本当の真逆は嘘ではない(黄猿、つる)
部屋に明かりが点き、スクリーンは片されひとも半分以上は解散していたが、彼は椅子に深く腰掛けたまま立ち上がるそぶりも見せなかった。色眼鏡を押し上げるようにして指先で目頭を揉み、それでもくたびれている目を何度も瞬かせ、ため息をひとつつき、肩と首筋とに手を伸ばす。一番に出ていった男を追いかけようかと、ほんの一瞬思いもしたが、それが互いにとって一体何になろうと鼻で嗤って腕を下ろした。

「ボルサリーノ、暇なら手伝っておくれ」
「暇なわけねぇでしょう。艦はすぐ出るんですから」

今ここに手隙なやつなんて一人も居ない。そう言って彼は微笑んだが、向かいの席の大参謀は口元にわずかな呆れを滲ませて幾つもの資料をまとめていた。どっちだい、と返されて意図をはかりかねた無言の彼に、手伝うのかどうか、と彼女が続ける。黄猿は腰を上げ、目の前の紙束を適当に丸めてポケットに突っ込んだ。彼女の分はとてもじゃないが丸められない。気を利かせた佐官のひとりがこちらに足を向けたが、右手の一振りでそれを止めた彼は山になったファイルのほとんどを引き受けた。


「あんた、いつからあんな楽天家になったんだい」
「お説教はよしてくださいよォ」
「説教じゃあないさ」

細い背の後ろにつき、ひと気の少ない廊下を歩んでいく。いつもなら気にならないつるの歩調が、いやにのんびりしているように思えた。だから今度はきちんと答えられたのだ。きっと誰かからこう言われるだろうと、ある程度予測していたのもある。誰か、という点で言えば、やはり彼女からだろう。こちらの発言を真っ先に否定したのが彼女だった。だからこそ、彼女に声を掛けられるまで動こうとはしなかったのかもしれない。

「あれじゃあ楽観というより、まるで希望だね」
「さあ、単に可能性の話をしただけで…それにわっしは『死んだ』とは言っちゃいませんよ」
「『そうであれば』、と聞こえた気がしてね」
「まあ、その方がよっぽど楽でしたからねぇ」

ほんとうに、と続けた言葉を噛み締め、あとは喉元で押し留めた。本当に死んでいれば、あの人さえ居なくなっていれば、あとはどうというほどのことでもない。中将や大将まで駆り出される必要はない、艦の数ももっと減らせる。彼が死んでいたなら、もう一度殺しに行く必要はない、あいつがそう命じる必要もないのだ。ちらと振り返ったつるに苦笑し、口を閉じたのは間違いでなかったのだと気付く。全部分かっている相手に、わざわざ聞かせることもないだろう。

「わっしがちゃあんと仕留めておくべきでしたねえ」
「仕方がないさ、次は間違いなく出来るだろう」
「そう踏んだから遣わしたんでしょうよォ。今度も、この間もねェ」

ほんとうなら、あいつが行きたいのではなかろうか。身動きの取れない不自由さを今でも時折厭わしく思っているくらいだから。二年前、内心務まるのかどうかと考えたのはこれが分かりきっていたからだ。他人を自分の手足として使うより自ら出ていくことを好む。けれど、彼はきちんと役割をこなしている。ひとから求められるものを体現できるのは彼でこそ、今も昔もそうじゃあないか。その彼が部屋を去り際「頼む」と言ったのだ、他には聞こえない声で。求められ続ける男の求めには、どうあっても応えるしかない。

「結果が同じであれば、どうやろうが誰がやろうが構わない」
「へえ?」
「サカズキがね、そう言い聞かせていたのさ。でっかい独り言だったね」
「そうな…ンン?わっしも考え事を口にしていましたかい?」
「いいや。それに、あんたが言うように、出来ないことはひとにはさせないよ。ひとが出来ないことをしてきたからこそ、と言う方がいいのかもしれないけれど。あんたもサカズキも」
「…なんだかおかしな話ですねえ」

実際可笑しくて、肩を揺らして笑った。可笑しいけれど、彼女の言う通りだろう。割に合わねえなと呟くと、そういうもんさ、とため息混じりの囁きが聞こえる。ひとに迷惑をかけるな、不快な思いをさせるなと散々言い聞かせてきた男の、不憫な理不尽さが余計にそう思わせた。
そうして彼女の執務室の扉が見えてきたころ、ぼんやりと思い巡らせていた彼はもう一度表情を緩めた。自分たちでなくとも単に「出来る」兵は他にも居るだろうに、艦に乗る顔ぶれをざっと思い浮かべ、使い古された手足ばかりじゃないかとさらに笑いが込み上げたのだ。

「ねえおつるさん、こりゃあアンタでもやれませんかい?」
「これ以上婆さんをこき使うのはやめとくれ」
「ねえ?」
「その時になってみないと分からないような駒は使わないよ、あの子は」

意地悪言うんじゃないよ、と微笑み、つるは扉を開いた。お駄賃と言って差し出された飴玉を受け取り、苺味はねえんですかい、と黄猿が笑った。

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