1.極彩色に恋焦がれる


 やほー、巻島。お勤めごくろーさん。

 見間違うなど有り得ないだろうという特徴的な頭髪に向けて呼びかける。
 階段を降りかけていた男の足がぴたりと止まった。

 このまま待っていたら、振り向いてくれるかな。生じるのは、期待。
 けれど結果が出るまでの数秒すら待ち遠しいと、やっぱり今日も私から間を詰めてしまう。
 巻島の足が向かっていたのとは逆、つまり上階に繋がる方の階段を四段まとめてえいと飛び降りて、そのまま背の高い肩を見上げるところまで駆け下りる。

「ここんとこ、やけにあの先生と仲良いよねー」

 休み時間だったり、放課後だったり。
 そしてこうして、いくら夏期講習期間だと言っても……わざわざ夏休み中にまで。

「なぁに、そんなに呼び出されるようなことやっちゃったの? あ、さてはテストが赤点ギリギリだったとか?」
「……まあ、そんなもんショ」

 くすくすと笑って見上げれば、一瞬の間をおいてのっかかるように返事が返ってきた。
 ああもう、本当に、なんて嘘がつけない人だろう。

「つーか、そっちこそ。急がねぇと午後のコマ、始まっちまうショ」
「ああ大丈夫。私も勉強じゃなくて、今日も元気に部活動ってわけだから」
「そりゃ、おつかれさん」

 昼休憩の終わりを知らせるチャイムを聞きながら、巻島の足はゆっくりと階段を進む。
 私の足もゆっくりとそれに倣う。冷房の入っている教室とは違い、廊下は炎天下の影響をがっつりと受けている。まして、窓のない階段付近は熱気と湿気で恐ろしく不快だ。

 さて、と私は考える。
 このままでは、巻島は帰ってしまうか、もしくは隣の棟の図書室にでも行ってしまうことだろう。
 誘うとするなら今しかない。けれど、いきなりでは不審がられて逃げられるかもしれない。
 誘うのなら、ごくごく自然に、それとなく。そうだ「それにしても、今日は本当に暑いね」なんて始まりで、無理なく話を繋げていけば……。
「それにしても、今日は特に暑いショ」
 私の心を読んだかのような声に、どきりと心臓が跳ねる。それだけならまだしも、つられて足までがどきりと跳ねて、単調な筈のリズムを盛大に崩した。

「……っと。あっぶねェ」

 バランスを欠いた身体が派手に転がり落ちるという惨事を一歩手前で防いでくれたのは、言うまでもなく巻島の腕である。あまりの驚きに全身からふにゃりと力が抜けてしまい、そのまま掴まれた片腕だけ残して階段にへたり込んだ私の頭にはどくどくと心臓の音が鳴り響く。
 っていうか、腕。腕。腕。腕ですよ。腕、掴まれちゃった。いや、進行形なんだけど。
 嫌だ困るどうしよう。だって夏服ですよ。半袖ですよ。
 黙って突っ立ているだけでも、汗が流れてくるような日中の、しかも全力ダッシュの後ですよ。
 一難去ってまた一難、いや、この場合は自業自得というべきか。
 ああもう。職員室に入る巻島の姿を見つけて、次の瞬間にはもう反対側の校舎からダッシュを決めてしまっていた数分前の自分を殴りたい。どうせ階段の手すりで息を殺して待ち構えるつもりなら、なんで汗拭きシートのひと束でも持って来なかったんだろう。
っていうか、腕。腕だって。なんで巻島、腕離さないの。絶対、汗でべたべたしてるのに。あ、さては気持ち悪くてびっくりしてる!?
 うわ有り得る。むしろそれしかない。やばいなぁ。潔癖という程じゃないにしても、女子の肌がべたべたしてるのは論外だよなぁ。そういうところ、こいつ理想高そうだしなぁ。
だってグラビアのおねーさんたちはいっつもお肌サラサラだし……うあぁ! いたたまれない! 穴があったら入りたい! っていうか今すぐ埋まりたい!!

「うっわーうっわー。ありがとう。今の完璧に真っ逆さまコースだった。うわ我ながら危機一髪ってやつだ」

 なんてことだろう。気がつけば、まったく追い付く気配のない思考を他所に、いつの間にかオートモードに切り替わっていた口がすらすらと間を持たす為の言葉を発している。
 助かったよ巻島、ありがとう。いやー、危なかった危なかった。それにしても、さすがの反射神経だね。なんて。極め付けに「もう大丈夫。あ、ごめん結構汗かいてたでしょ。いやーもうね、放送室出た途端に凄くてさぁ」なんて予防線までもしっかりと。……我ながら、こういうところは大した小狡さというか。薄々思っていたけど、私って結構、詐欺師に向いているんじゃないだろうか。
 そんでもって、相手はオートモードの裏側を覗き込むような無粋なことをするわけでもない巻島だから、言葉を受けて「ああ……」とあっさりと離れるわけで。
 いや、まあ、いくら予防線だとは言っても、これらの言葉への反応が「ああ……」の一言だけってのは正直どうかと思うよ? でも、「いやそんなことないよ」と取り繕われるよりも、「マジでベタベタじゃん!」とノリで返されるよりも、巻島らしいと思ってほっとしてしまう。
 ついでに言えば、私を掴んでいた左手はちらりと視線が送られた後で静かにポケットに収められて、そんなところにもほっとしてしまう。
これ見よがしにズボンで拭われるとか、汗の気配ごと降り飛ばすように動かされていたら、(仕方がないとわかっていても)年頃のハートには結構なダメージになっていただろう。
 かなり手遅れながらも平常を取り戻し始めた頭でそんなことを思いながら、すっかり狂ってしまった調子を少しでも取り戻そうと懸命に思考を巡らせる。えーっと、そうだ。天気の話はもともと私がしようとしていた。そもそもなんで会話を続けようとしたかと言えば、目的が……。

「ねぇ、こんな暑い中帰るの?」

 帰らねぇでどうするショという返事に、そういう意味じゃないってと笑みを含めて言いなおす。がんばれ私。今こそお得意のハッタリの見せ所だ。

「こんな一日の中で一番暑い時間に、わざわざ自転車に乗って直射日光を浴びながらあの坂を下るんですかー?っていう意味」
「……ああ。いや、まあ、このまま図書室にとは思ってんだがなァ」

 急ぎの用は無いらしい。よっしゃ。
「ねえねえ、じゃあさ、ちょっとだけうちに寄ってかない?」
 クイと動かす指が示すのは、別に「私の家」という意味ではなく、向かいの校舎の端にある放送室。つまり「私の部室」だ。当然、今までの付き合いが付き合いなので、巻島にも充分に意味は通じている。けれど彼は、なんでだと怪訝な顔を返してきた。

「いいもの見せたげるからさ。大丈夫だって、今日は部員も少ないし。あ、それにあっちは涼しいよー。ねえ、ちょっとだけ!」
「へいへい。つーか、おまえの『いいもん』ってのはいつだってロクなもんじゃねぇショ」

 面倒そうに言いながらも、それでもその脚は打って変わって目的を持った速度で動き始めていることに、付き合いの長い私はもちろんすぐに気が付く。


 階段の最後の段を踏み終えた靴が、自然な流れで玄関とは真逆の方向へと曲がって、突き当たりを目指す。並んで歩く私の心は、それはそれは浮き足立っていた。なんだかんだで、巻島は付き合いがいい。自分に向かって伸ばされた手を進んで取ることは滅多にしないが、突き放すことも滅多にしないのだ。
 そんなんだからそれを承知でこうして付け込む私のような人間がいるのだと言えば、巻島はどんな反応をするだろうか。

 ……まあ案外、いつものように「クハ」と苦笑を漏らすだけかもしれない。



(タイトル:亡霊)(シリーズタイトル:otogiunion)

   

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