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 続きは家でやると言って図書室から去った筈の巻島は、やはりというか、なんというか。
 結局のところ、こうして校舎を戻る私の横を歩いていた。

「クハ……せいぜいこないだの部屋かスタジオ辺りだと思ったら、まさかこことは反則ショ」

 借りた鍵で開けたのは、週に数回の移動教室でしか使われることがない専用教室である。
 ひょっとしたら、ここに部屋があることを忘れている生徒もいるかもしれない……そんなレベルでひっそりと佇む教室が担当する教科は、選択科目の地学だ。壁面いっぱいに貼られた天体の資料や棚に並ぶ化石標本を珍し気に眺める巻島も例外ではなく、相当ご無沙汰のようだった。あるいは、初めてなのかもしれない。
 ちなみに、好意で融通してもらったわけなので、男子生徒を一人追加してもいいかというお伺いはここに来るまでにちゃんと立てている。

「あの先生、めっちゃ眠い授業だけどめっちゃ楽なテストって評判ショ」
「あはは、そうそう。私もいっつも寝ちゃうの。でも、そんなんでも質問しに行く度にいつも凄く丁寧に教えてくれるし、いい先生だよ」

 本当は、寝てないでちゃんと受けなきゃいけないんだけどね。
 突っ込まれる前にそう言って自衛すれば、なぜか巻島は奇妙な顔を向けてくる。
「あー……そうだな、おまえそういうとこ意外とキッチリしてたなァ」
 意外とってどういう意味だと笑って返しながら、ついでに二、三個生じているだろう誤解も先に解いておく。別に、私はそんなに真面目じゃないこと。質問だって、全部が全部教科書の内容というわけでもないこと。稀に挟まる雑談が面白くて、大部分はそれが目当てなこと。しかも先生ときたら旅行や歴史も好きらしく、尋ねればいつでも(よほど忙しい時以外なら)嫌な顔一つせず、あちこちの土地の話をしてくれること。
 更に……そんな先生を相手に例えば……私が追っている自転車競技部の、次のレース場所について何を知っているかと訪ねたならば?
 答えはもちろん決まっている。周辺の歴史や名産品から、舞台になる土地や山の起源や傾斜や土質のことまで、地図を片手に話題が尽きない。

「なんだそれ勿体ねェ! んな面白そうなこと、独り占めって……田中だけずるいっショ!」

 うわあ。自転車の、それもヒルクライムの話になった途端これである。
「うっわ巻島それ言い掛かりもいいとこだって。私ちゃんと言ったもん。放課後一緒に地学教担のとこ行かない?って、確か一年の秋にみんなにちゃんと聞いたしー」
「そんな言い方で、わかるわけねぇっショ!」
 ぶつくさ口を動かしながらも、お互いこうして教室を借りた目的を見失ってはいない。
 私と巻島は少し離れた机に陣取ると、それぞれ本とノートを広げ始めた。


  ***


「でさー、巻島ってこれからどうするの?」

 そういえば……と何気なさを装う方がむしろ不自然で馬鹿馬鹿しいので、ここは真っ向勝負で聞いてみる。うげ。正直な困惑の声と共に、細い体を仰け反らせた巻島は「あー……」と視線を右往左往、そのままポリポリとこめかみを掻く。

「……大学入るショ」

 ふむふむなるほどって、それは来年でしょうが。
「……イギリスの」
「ああ。なるほど。……って、イギリス!? え、あ、だから今からか!?」
 妙な時期だから家の都合だろうとは思っていたけど、てっきり転校か休学くらいだと予想していたのでさすがに大きな声が出てしまう。ああ、そっかそっかあっちは四月じゃないんだったっけ。ボソボソと続く巻島の言葉を聞きながら、なるほどねぇと相槌を打つ。あ、巻島の目が細められた。

「あんま驚いてねぇっショ」
「失礼な。驚いてるって。でもまあ、海外って聞いて納得したかなぁ」

 そう……確かに驚いたけれど、同時にパチンとパズルのピースが嵌ったのだ。

「巻島ってば、入試の話にも偏差値の話にもノリ悪かったじゃない? ほら、春のオリエンテーションでAOとか推薦の説明があった時も、興味なさそうにしてたし」
「クハ……マジか。そんなとこまで意識してなかったショ。つーか、おまえ本当によく見てんのな」

 ……あ。どきりと、胸が不規則な音を立てる。よく見てんのな、って。そうだよ。よく見てたよ。
 今の一言、どういう意味って聞いてもいいところかな。狙っての発言と受け取っていいのかな。
 いや、巻島に限ってそんな筈がない。気のせいだろう。きっと。
「あー……田中は、どこ受けんだァ?」
 ああ、なんて不器用な社交辞令。
 そう思いながらも、巻島にまだ会話を続けようとする気があるとわかって、口元が緩む。
 大学名を挙げられて、困るのは自分だろうに。国内なんて初めから視野に入れていない巻島が、学校名や場所や偏差値なんて情報を仕入れているとは到底思えない。
 案の定、大学名を言ったところで「……ふぅん?」と巻島のカードは打ち止めである。
 ああ、やっぱりなんて不器用な社交辞令だろう。沈黙の中で所在なさげにもぞもぞと視線を動かす巻島に、あのね、と言葉を重ねる。よかったら、もうちょっと話してみてもいい?
「経済、特に観光に結びつけての講義が面白そうなところでね……」

 転校続きの幼少期がきっかけだろうか。気がつけば、降り立った町を楽しむ流れが私の中に出来ていた。この土地がどうなっているのか。この場所で、人がどう生活しているのか。
 どこの駅を使ってどこに仕事に行って、どこで買い物をして、どこで憩うの?
 観光客(お客さん)向けと自分たち用を区別する意識がある町で、区切られたところと、混ざっているところを見つけることにわくわくしたりもした。そんな、各地の郷土歴史館と観光案内所とショッピングセンターが同列で好きだった幼い私は、いつしか自分の足で訪れる先を選べるようになっていた。
 旅行先のどこでお金を落とせば、何に繋がるのか。開催される催しで、何が期待されているのか。そんなことを考えながら楽しむ私は、両親に呆れられたものだ。初めはそんな風に、自分がどこかに行って体感することに夢中だったけれど、その内、誰かに知ったことを紹介するのも楽しいことだと知った。
 あれも、これも、だったら、それも。連想ゲームのように、どんどん楽しみと行動が繋がって、どんどん広がって、そして迎えたのが高校の入学式だった。
 期待を胸に当然のように放送部の扉を叩いた私の視点は、そこでもぐんと広がった。例えば、自転車競技部のレースを撮りに行く時なんて、何重もの意味で楽しかった。
レース自体はもちろんのこと……開催場所がよく知っている隣町でも、レースという環境になればいつもと違う人々が集い、あふれ、違うものが見えてくるのだから。

 自分が何を好むのか、何に関心があるのかを見極めれば、早々に進学という道は見えていたし、そうした視点で動けば程なく行きたい大学も定まった。
 さて、ここで顔を出すのが「受からなかったら恥ずかしい」なんて思ってしまう、下らない見栄と自尊心である。同じ目標を持っているもの同士、話題や頑張りを共有?……まさか。
 受験生同士の微妙な牽制もあったりなんかで、教室や友人というのは実は結構煩わしいのだ。
 ……そんなこんなで今まで同学年相手には決して言わなかったことでも、前提の違う巻島を相手にすればすんなり口から溢れてくる。

「知らなかったショ……いや、違うな。言われてみりゃ、田中のそういうとこは知ってた気がするショ。おまえ、いつも変わったモン見つけて来てたしなァ」
 ここもそうショ?他の教室とは異なる、独特の匂いのする室内をぐるりと見回した顔がクハと笑った。
「かもね。多分、放送部での経験……って言うか、巻島たちとの日々の影響も大きいんだと思うんだよねー」
「オレら?」
「ほら、日帰りのレースとか、選手のみんなは行って走って帰るだけでしょ。で、付いてった私が後で、こんなんあったよーってお土産持ってくのが恒例になってさ」
 ある時は地元名産の珍味。ある時は隣の観戦者に聞いたお菓子。ある時は会場で売っていたお土産物。いつだって、みんなは歓声と労いを返してくれた。その反応だけでも満足したけど、極め付けは、よほど気に入ったらしく後日「今回は自分で買って帰った」という報告を聞いた、あの瞬間。本気で、胸が震えた。
「あと、放送で教室が湧いた時とか、感想を聞けた時とかね。チャリ部って格好いいねぇ!って言われると、してやったり!観に行こうぜ!ってテンション上がってさぁ」
 でもあれはファン獲得の喜びも確かにあったのだけれど、自分のプレゼンが成功したという達成感の方が大きかったかもしれないな。
 そう告げると、巻島はいよいよ相好を崩した。

「知ってたか? 金城はおまえのそういうとこ、前から随分褒めてたショ。田中は放送部としてもオレらの広報係としてもすこぶる有能だってな」
「え、知らなーい。っていうか同学年相手に『有能』って褒めるあたりが、凄く金城くん的センスでいいわ。痺れるわ」

 巻島の笑い声が、また一段と大きくなった。



(タイトル:otogiunion)

 

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