錆びないようにオイルを数滴


 インターハイから戻ってすぐにカメラを返した。
 そこから数日は編集作業にかかりきりだったけれど、そうこうしているうちに役職の引き継ぎも終わってついに三年は晴れて引退となり、世間より一足早く夏を終えて図書館の住人へとジョブチェンジした私は残りの休みをそれなりに忙しく過ごしていた。

 それでも、習慣というものは恐ろしい。
 ぼーっとしているとつい放送室の方へ足が向いそうになる。それに、なんとなく、なんとなく、見知った彼らの姿があるんじゃないかなと、そろそろスタートするころだろうか、戻ってくるころだろうかと、記憶を撫でながら時計に目をやってしまう。今だって、そろそろかなとつい窓の外を探してしまっている。
 けれどたとえ姿が見えたとしても、その集団はもう私の記憶どおりの総北高校自転車競技部ではないのだ。彼らもまた、一足早く夏を終えたのだから。あるいは、新しい季節を始めたのだから。


 そんなわけで私が記憶の中の彼らの姿を再び目にしたのは、新学期から間もないある日の昼の放送でだった。
 その頃には自転車競技部の華々しい活躍はすっかり生徒たちの知るところとなっていたから、インターハイの報告映像にも視線が集まる。数年ぶりとも言われる人員を割り振っただけあり、見所が盛りだくさん過ぎて編集にも随分苦労したけれど、それでも悩んだだけあっていい出来になった。自画自賛と共に胸を張れば、友達もすごいじゃんと拍手をくれた。やったね。
 彼らを取り巻く人たちもこれを見てくれただろうか。ほら、ペダルを回す彼らってこんなに格好いいんだよ。ほら、この男の子たちって凄いんだから。ほら、こんな風に走ってるんだよ。そんな思いを込めたこの数分が、知っているようで意外と知らないクラスメイトの一面を知るきっかけになれたとしたら最高だ。


  ***


「ありがとうございました。みんな、喜んでましたよ」
「そりゃよかった。わざわざありがとう」

 数日前の放送についてそう伝えに来てくれたのは、なんと古賀くんだった。放課後の図書館に顔を出した彼は、ちょいちょいと私を手招くと部の代表でお礼に来ましたと口にした。よくここがわかったものだと不思議に思ったけれど、どうやら金城くんから聞いていたらしい。
「けど、そんなに気にしなくていいのに。放送部にも顔だしてくれてたでしょ」
 いつもどおり自転車競技部用に編集した映像を渡した後に、みんな揃って放送室まで来てくれたことは私だって忘れていない。実際の所、金城くんの采配であるあれはちょっとした感動を私達にもたらしてくれて、部内での自転車競技部への好感度がぐぐんと上がったのだ。そしてある意味、あの時でインターハイについてのあれこれも終わったと言える。

「それはそうなんですが、正直、放送用にあそこまで力を入れて貰えるとは思わなくて……ほぼ作り直しですよね、あれ」
「尺の割にはいい感じに詰め込めたでしょ? ああそうだ、データが欲しかったら部員の誰かに言ってね」
「田中さんではなくて、ですか」
「私はもう引退したから」
 当たり前のことを当たり前に返せば、古賀くんが少しだけ眉を下げた。珍しい表情の意味を計りかねていると、ふぅと重い吐息が続いた。
「顔を出さないのは、金城さんたちがいないからですか?」
「えっ違うよ。そこは関係ない……わけじゃないけどっていうかそういう意味じゃなくて、ほら、私たち三年だし。引退したらそんなに顔を出さないもんでしょーが」
「……鳴子が言ってましたよ。コースに田中さんがいることに慣れていたから、走っても走っても見かけないのはなんだか変な感じだって」
「ああ。あの子サービス精神いいもんね。余裕ある時だとピースしてくれたり変速のタイミングを合わせてくれたんだよねー」
 おかげでいい画が撮れたものだ。そう笑うと、古賀くんがまた溜息をひとつ。
「本当に、田中さんの潔さにはがっかりです」
「ちょ、ちょっと古賀くん、どうしたのさ」
「あんな風にまとわりついて始終カメラを向けてきたくせに、時期が来ればあっさりと置いて行ってしまうんですから」
「相変わらず古賀くんは私にはやたらと辛辣だよねー……可愛げないぞー」

 とはいえこちらもある意味慣れたものなので、意外なほど腹は立たない。むしろ、日頃の彼"らしくない"表情を楽しむ余裕すらある。
 そして古賀くんの方も私のそんな言葉を気にはしない。けれど、今日の彼は少しだけいつもと違っていた。ふいと視線を逸らせてた古賀くんが続ける。「ちょうど、昨年の今くらいでしたよね」と。
 何のことかなんて確認しなくてもわかる。彼の"可愛げがなくなった"のは去年の今頃からで、そうなった原因もまた去年の私にあるのだから。
 古賀くんがそれを言い出すことの意図はわからないけれど、それでも言うなら今だという気がした。あのね、と思い切って口を開く。
「あの日のデータね、実は、その、まだ私が持ってた……り」
 インターハイ渦中での事故と失態。自転車を降りるしか出来なくなった古賀くんは、そんな彼にカメラを向け続ける私と二人きりになった時についに声を荒げた。こんなオレを撮って楽しいですかと。全部知りたい全部残したいという私のエゴイズムは、傷ついたこの人をさらに追い詰めるには十分すぎる凶器だった。いざ引退という時になって、ようやく自分が向けていた刃の鋭さと責任の重さに思い至った私は大馬鹿者だ。悔しさに泣く男の姿など、後輩に残せるわけがない。

「さすがに同じ二年に引き継ぐわけにはいかないかなって。だから、その、心配しなくてもいいよ。ちゃんと消すから」

 けれど古賀くんは驚いた顔をしなかった。それどころか、ふっと表情を緩めさえした。
「まあ、どうせそんなことだろうと思っていましたけどね」
「えええ」
「あの時だって今までだって、誰にも見せなかったでしょう。あなたを見ていればわかりますよ。オレが何を言っても告げ口ひとつしなかったですし」
 そりゃあ、だって。言えるわけないだろ。さすがに。お宅の後輩が私にだけ厳しいんだけどとかそんな恥ずかしくて情けないことを友人相手に言えるわけないだろ。
「今だから言いますが、整備の時にあなたが来るのはそう嫌でもなかったんです」
 今度こそ、私が驚く番だった。
「"アレ"は別に消さなくてもいいので、その代わりに来年のインハイも来てくださいよ」
「え、でももう放送部関係なくなるし何も出来ないよ」
「いまどき、携帯でもそれなりには撮れますよね」

「どうせだったらオレらの代も、最後まで撮って下さいよ」

 あまりにも私に都合のいい申し出を前にして、それでも私は頷くことはできなかった。
 ただでさえ今は放送部の肩書きすら無くしたのに、来年なんてもう本当にただの卒業生でしかない。
 そして私は知っている。手紙を送るよ、夏休みになったら戻ってくるよ、転校の度に交わした約束はいつだって空回りした。関係なんてあっという間に途切れる。新しい一年が入ってきて、古賀くんたちも三年になって、そうしたらもう私なんていらないでしょう。今年の成果があるのだから、インターハイだって放送部の子たちが準備万端でついてくるに決まっているのに。

「──だから多分、私が行っても、そんな」
「田中さん"らしくない"ですよ。散々引っ掻き回して散々甘やかされて来たんですから、最後まで甘やかされて下さい」
「え、ちょっと待って。なんかまた酷い言われよう!?」
「じゃあ、失礼します。勉強の邪魔してすみませんでした」

 言うだけ言って背を向けた古賀くんは、それっきり振り返ることもなく行ってしまう。そういえば彼もまた部活中であるわけで、私への伝言という役目を果たした今早く戻らなくてはいけない身なのだった……と気がついてしまえば追いかけることも出来なくなる。
 ひとりで突っ立っているわけにもいかず図書館に戻ってみたところで、取り残されたままの頭には問題集の内容なんてちっとも入ってこない。代わりに頭を占めるのは先ほどの古賀くんの言葉ばかりだ。「甘やかされている」ということは今までも何度か言われていた。けれどそれはいつだって、放送部での立場だったり、金城くんや田所や巻島との関係だったり、そういうものだった筈で。つまり、来年のインターハイとは結びつかない筈のものばかりだった。だから私にはわからない。「最後まで甘やかされて下さい」の"最後"がなぜ来年のインターハイにかかるのかが、わからない。
 ひょっとして、手嶋くんや青八木くんのことだろうか。甘やかされて、いたのだろうか。いや、多分そうだったのだろう。だってそう思わなければ可能性が残らなくなる。だって今のメンバーで明確に私に線引きをしていたのは、古賀くんくらいなものだ。そうだ、古賀くんはいつだって私にだけは"可愛げのない後輩"で────?



(2016.11.14)

 

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