浮遊(153)
レーム属州・カタルゴに入って1週間。エリオハプトに世界地図を忘れてきたわたしは、人通りのない場所で1人路頭に迷っていた。素直にシャルルカン様に甘え、王宮までとはいわなくても、せめてレーム本国まで送ってもらうべきだったと悔やむ。
"ファナリス兵団"にマスルール様がいると知ったのは、アルテミュラに入国した日。アルテミュラ到着の1週間前に発表された、シンドリア商会の目玉商品・"通信器"がきっかけだ。
"国際同盟"加盟国の国主だから、と一般発売に先立って通信器を入手したピスティちゃん。そこにマスルール様の連絡先が登録されていて、交信すると彼の居住国が発覚した。
羅針盤もなく、どの方角に行けばレーム帝国の敷地を跨げるかなんて、さっぱりわからない。道程の見えない旅路は精神的にきつく、気づけば呼吸も浅くなってくる。草花ばかりを食すわたしの栄養は偏り、身体も限界を迎えようとしていて。
「もう無理…」
手持ちの食材はとうに尽きていた。ここまで生きながらえたのですら、職業料理人として調理や栄養の知識があったからこそ。ずぶの素人だったら、3日前には死んでいただろう。
「…もう一度、ジャーファルに…会いたかった」
重力に抗う力すら持たない瞼は、わたしの生きる意志に反して下がった。
目を閉じてしばらくすると、空に浮かぶような感覚がわたしの身体全体を包む。その浮遊感は、父に背負われるような安定感にいつしか変わっていって。心地いい安定感に身体を預ければ、だんだん意識が遠のいた。
意識がはっきりしてくると、周囲の騒がしさがやけに耳をつく。目を開けると、見覚えのある顔がわたしを覗き込んでいた。
「あっ、ゴンベエさん!」
「モ、モルちゃん…?」
モルちゃんと顔を合わせるのは、白龍様の即位式以来、約1年ぶり。最後に会ったときより顔つきが大人びているものの、モルちゃん自身は変わりないように見える。
誰かを呼びに行くと言い、わたしの元をモルちゃんは離れた。上半身を起こして周囲を見渡せば、見たことのない光景が広がっている。レームでも煌帝国でも、バルバッドでもシンドリアでもない。しかし、現在地はわからなかった。
「ゴンベエおねいさん!起きたんだね」
そう言ってわたしの元にやって来たのは、アラジンくん。彼もまた、随分と背が伸びて大人っぽくなった。
「き…鬼倭王国?本当に?」
驚愕の事実にアラジンくんの両肩を揺らしながら質せば、カクカクと彼は首を縦に振る。鬼倭国は、煌帝国よりも東に位置する島国。煌や凱、吾とは古くから朝貢関係にあった。"七海連合"や"国際同盟"の加盟国だが、多くは謎に包まれている国だ。
「さらに正確に言うと、ここは鬼倭王城です」
「…白龍様」
即位式以来の白龍様に、思わず目を逸らしそうになる。あまりに心臓に悪い。軽く心を落ち着けてから白龍様に向き直せば、不思議そうに小首を傾げてらっしゃって。遠い日の幼子の面影を見出すと、1人わたしは心の奥で安堵する。
煌帝国の皇帝陛下が鬼倭にいる理由を、白龍様に尋ねようとした。しかし、わたしの問いを耳馴染みのない男性の声が遮る。
「おう、起きちゅうか?」
白龍様の背後から顔を覗かせるのは、逆毛の男性。角飾りのある鉢金を頭につけている。背丈はかなり大きく、マスルール様やムー・アレキウスといったファナリスたちといい勝負だろう。
「彼は…鬼倭国の倭健彦国王です」
モルちゃんの説明に、込み上げる感情を抑えて拱手とともに頭を下げた。
「シンドリアの王宮料理人ゴンベエ・ナナシノでございます。この度は命をお助けいただき、ありがとうございました」
「気にしなさんな。たまたま倒れたおなごを見つけたから、連れて帰っただけぜよ」
どういうことかと問えば、たまたまレーム属州カタルゴ周辺で空中散歩をしていたとき、倒れていたわたしを発見したらしい。瀕死の状態だと気づくや否や、わたしを背負ってこの城で匿ってくださったのだ。
「俺たちとゴンベエ殿に面識があったからいいものの、見ず知らずの女性なら人拐いになりかねませんよ」と健彦様に仰るのは白龍様。わたしの荷物はモルちゃんの部屋にある、と白龍様の隣でアラジンくんが教えてくれた。
「…倭健彦王。恩返しとして、わたしを厨房で働かせてください」
純粋に命を救われた恩を返したい。しかし、それ以上に、鬼倭王城で働く千載一遇のチャンスを逃したくなかった。この島は働きたくて働けるような場所ではないから。
半分、いや、8割は下心と欲だ。両親ですら渡航歴のない鬼倭国で料理修行を積めれば、料理人として両親を越すことも現実味を帯びてくるかもしれない。
「ゴンベエおねいさんは、凄腕の王宮料理人なんだ。ゴンベエおねいさんの料理を食べたいし、僕からもお願いするよ」
アラジンくんの口添えもあり、急遽わたしは鬼倭王国で料理修行をする機会を得た。
栄養失調で倒れたわたしが鬼倭王城で働くのは来週から。わたしが目覚めたのは夕方だったようで、アラジンくんが空腹を訴えた。
アラジンくんとモルちゃん、白龍様と一緒に食堂に行き、鬼倭の料理を初めて口にする。本場で食べるのはもちろん、鬼倭の料理すら食すのは初めて。他の国の料理とは随分異なる味付けに、寝室の荷物から持ち出した羊皮紙に記録せずにはいられない。
その間にアラジンくんたちから聞かされたのは、衝撃の事実の数々。今わたしの目の前にいらっしゃる白龍様は、もう煌帝国の皇帝ではない。帝位を白龍様は自ら退かれ、現在の第五代皇帝には紅玉様が就任していた。
「なるほど…」
また、"玉艶様を白龍様が殺した"と会談会場で聞いたものの、"アルバ"は生きている。しかも、今の"アルバ"が憑依するのは白瑛様。さらに驚くべきは、"ダビデ"とシン様が繋がっていたことだ。あることを実現するため、アラジンくんの力をシン様が欲しているという。
"あること"について、わたしに3人は語ろうとしなかった。しかし、それぞれ"ダビデ"と"アルバ"を内包するシン様と白瑛様が手を組み、アラジンくんを仲間に引き入れようとしたらしい。
2人と戦った末、シン様から逃げるように、モルちゃんとともにアラジンくんは鬼倭国に身を寄せた。"ザガン"の金属器を持った白龍様がこの国に来たのと、同時期だという。3人が鬼倭国にいる事実は、限られた人しか知らない。
「"金属器"を持ち出したって…大罪ですよね?白龍様は世界指名手配犯なのですか?」
「健彦殿も"金属器使い"で、俺同様に世界指名手配犯です」
白龍様の言葉に、ずっと抱いてた疑念が確信に変わる。自分の命を助けていただいた恩と、大切な人の命を狙われた怒り。双方で揺れるわたしの気持ちは、取り乱す寸前で留まった。
「ゴンベエさん…?まだ具合が悪いんで」
「…紅明様を襲撃したのは、健彦王なんでしょう?」
わたしの発言に、3人は言葉を詰まらせる。鬼倭の"金属器使い"によって、紅明様が重傷を負ったと聞いていた。わたしの命の恩人であり、かつての主の1人である紅明様。彼に大怪我を負わせた者を、1年以上経ってもわたしは許せずにいた。
「…大丈夫。健彦王をわたしは殺さないし、殺せる力もないから」
そう言って、わたしは麦酒に口をつける。顔を上げてすぐ視界に入ったのは、どこか複雑そうな表情を浮かべる白龍様。今の彼の姿に、自身の浅はかさに気づく。目の前の白龍様は、もう復讐を終えたのだ。それなのに、今度はわたしが復讐に囚われている。1年前の禁城で、あんなに白龍様を責め立てたのに。
「白龍様、ごめんなさい…自分のことばっかりで。白龍様のほうがずっと紅明様を心配なさっているはずなのに…」
「誰が心配するもんですか、紅明なんて…」
顔を赤くして反論する白龍様には、説得力がない。わたしのよく知る、泣き虫で優しい末っ子の白龍様と根本は同じだと気づく。白龍様と紅炎様の仲直りは、最後まで叶わなかった。しかし、紅炎様の弟君たちと白龍様がいい関係を築ける未来を、わたしは願わずにいられない。
「暗黒大陸の上空…」
部屋に戻り、布団を敷きながらモルちゃんに島の現在地を尋ねた。まさか暗黒大陸の上空とは思わず、窓から地上を見下ろす。しかし、夜だからか何も見えない。
他の世界同様、暗黒大陸の夜が暗いのかすら、わたしは知らなくて。外の暗い原因が高度にあるのか時間帯にあるのか、判断するのも難しかった。
「"アルマトラン"の遺跡と、アラジンくんの魔法の力とはいえ…」
島一つが空中に浮かぶなど、とても信じられない。シンドリア王宮の中庭で飛空艇を初めて見たときも度肝を抜かれたが、飛空艇が空を飛ぶのとは訳が違う。
今晩食べた野菜は、31年で培った知見にはない形や味だった。アラジンくん曰く、暗黒大陸はルフが違うという。もっとも、そんなことを言われたところで非魔導士のわたしには一切理解できない。
いくら理屈で理解できなくても、"未開"の地で採れたと説明されれば、無理にでも納得できる。いや、納得させるしかなかった。
「…早く働きたいな」
ササンやアルテミュラ、イムチャックにエリオハプトと旅を続けたわたし。王宮料理人としての知識欲は、常に刺激され続けてきた。これまで訪れた国々にも未知のことは多かったが、鬼倭国はその比ではない。
いい意味で、これまでの常識が一切通用しないのだ。鬼倭国の料理を知り尽くしたい気持ちで、胸がいっぱいになる。シャルルカン様と別れてからの1週間は、文字通り死にそうだった。しかし、それを耐えたからこそ、この機会を得られたのだ。
「モルちゃん、おやすみ」
自分の強運に感謝しつつ、久しぶりの敷布団でわたしは熟睡した。
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