ 233 / 248 ] [ next >> ]
[ Back ]
[ Bookmark ]

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -