3.人魚姫が語る足跡の残し方


 巻島は、何も言わない。
 私も、何も言わない。


 手の平で顔を覆っているだろう巻島の後ろ姿から、私はそっと視線を外した。
 耳を澄ます必要すらなく容易に届いていそうな、乱れた呼吸や物音になんて気付きたくない。
 気付いていることを気付かれないように、わざと足音を立てて歩いてカチャカチャと機器を操作する。

 やがて、クハッといつものような調子で(けれど微妙にいつもと違う震えの残った声で)呼びかけられた。

「つーか、東堂とのショット多すぎっショ。 城峯山のとか、おまえ居たかァ?」
「流石、気付いたか。凄いでしょ。二年からのレースと今年のインハイのは、実は結構学外からの提供でしてね……っていうかまあ、主に『東堂様ファン』からので」

 箱学の東堂くんは、そのルックスと実力とファンサービスの鮮やかさから女子人気が高い。それはもう、神奈川一帯でのレースに出れば黄色い声援が絶えない程に。遠征しちゃうファンもいる程に。
 そしてそんな東堂くんの活躍を追い、その勇姿を捉えようとする熱心なファインダーならば自然と、戦う相手との一瞬も写すことになる。そんなわけで、だ。

「今年のインハイは凄かったからね。身分を明かして協力を願い出たところ、ギブアンドテイクの名の下に(主にホクホク顏の女子たちから)結構なご協力を頂けましてね!」

 とはいえ私のギブなんて限られたものなのだけれど、そこはそれ。たとえ思う対象は違えども、いやこの場合は違うからこそ、親身になってもらえたというか。ついでに言えば、東堂くんの「巻ちゃん好き」がファンの間でも有名だったことに加え、単純に巻島が酷く目立つ奴だったということもあり収穫は上々だった。
 一年の私には思いつかなかった手段。二年の私には出来なかった手段。巻島たちを見続けた、今の私だからできた手段であり頼れた人たち。この行動も、ある意味私の総決算だ。
 にしても正直、数枚とはいえ二年時の、それも行けなかった時のものまで手に入ったのは完璧に嬉しい誤算である。ああ、人脈って素晴らしい。

「あーもう、信じらんねぇっショ。普通、仮に思いついてもこんな面倒なことやらねぇだろ」
「言ったでしょ、『最後の活動』って。放送部の私の三年間は、チャリ部を……巻島を追っていた三年間と言ってもいいくらいだからね」

 巻島を、なんてちょっと頑張って強調してみたというのに、単なるリップサービスと受け止められてしまったようだ。暗がりに浮かぶ巻島に、動揺した様子は見られない。代わりに飛んできたのは、恥ずかしい奴だなァという呆れた声で。仕方がないので「これくらい当たり前じゃん」と無駄に胸を張って打ち返す。だって私、放送部だもん。放送部のまま頑張ったら、こうなったんだもん。

 そう。他の部活の活動風景や大会でも姿を撮影するのは、放送部の重要な活動内容の一つだ。それは確かに、そうなのだ。けれども、私のように毎週のように練習を撮らせてもらったり、そこまで大規模じゃない大会にまでわざわざ付いて行く必要は本来全くないことで。
「競技内容的にいいシーンが撮り難いから、コツを掴みたくて」
 そこまでする必要あるの。もっと気楽に、適当にしてても誰も怒らないよ。
 自転車競技部の部員ばかりでなく、放送部の面々からも何度も問われた。その度に口にしてきた答えが、変わったのはいつからだろう。
「とにかく、撮りたいんだよね」「残したくて、我慢できなくて」
 自転車に乗らない私は、彼らと共に走ることは出来ない。中間地点やゴールで構えて、前を横切る一瞬に賭けるしか出来ない。あれだけ熱気漂うインターハイですら、国民的規模の駅伝やマラソンのように親切な中継車が映像を流してくれることはない。
 観客の一人である私には、いやそれどころかチームメイトたちですら、最初から最後まで選手についていくことも軌跡を追うことも出来ない。

「正直、最初っから撮影に興味自体はあったんだけど……でも、アナウンスとか音響と、幅広くやってくつもりだったんだよね」

 それが一年の夏にはすっかり「自転車競技部担当」になっていた。
 部自体の活動をこなしながらだから毎日とはいかないけれど、フリーの時間を使える限り使って撮り続けた。カメラを、回した。外周の様子を撮りたいと機材を担いで坂の下に先回りしたり、行きも帰りも地獄でしかない裏門坂の途中に徒歩で陣取ったり。
 他にもメンテナンスの風景だとか、ローラー中だとか、筋トレ中だとか、雑談中だとか、そんな部分まで写していた。いつからか、ビデオに加えて備品の高くて有能なカメラと、もう一台。いつでもベストな一枚を撮れるように瞬間起動が売りのマイデジカメまでもお供に加えて。

「最初がよかったんだよねー。放送部が顔見せるのなんて恒例なんだから適当にあしらってもいいのに、寒咲先輩ったら優しく対応してくれてさぁ」
「あー……だな。なんだっけ……そうそう、せっかくなら全部見てけって車に乗せたんショ。んで、お前ってば調子こいて一年レースの時も平然と乗ってて!」
「あははは。そうそう、おかげで代替わりしてもそのままでさ。金城くんもばっちり優遇してくれるもんだから、おかげで一年レースは三年間とも特等席で観戦よ」
 左団扇をイメージした手をひらひらと動かしながら、ほっほっほと洒落めかして笑ってみる。
 荷台の上が特等席かよ、巻島がまた笑った。
「まったく。先輩たちもカントクもあいつらも、お前に甘すぎっショ」
「いやぁ、本当に『美味しいとこ撮り』ってやつで申し訳ないねぇ!」

 ケラケラと笑う自信満々で陽気な夏希さんモードがいつにも増してハイテンションなのは、そうしていないと場が持たないと気付いているから。おそらく、巻島も無理やり笑っている。私がわざと大げさに手を動かすように、わざと大きな音を立てるように、巻島も無理やりに口を開けて笑っている。


  ***


 けれども。その座りの悪い見せかけだけの歓談は、あっという間に諦めた巻島のおかげですぐに本来の姿を晒す羽目になっていた。ああもうまったく、通夜かここは!
 相変わらずスクリーンだけが白く浮かび上がる室内の、ギリギリ表情が読み取れるか読み取れないかという距離での沈黙に根を上げたのは私だった。及び腰な心にがんばれ私と喝を入れて、もうクハともすんとも言わず座るだけになってしまった巻島に近づく。

「ってことで、はい。それぞれのデータと、一応ディスクも……ちゃんと見所の分だけチャプター多めにしといたから」

 可愛げも何もない実用性と価格重視のディスクとUSBを置けば、「ショ」という声とともに巻島が小さく頭を下げた。細い指がのろのろとそれを仕舞おうとするのを見て、ああこいつひょっとして気がついてないじゃないかと思い至って慌てて口を開く。
 ねえ、ちょっと。

「それ、金城くんに渡さないでね。チャリ部用じゃなくて、巻島用だから」
「……はぁ?」

 その反応に、間違っていなかったと確信する。よかった、ここで気がついて。
「まあ、ほら。巻島にはよく被写体になってもらってたし、そのお礼っていうか……」
 怪訝そうに見つめる瞳を覗き返せないのは、私に含むところがあるからだろうか。
「えーっと、なんて言うんだろ……楽しかったのよ、私。入部時に思い描いたのとは違う結果になってたけど、でも。カメラ抱えてチャリ部に絡む日々が、凄く楽しかったのよ」
 汗まみれ埃まみれ泥まみれで走るあんたたちを撮るのが、嘘みたいな登り方でぐんぐん山を登る巻島を撮るのが、楽しかったのよ。

 甲子園予選会場でのウグイス嬢も、文化祭でのステージ進行係も、夏の放送連合の大会出場もしなかった。自分がカメラに向かって笑うより、カメラを構える方が多かった。
 放送室の扉を叩いた最初の日に思っていたのとは、まったく違う日々だった。
 けれど、そうしたくてたまらないほど、とても楽しかったのだ。それに……。

 含む思いを隠しながら、だからまあと歯切れの悪い言い訳を続けたところで、けれどもようやく気がついてしまう。 巻島の目が、窺うような視線が、一向に逸らされる気配のないものだということに。
 なんてこった。いつもなら、もっと早くどうでもよさそうにするくせに。まいったな。今日に限って、巻島に引いてくれる気はないらしい。仕方がないけれど、こうなっては手の内を晒すしかないだろう。
 ……もちろん、強く握ったこの両手で、見せていい方は最初から決まっている。

「あー……つまりは、餞別。どっか行くんでしょ?」

 ……言ってしまった。って、ああ、ほら、傷ついたような顔。だから言いたくなかったのに。
 私の晒した片手でこれなら、もう一方はやっぱり教えるわけにはいかないね。
 これで全部という顔をして、もはや、呑気に頬を掻く様子を見せつけるだけでいい私。
 対照的に、巻島の眉間には皺が寄る。

「……誰から聞いたんショ」

 カントクか、担任か、進路担当か。その問いには、自信を持ってノーと答えよう。

「ねえ、巻島。私を誰だと思っているの?」

 いくら私と巻島たち自転車競技部の距離が近いことを知っていても、先生たちだってそうお喋りじゃない。まして、本人が口止めしているなら尚更のこと。けれど、それでも。職員室に足を運ぶ数、タイミング、表情、選ぶ本、何気ない会話に香る違和感、反応するワード……積み重なっていくそれらで充分だ。
「四回も五回も当事者してりゃ、『そういう空気』ってのがわかっちゃうのよ。あ、こいつ、出て行く準備をしているなーって」
 タネも仕掛けもありませんと、結んで開いた手の平をひらひらと振って巻島に見せつける。
「……ああ。そういやァ初めの頃に豪語してたっけな……うっかりしてたぜ。お前は『総北一転校経験豊富な女:田中夏希』だったショ」
 あーあー失敗した。くそォ、まさかお前にバレてたなんてなァ。強張りの取れた巻島は、情けねぇーとあっさり机に伸びた。

「まだまだ甘いね! ってまあ、私もさすがに高校では転校しなかったし、その文句もすっかり形無しだけどねぇ」
「いつから気付いてたんだァ」
「さあ、いつからでしょう。ヒントはね、当てられたらちょっと凄いかも、だよー」

 暗がりでも伝わるような笑顔を振りまきながら、芝居がかったステップで巻島の傍から離れる。

「……そうかよ。あー……じゃあ、なんで……黙っててくれたんショ」
「言ったでしょ。そりゃまあ、巻島と私じゃもちろん事情も覚悟も違うだろうけど、まあ、ね。一応ほら、私もいつも去る側だったからー」
 伸ばした指に力を込めれば、パチリという音と共に部屋が輝きで満たされる。
「ちょ、いきなりとか酷えっショ!」

 視界を手の平で覆いながらの非難の声には、謝罪も反省も一切含まずに、きっといつも通りに聞こえるだろうケラケラと能天気な笑い声で返そう。

 ああ、巻島。今にも歪みそうなこの瞼が戻るまで、どうかもう少しだけ、そうして目を塞いでいて。
 ねえ、巻島。あんたは気付かなかっただろうけど、今日のこのひととき、私は何度も心臓が破裂しそうだったんだ。

「さーて、じゃあそろそろ帰ろうかね。遅くなると、田中先輩が巻島先輩を連れ込んで出てこない!?って騒がれちゃうかもだしー?」
「ちょ、待て田中! 置いてくなっショ!」

 バタバタと慌ただしい音に合わせて、玉虫色の髪の毛が揺れる。
 鍵は私の管轄なんだから、置いて行かれても困る必要などないってのに。
 きっとこの先どれだけ見続けても見飽きないだろう緑の蜘蛛がこちらを見る前に、くるりと背を向けて扉に手をかけた。

 途端に、どろりと粘っこい夏の外気がまとわりつく。
 ああ、せっかくエアコンのおかげでさらさらになっていた肌が、また不快なものに戻ってしまう。

「うへぇ。相変わらず外は地獄だなァ」
「本当にねぇ。でも巻島は今から図書室でしょ? 着いたらまた涼しいじゃん」
「あー……だな。でも、そう言うおまえの方も、涼しい放送室に戻るんショ?」



 じゃあねと手を振れば、そこがそのまま終点と起点になった。

 私と巻島は今度こそ真逆に向けて歩き出す。



(タイトル:亡霊)(シリーズタイトル:otogiunion)

 

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