stand by 3
二ヶ月後。
何考えてんだ、はもはやかの大佐に向けてではなく、彼が自分自身に問いかける台詞に変わっていた。彼女と居るときはいつもそう自問する。そう、彼女と一緒に居ることがある、というのがそもそも「何考えてんだ」状態ではあったのだけど、今さら言っても詮無いこと。ダルメシアンはすでに色々諦めていた。

「フィ…ダル君!今日はあっち」
「…今日は誰も居ないでしょうね」
「居ないわよ、皆夕御飯の時間だから」

とは言ってもここがマリンフォードである以上、まったく誰にも会わずにやり過ごすことは中々に難しい。かつかつとヒールを鳴らして歩く大佐の隣で、彼は鼻からため息を漏らした。ほぼ週一のペースで行われている彼女との散歩は、実はこれで七度目だ。つい先日も某中将とばったり出くわしてずいぶん恥ずかしい思いをしたし、同じ部隊の先輩たちに見つかったときもまたひどかった。
しかし、こうでもしなければ気づけなかった彼女の一面を、ダルメシアンはもう何度も目にしていた。その中のひとつがこの笑顔。このひとのこんな表情を知っているのは、あの犬のスリッパを見たことがある者くらい少ないらしい。そう教えてくれたのは彼女の同期のモモンガ大佐だ。あのひとは悪いひとではない。正確に言うとほかより邪気がないと言うべきだろう。君が彼女の犬なのか、とまったく悪意のない笑顔でそう言われた。初対面のときに。
ジョアナ大佐の希望通り、こうして散歩をするようになったのは大尉が許容したからにほかならない。あの日、何故そんなことを言い出したのかきつく問い詰めた手前、理由を聞いたら許さざるを得なくなった。何と言うか、同情、だろうな。もう一度鼻から息を吹き出し、獣型ダルメシアンは隣を行くジョアナ大佐をちらりと見上げる。

「フィ…ダル君!見て!凄く綺麗!」
「あー…眩しいですね…」

見事な夕陽ではある。が、そこまではしゃぐほどのものでもない。きっと彼女の崇拝者たちは、大佐のこんな姿は夢想だにしないだろう。こんな、子どもみたいに喜ぶ様を目の当たりにしたら、卒倒するのはひとりやふたりじゃないはずだ。なんたって女王様なんだから。
このヒールは、実は背の低さを隠すため。ひとにそっけない態度を取るのは、ただの人見知り。フィフィは、彼女の大切な家族の名前。これは彼女自身が話して聞かせてくれたことでもあるし、共に過ごすようになって彼が気づいたことでもあった。そういったことを知っているのは、この笑顔を知るものよりもっと少ない。


昔々、ジョアナがまだほんとうに子どもだったころ、彼女の家では一頭の犬を飼っていた。白い体毛に所々黒い斑のある、犬種ははっきりしない、雑種の大型犬だった。父親が遠征先で拾ってきたそれは元はとても小さな仔犬で、彼女がフィフィと名付けた。なんとなく可愛らしい響きだったからだ。兄弟の居ないジョアナにとったら年の離れた弟ができたようなもので、四六時中ひっついて餌やりから散歩、シャンプーもすべて彼女がやった。海兵である父や病気がちな母が不在の間はフィフィと寄り添って眠った。大事な大事な家族だった。
しかし、当然そのときは来る。何の前触れもなかった分、受けた衝撃は大きかった。フィフィは十八年生きた。じゅうぶんに長生きだったと言える。年は取っていたけれどまだまだ元気だったのに、と言ってジョアナ大佐はまた泣いた。ティッシュが足りなくなるんじゃないか、と大尉が心配するほど泣いた。

「広場であなたを見つけたときね、すごく驚いたの…右目の斑とか、頭のてっぺんの毛並みとか…鼻の形までフィフィにそっくりだったし…」
「……」
「でも、フィフィの耳はピンと立ってたし、斑の数はもっと少なくって尻尾の毛足はもっと長かったの…それでもよく似ていると思って…だから…」

そこまで何も言い返さずに聞いていた大尉は、少しの間を開けてわかりました、とそっぽを向いて呟いた。話の内容を理解したのか、それともその内容に呆れられたのか、とにかく如何様にも受け取れる彼の言葉に大佐はうなだれて謝るしかなかった。だから続けて大尉が言い出したことに彼女は目をぱちくりさせ、え?と聞き返すことしかできなかった。

「あんまり自分から言いたくはないんですがね…条件付きでなら、と言ったんです」
「え…?何…条件って…?」
「海兵の居る前ではやりません。犬用の餌は食いませんし、ボールやブーメラン遊びも結構。それに、リードや首輪はもちろんなしです。おれは勝手に逃げ回ったりはしないんで、ちゃんとあなたの隣を歩けますから」
「え…あの…」
「散歩に付き合うと言ってるんですよ」

ここであの笑顔をはじめて見た。大尉がちょっと面食らったのは彼だけの秘密だ。意外に可愛かったなど、口が裂けても言えない。ここ最近言いたいことを飲み込む技術に磨きをかけてきていたから、隠すのは造作もなかったけれど。


同情だ、間違いなく。と大尉は頭の中で繰り返した。彼自身、似たような思い出があったからだ。彼の場合は猫だったけれど、亡くしたときは弟や妹は大泣きしたし、自分もずいぶん落ち込んだ記憶がある。上の兄貴たちですら涙ぐんでいたもんな、皆あの子が大好きだったから。しばらくは似たような三毛を見かけるたびに、思わず名を呼びそうになったものだった。
同情だよなあ、これは。だからフィフィと言い間違えられても、友人や昔の恋人にすら言われたことのない呼び名で呼ばれても、大尉はもう何も言わなかった。綺麗にお座りした彼の隣に座り込んだ大佐が寄りかかってきても、耳の後ろをカリカリされても頭を撫でられても、黙ってされるがままになっていた。何考えてんだろうな。

「昨日はね、朝から大変だったのよ」
「……」
「何人か怪我しちゃったし…艦もちょっと壊れちゃったし…」
「……」
「駄目ねえ…ほんとに私…」

どんなに小さな声で呟いていても、彼にはしっかり聞こえている。聞こえていても何も返さなかった。彼女が返事を必要としていないからだ。かつてフィフィにも、彼女はきっとこうして色々話しかけていたに違いない。フィフィならどうしていましたか。こうして黙って寄り添うだけでしたか?あなたの頬を舐めましたか?ワンと吠えて応えましたか?
そればっかりはわからなかった。彼はフィフィではなかったし、そもそも犬でもない。彼女の家族でもなかったし、まだほんの数回一緒に歩き回っただけだ。けれど彼女の独り言が終わるまで、彼はいつも黙っていた。弱々しい声がいつもの調子を取り戻すまで、じっと犬らしい姿で隣にいた。

「大尉、ごめんなさい。遅くなったわね」
「…別にいいですよ」

おれはあんたの犬でしょう。
もう少しでそう言うところだった。もちろん飲み込んだ。何考えてんだかな、ほんと。

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -