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「ねえねえ、イギリスってどのへん?」
「……田中、さすがにこの年でその発言はアウトっつーかやばいショ」

 化石標本が並ぶ低めの棚の上には、大きな大きな地球儀が一つ。
 それをぐるぐると回しながら冗談めかして問えば、これ以上なく失礼な返事と半眼が降ってきた。

「いや、まあ、確かに面白くないこと言った私が悪いんだけど、でもどうせならもうちょっと優しく返してよ。で、巻島の行くとこってどのへん?」
「んー……そうだなァ……」

 ぐいと、巻島との距離が近付く。いつもの汗や制汗剤の香りならまだ慣れているのに、今日に限ってそのどちらの匂いもしないのが変に気恥ずかしい。けれど。自分より低い視線に合わせる為にだろう。私の少し後ろに立って、わざわざ前屈みになってまで覗き込んでくれる巻島に、不自然な様子は一切ない。

 添えただけの私の左手に触れるか触れないかの距離で、真後ろから伸びた巻島の左手が地球儀を回す。
 下手したら、巻島の息が耳にかかりそうだ。
 ああ、どうしよう。嫌味な程に自然体な巻島の隣で、私だけがドキドキしている。

「うわ、やっぱこのサイズでもちっせえショ。……んー、ここって言って、おまえわかるかァ」

 あーだのこーだの言いながら無防備に首を傾げる度に、よく手入れされた長髪がさらさらと揺れて……あ。ついに、その一房が私のむき出しの二の腕を撫でた。ふわりと、たったそれだけ。……それだけだというのに、じわりと身体が熱を持つ。くすぐったいような、もどかしいような、全身の感覚が左腕に集まるような。

「えーよく見えない。この、親指の真ん中よりちょっと上らへん?」

 わざと少し外したポイントを指定して「どう?」と巻島を見上げ……私は固まった。ああ、どうしよう、やめとけばよかった。頭でイメージしていたよりずっとずっと近いところに巻島の顔があって、しかもこちらを向いていて。あまりの破壊力に、瞬間で後悔のどん底へと落とされる。

「だから、そこはちがうっショ」

 だというのに、当の本人は私のウブなハートなんてお構いなしというもんだから、もう堪らない。
 目じりを下げてこちらを見つめる巻島は、どう見たって余裕のない私とはかけ離れたところに居る。
 あとほんの少し近付いて、あとほんの少し腕に力を込めてくれたら、抱きしめられてしまう。そんなことにも、巻島はきっと気が付いていない。


 ああ……恋心とは、なんとも不思議なものだ。
 マイペースにとっておきの笑顔を見せる巻島に、気付けばドキドキの恋心は一回転して裏返り、いつのまにかむしろ苛立ちと呼べるそれに変わり始める。

 巻島にとって私は、少なくとも「女友達」と括れる程には、よく喋る女子の筈だ。(ちなみに、巻島に私以外の「女友達」が居る様子はない。)
 自転車から離れた途端にレア度が跳ね上がる、なんて言われている巻島の笑顔だって、結構頻繁に見てきた自信がある。それどころか、向けられてきた自覚がある。高校生にはかなり高額なツール・ド・フランスのDVDを、参考になるかもしれないし貸そうかと巻島の方から申し出てくれたりもした。
 親しさの度合いだけで言えば、彼のクラスのどの女子よりも……いや、学年中の女子の中で、別格扱いされているという自負はある。
 けれど、それが男女のそれなのか、理解ある同世代に対しての友愛なのか、そこが読めない。
 地球儀に添えたこの左手に指先が触れたところで、私の肩と巻島の胸の熱が混じったところで、こいつにとっては田所が肩を組んでくるのと同程度の認識かもしれない。
 いや、まあ、田所レベルに思ってもらえれば、それはそれでむしろ光栄なんだけど、ああそうじゃない。違う、そういうことじゃない。
 目が合うだけで、近付くだけで、私はこんなにもドキドキするのに。
 走っている姿を見る度に、あんなにも胸が熱くなるのに、という話だ。
 あれもこれもそれも全部、私にとっては特別で、秘める恋なら別にもうそれでもいいと思っていたけれど……やっぱり、ここまで異性として意識されないなら悔しいよ。


 スイッチが切り替わった思考の片隅で、ふと思う。
 余計なことを言って困らせるのはやめようと思っていたけれど、そこまで気を使う必要が、果たしてあっただろうか。

 先輩との軋轢に、地元レースに、初めての後輩との関係に、スランプに、遠征レースに、地元レースに、増えた後輩に、インターハイに、引越しに。そして今後は海外での生活に、向こうの大学に、お兄さんの仕事の手伝いに、やっぱりレース……ああ、なんだ、結局いつでも同じなのだ。

 巻島という男は、いつだって登る男なのだ。
 山がなければ山を探して、登り終えたら次を探して。

 しかも本人は器用で皮肉家だと自称するけれど、ぐにゃりぐにゃりと曲がりながら楽しそうに登る姿は正直なところ……いっそ不器用な程のロマンチストだと思えてならない。
 そんな巻島だ。大事な時期だし邪魔をしないように、なんて思い上がって機会を窺うだけの私が入り込める平地や下りなんてものは、きっと未来永劫に存在しなかったのだ。

 ねえ、巻島。
 今忙しいことも、こんなことに気をやる余裕がないのも、簡単に想像がつくんだけど……でもさ、私、やっぱり諦めたくないの。だって、気が付いたんだから。
 お願いだよ巻島。もうちょっとだけこっち見てよ。
 そしてどうか、もっと私を意識してよ。
 今なら、まだ充分間に合うんだから。

「ねえ巻島、向こうの住所教えてよ。年賀状出すからさ」

 来年の干支ネタですっごくいいの考えてるから、巻島にも送りつけたい。
 できる限り不敵に見えるよう笑ってみせれば、巻島の目が丸くなった。

「年賀状……クハッ。今時、年賀状って。干支でいいネタって、おまえ。しかもわざわざ、エアメールでとか。クハ、本当におまえって奴は……ショ」

 口元をむずむずと動かしながらしばらく耐えてみるも、結局耐えきれずに笑い始める巻島。けれども、その笑いはすぐに引っ込んでしまった。

「けど、悪いけどオレ、年賀状に返事って出したことねェんだわ……」
「え、そうなの!? って言いたいけど、ごめん。あんまり意外に思えないっていうか、安定の巻島ぶりだなーって思う」

 どういう意味っショ!? 冗談めかしてムッとしてみせる巻島に、今度は私の笑いが止まらない。ああもう、こんな姿も可愛く思えるんだからやっぱり私は手遅れだ。

「まあ、じゃあさ。返事はいらないから、気が向いたらクリスマスカード送ってよ。イギリスで売ってる、キラキラしてるやつ!」
「……いや、それ年賀状より早ぇし、返事どうこうって話じゃなくなってるショ。……つーか、オレがそういうの苦手だって、さっきから言ってんショ!?」

 いやぁ、前にテレビで見て憧れてたんだよねぇ。イギリスって綺麗で可愛いクリスマスカードのやりとりするんでしょ、私も欲しいなぁ。
「別にメッセージとかいらないしさ、もう本当にカードだけぽんと送ってくれるのでいいから、是非ここは一つお願いしますよ巻島くん!」
 モノマネなのかなんなのか自分でもよくわからない口調でそう言って、巻島の肩をパシンと叩く。
 ああァァァ、もうこいつマジで人の話し聞かねぇショ!なんて声をそっちのけにくるりと身を翻して、ノートとボールペンを掴み、はいどうぞと差し出す。
「その通りに書くから、お手本よろしくー」
「……クハ。いきなりかよ。おまえなァ、オレが覚えてねぇとか考えねーの?」
 やっぱり、巻島は付き合いがいい。
 返さねぇ送らねぇと言いながらも、さして渋ることなく細い指はペンを受け取ってくれた。
 それにしても。巻島のことだからどうせ携帯にでも入れているだろうと予想していたのだけれど、まさかこんなにスラスラとそらで書くとは。少し驚いたのは、秘密だ。
「ねえねえ、私の住所はどうしよう。どっかに書いた方がいい? それともメールした方がいい?」
 コレで、と携帯を見せると慌てて手元を見る巻島。
 きっと、メールに気が付いているのならなんで書かせたんだ、とでも考えているんだろう。
「おいおいちょっと待て田中。送ればいいっつーなら、なんでオレには書かせたんショ」
 ビンゴ。えー、だってー。ずらずら英語打つのって時間かかるだろうなーっていう優しさなんだけど。
 口にしたのはもちろん嘘だ。巻島の手書きが欲しかっただけだ。

「まあ、上手くいったら春からは住所変わる筈だから。そうなったらまたちゃんと連絡するし、お祝いよろしく」

 携帯画面に視線を固定して大層図々しいことを言えば、視界の隅で巻島が顔を上げたのがわかった。

「あ、大学……他府県かァ?」
「うん。一応、初めての一人暮らしを予定……してます。うん」

 場所を言うと、ぼそりと「遠いなァ」と呟くから笑ってしまう。
 自分の方は海を越えてしまうというのに。


 あ。
 ふと思いついて、すっかり話題から外れていた地球儀に再び向き直った。
 そして、そっとその一点に指を置く。

「私がここで……巻島が、えっと……あー……ここだね」

 二点の距離は片手を広げた程度では到底及ばない。
 両手をならべてそれぞれの手のひらを目一杯に開いて……ダメだった。
 これでは意味がない。期待した演出には程遠い。残念に思いかけた瞬間、ああそうかと閃きが走った。

「巻島の手なら、ちょうどかも。ねぇ、ちょっと手かして」

 左手だけをそのままにして横に巻島の手を乞うと、ショッと小さな掛け声と共に大きな手が伸びてきた。巻島の右手と私の左手、親指同士がそっと重なる。こうしてならべると、差は一目瞭然。桁違いの大きさを持つ手のひらのおかげで、さっきまでの無謀さが嘘のようにあっさりとイギリスと日本が繋がった。

「やったぁ! さっすが巻島!」
「つーか、おまえの手が小さ過ぎってだけの話っショ」

 私の手と、巻島の手。ああ、これは最初に思っていたものよりも、ずっと嬉しい光景だ。
 なんだか少し、二人だけの秘密って感じかもしれない。
 湧き上がる思いのままで左上へと視線を向ければ、巻島もにやりと笑っていた。

 ……ああ、でも、同じように笑い合っても、私のソレとあんたのソレはきっと違うんだよね?

「巻島、私……巻島のこと、好きだなぁ」

 あれほど言いたくても言えなくて、一度と言わず何度も諦めた言葉。
 それが思わず自分でもびっくりする程にすんなりと、落ち着いた声色を保ったまま……唇を通っていた。

 ヒュッと遅れて耳に届いた音は、ぱちくりと瞬きをした巻島が酸素を求めた音だろうか。
 それとも、私の喉が軋んだ音だろうか。



(タイトル:otogiunion)

 

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