沢山あるけど
遠くから鳴り響く小さな足のパタパタという音と、自分の名を呼ばわる可愛らしい声。
数日分の遠征の報告書と束になった資料を抱えたままペルは後ろを振り返った。何やらその腕には大きすぎるほどの箱を抱えた王女が、ずいぶん危なっかしげにこちらへ駆けてくる。

「ペールー!」
「ビビ様、転んでしまいますよ!」

副官の予想に反して王女は無事彼のもとにたどり着いた。
息を切らし、しかし小さな顔には満面の笑みを浮かべ、こちらに、と膝をついて箱を受け取ったペルを見上げる。書類も箱も重たいだろうに、彼は軽々とそれを持ち上げた。

「ね、ペル、お願いがあるの!」
「私にできることでしたら何なりと」
「あのね、お化粧教えて!」

今日も元気一杯の王女を微笑ましく見ていた副官は、目線の高さを合わせたままきょとんとした。化粧?何故自分に?
書類の上に置いた箱に手を伸ばしたビビが嬉しそうに蓋を開ける。中には口紅や頬紅、眉墨や色とりどりのアイシャドウ、それに何種類ものメイクブラシが並んでいる。

「これは…どうしたのですか?」
「ママの!パパがくれるって!」
「王妃様の…?」

先日、いつも賑やかな娘が妙に静かだなと気づいたコブラが辺りを探したとき、彼は妻の鏡台の前に座るビビを見つけた。
しばらくじっとその小さな後ろ姿を見つめ、ちっとも父の気配に気づかず鏡の中を覗く彼女にためらいがちに声を掛けると、びくりと肩を震わせて幼子は振り返った。王は一瞬の間を開けて爆笑した。
小さな唇を大きくはみ出た口紅が、ピエロのように見えたからとは言わなかったけれど。
叱られると思って身をすくめていたビビは、目尻の涙を拭いながら近づいてきた父が伸ばした右手に頭を撫でられ、不思議そうに彼を見上げたのだった。

膝の上に乗せた娘の口元を蒸しタオルで拭いながら、彼は穏やかに語りかけた。
あれはパパがママにプレゼントしたんだ、綺麗な赤だろう?ビビにもその内あげよう、もう少し大きくなってお化粧が上手になったらね。そのときはこれも全部持っていくといい。
その言葉を素直に受け取ったビビは、しかし父の意図をちょっと間違えて解釈した。何故だか彼女の頭の中では、化粧が上達したいのなら母の化粧道具を使えばいい、と言われたことになっていた。

そんなやり取りがあったことも知らない副官は、いいでしょー、と言ってにこにこする王女をほんの少しの困り顔で見返した。
これを使って一体どうしてやったらいいのかわからない。

「あの…ビビ様、お化粧でしたら男の私より女官たちの方が…」
「だって、ペルが一番お化粧が上手だもん!」
「…私のこれは女性のするものとはまた別ですよ…」
「ペルがいいの!」

白塗りの面に目元の太いライン、頬に伸ばされた濃い紫。唇にも確かに色を乗せてはいるが、彼の化粧は女たちのそれとはまったく違う。
己を美しく見せるためのものではない。彼の故郷の、男たちの風習だ。広いアラバスタの他の地方では女性も似たような化粧をすることがあるが、ペルがこれをしているのは彼の能力に都合が良かったこともあったし、とにかく、他にも理由があってのこと。
仮に教えるにしても今手にしている道具類は彼の普段使うものとはやはり違うし、そもそも自分以外の誰かに施したり教えたりしたことなど一度もない。

そうは言っても、結局王女のお願いには敵わない。わかりました、とため息混じりに応えたペルは、喜ぶビビの後ろに従って執務室への道をゆっくりと歩いた。


さてどうしたものか。
椅子に腰かける王女の隣で膝立ちになり、白粉を手にしたままペルは箱の中を見回していた。鏡を取り出してデスクに置いたはいいが、筆やら刷毛やらがいくつもある。絵を描くようにしたらいいのだろうか。
ブラシの先をまじまじと見つめ、多分これだろうと幅の広いひとつを選んで彼はビビと向き合った。そうしてまた悩んだ。このきめ細やかな柔い肌の上に白粉をはたいたって何にも変わりやしない。むしろ肌に悪くはないだろうか。
早く、と急かされて王女にブラシを握らせ、内側から外側に向かって、と手振りで示して見せると、彼女はきゅっと目をつむって筆先を滑らせた。

「えーとですね…鏡を見ながらなさった方がよろしいかと…」
「でもくすぐったい!」
「もう十分でしょう、お次はこちら…今度は多分…ポンポンと叩くように、です」

桃色の頬の上にさらにチークを乗せたってきっと変わらない。丸いブラシで頬紅をほんの少し撫で、差し出された小さな右手に手渡す。
ぷくりと膨らませた左右の頬に言われた通りにはたいてはいるが、どうもこれでいいものか疑問が残った。
かつてこれを使って化粧をしていた女性は、どうしていたのだろう。考えてみても見当がつかない。
ティティがまだ彼の近くにいたころ、彼女は普段化粧らしい化粧をしていなかった。嫁いでからは当然メイクをしている場に居合わせたことなどない。居合わせようはずもない。
ほんとうなら、王女だって男の護衛兵ではなく母にこうして教えてもらいたかったのではないだろうか。母親の方でもそうしたかったに違いない。
ペルが遠くの方を見つめて物思いに耽っていると、隣からできた!と元気な声が聞こえた。

「お上手です、ビビ様。今度は、えー…口紅も塗りますか?」
「んー…この前やったんだけど、失敗しちゃった…ペルがやって!」
「私がですか…」
「ペルはいつもキレイに塗ってるもん」

その口元を緩ませてペルは笑った。かしこまりました、と言って細めの筆を手にする。
先をしごいて紅をつけ、左の親指の付け根でならして彼は改めてビビに向き直った。
失礼します、と控えめに王女の顎先を指で支え、薄い唇に乗せていく。いつもは大きく開かれて笑いの形をとっているそれは、今はきちんと閉じられ少しすましているようにも見えた。

「終わりました、いかがでしょう」
「わー…やっぱりペルは上手ね!ありがとう!」
「どういたしまして。これで完成ですね」

にこにこと嬉しそうに鏡を見つめる王女は、まだ、と言って振り返った。ビューラーを見えない位置に隠していたペルは、これ以上どこに塗りたくってやればよいのやらと首をかしげる。
しかし、目のお化粧も、と言われ、ああと返した彼は箱の中のパレットを取り出して蓋を開いた。青や緑や、桃色やオレンジ色、品のいいゴールドやブラウンまで色々ある。

「どれになさいますか?お好きな色を選んでください」
「これじゃなくて、ペルのがいい!」
「私の…?」
「そう、かっこいいからこれがしたいの」

短い腕を伸ばして彼の瞼に触れる。小さな指先に撫でられ片目をつむったペルは、しかしこれはほんとうに女性のするものとは違うんですよと再び困った顔になった。
飛ぶときに便利なだけで、元々は西の地で、大人の男が祭りのときにするだけなんです。魔除けとかそういった類いの…と言って聞かせても、これがいいと言って聞かない。
仕方なく立ち上がったペルは、いつも彼が使う小さな容器を取りにわざわざ自室へ向かった。
彼が執務室に戻ると、床につかない足をぶらぶらとさせたビビがまだ鏡の中を覗いていた。

「お待たせいたしました、お持ちいたしましたよ」
「ありがと!おんなじにしてね!」
「では、目を閉じてください」

蓋を開け、小指の先に顔料をつけて王女の瞼に触れる。ゆっくりやるより一気に引いた方がいい。右も左も、素早く仕上げてペルは微笑んだ。彼女もあのとき、こうしてくれたんだっけ。
そうして出来上がった王女の顔は、宮殿に並べられた古い胸像の、千年も前に君臨したある王妃のそれにも見えた。

「ビビ様、出来ましたよ」
「すごーい!おんなじね!ねえ、ペルは誰に教えてもらったの?」
「実は…はじめはあなたのお母様からです」
「ママから?」
「はい、私が初めて空を飛んだとき、すごく眩しくて…王妃がこうしてくださったのです」
「へえー…ママもお化粧上手だった?」
「ええ、そうですね。きっとビビ様もその内、もっとお上手になるでしょう」

タオルで手を拭うペルの隣で、ビビはにっこりと笑った。そうして副官が道具をあらかた片付けたとき、王女はまた腕を伸ばして彼の頭をつかまえた。
驚いた彼の頬の、ラインの引かれたちょうどすぐ脇に、ちゅっと音をたてて唇を押し付ける。

「ペル、ありがとう!」
「ビ、ビビ様!」
「この前ね、チャカがキレイなお姉さんにそうしてたの。仲良しなひとにありがとうって言うとき、こうするんだってー」

顔をわずかに赤らめた副官は、あいつ、と呟いて左の頬を押さえた。あいつは一体、子どもの前で何をしているんだ…。

パパはいつもしてくるけど、と言いながら椅子から滑り降りた王女は、その父に練習の成果を見せるために駆け足で執務室をあとにした。
残された副官は鏡を持ち上げ、白い頬に残された小さな赤いしるしを見てため息をひとつついた。


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