六角レンチで緩めて締める
梅雨時期は、なんだか頭が重くて嫌になる。
雨の中機材を抱えて出かけるのは不安なので、ついつい学外撮影がおろそかになりがちで……ということで今日の被写体は古賀くんだ。
相変わらず、古賀くんは私とカメラを気にしない。
私も、気にされないのをいいことに好き勝手にカメラを向ける。
そんな私の眼の前で、置かれた自転車たちはどんどんバラされて、そして組み上げられていく。
いいなぁ。羨ましい。
「何がですか」
「へ!? 何がって何が?」
「……いいなぁって、田中さんが先に言ったんでしょう?」
思考は、口からぽろりと零れていたらしい。慌てて唇に触れる。
そんな私にちらりと目をやった古賀くんは、心底呆れましたと言いながらも「だから何がですか」と続きを促すのだった。
「あー……いや、私も自転車になりたいなぁって思っただけ」
あ、ひどい顔をされた。さてはこの子、私のことをバカだと思ったな。
自転車に乗りたい、の間違いじゃないんですよね。理解しがたいという表情で確かめられて、そうだよと頷く。あ、今度は溜息だ。溜息というのは露骨に失望を知らせる行動だから、人と居るときには気を付けなきゃ……って、知っててやってるんだろうなぁ、多分。だってきっとこの子は、金城くんたち他の三年にも、小野田君たち一年にも、溜息なんて吐かないだろうから。
つまり、私にとってだけ"可愛げのない後輩"なのだ。
でもまあ、その辺は今更なので腹も立たない。というかここだけの話、最近はむしろ私にだけ可愛げのないところがなんだか可愛いという、一周回って変なことになりつつある。あるのだ、実は。
それに実際こうして自転車競技部絡みで触れる古賀くんは、いつだって真摯にロードに向き合っているから。つまり、人となりとしては好印象でしかない。
あくまで、私に対してだけ可愛げがないだけだ。
大事なことなので、何度だって言う。私にだけ、だ。
「古賀くんさぁ、整備の時凄く優しい顔するんだよね。もちろん真剣なんだけど、でもなんか優しいって言うか、よく頑張ったな、また頑張れよって感じの」
けれど、可愛げがないなりに毎回ちゃんと相手をしてくれる後輩に、いつまでもバカだのボケだの思われるのは心外なのですよ。ということで、預けられた自転車の二台目を整備し終え、三台目に手をかけたところの古賀くんに声をかける。
いや、まあ、私もメカニックという専門職には当然ながら詳しくないし、整備風景だってこんなに本格的なのは寒咲先輩と古賀くんぐらいしか見たことないんだけどね。
でも、他に知っているものといえば、やっぱり選手のみんなが乗っている時や、ゴール後の扱いだから、目的の違う古賀くんの手というのは余計に印象的に映ると言うか。
複数の工具を使い分けて、ネジの一つ一つも丁寧に丁寧に外して、見えにくい線も確かめて、奥の奥まで綺麗にして、微かな歪みもしっかりと直す。大きな掌から伸びる指が驚くほどに繊細に的確に自転車に触れて労わるのを見ていると、なんだか羨ましいなぁという思いが湧き上がってきたのだ。
「……でね、痛んでも壊れても、そうやって大事に大事にしてもらえて、また走れるようにしてもらえて、いいなぁって思ったの」
そう言うと、古賀くんはこちらを見てパチパチと瞼を動かした。
「なんですか、それ。あの……ひょっとして今日、田中さんって結構疲れてます?」
「違うよ。ただ、一緒に走って一緒にボロボロになって、そしたらこうして直してもらえて、またずっと一緒に走っていけるっていいなぁってだけ」
そんな風に隅々まで綺麗にしてもらえて、ベストコンディションにしてもらえるんだから。ほら、ここもこんなに上手に直してもらって。
整備を終えて並ぶ一台に近付き、ピカピカのフレームにつーっと指を這わすふりをする。古賀君は多分、私がここの自転車に触れない理由を知っている。だからだろう、苦笑いを一つして今日一番の優しさを見せてくれたのは。
「そっちの横にあるのはオレのですから。少しなら、触ってもいいですよ」
「やったぁ、ありがとう。でもアレだね、人の恋人にちょっかいかけるみたいで、なんだかイケナイ気分になっちゃうね」
浮かれ調子で古賀くんの自転車に向かうと、とりあえずは間近で撮影。
そしてその後は、カメラを置いてドキドキと高鳴る心臓のままそっと指先を伸ばす。
「……はい? ……ああ、なるほど。そう認識しているのか」
新品のピカピカさとは違う、よく手入れされたピカピカさにうっとりとしながら冷たい質感を楽しむ私の耳に、古賀くんの声が届いた。なにがと振り返ったところで、予想していたよりもずっとしっかりと目が合う。
はて、と首を傾げる私を他所に、みるみる古賀くんの口元が意地悪く引き上がっていく。
「残念ですが、誰もがずっと同じ"バイク"なわけではないですよ。もっと魅力的なものに出会えば買い換えるし、ペダルやホイールもどんどん替えます」
あくまで乗り手に合わせて自転車を調整して最善を尽くすのであって、一つの自転車を添い遂げさせたいわけでは決してないですよ。古賀くんが言う。
「第一、バイクに大切なのは乗り手を裏切らない走りが出来ることですから。あなたみたいなじゃじゃ馬が自転車になったら、どうせすぐにお払い箱です」
「ちょっと、一応先輩相手なんだからじゃじゃ馬とか言わないの。まったく、そういうの気にする金城くんの耳に入ったらお小言だよー」
「はぁ……そうですか。自分で『一応』とか言ってしまうんですね」
だって古賀くんに敬う気がないのはもう充分にわかってるし。
ついでに言えば、今こうして敬語なのも、きっと部としての方針に則っただけだろうし?
言うだけ言って、それきり私の反応なんて気にもしないような顔で作業に戻ってしまった古賀くんを相手にそんなことを思う。
けれどやっぱり私もこんなことには慣れっこなので、それきり黙って撮影に集中することにした。それぞれの乗り手のことを考えながら調整を済ませていく古賀くんは、やはりとても優しい表情を見せるなぁ、なんて思いながらカメラを回す。
「ところで、今日はいつまでここに居るつもりですか」
「へ!? あ、ああ、施錠時間までにこれ返しに行けばいいだけだから、別に何時ってのはなくて」
強いて言えば、みんなが戻って来て着替えタイムになる前か、古賀くんに出て行って下さいと冷たく言い放たれるまでか。そう答えたところ、古賀くんってばハァとまた溜息を一つ。
あ、やばい。これは早々と終了の合図だろうか。
「まあ、そうですね……。今のじゃじゃ馬発言につて黙っていてもらえるなら、次の一台の後で肩くらいは揉んであげますよ」
え、いいの。思わず顔を綻ばせかけて、慌てて引き締める。
ダメダメ、撮影者の分際で、被写体に(それも後輩に)肩を揉んでもらうなんて。
「おや。せっかくオレがこの手で、バイクを整備するように『丁寧に優しく大事に労わるように』揉んで差し上げようかと思ったのに、あなたの方が断るんですか?」
けれども。
こんな機会、きっともう二度とないですよと言われてしまえば、私に出せる答えなんてわかりきっているじゃないか。
他のみんなに知られたら、冷たい反応は免れない。
金城くんにはきっと怒られるだろうし、田所や巻島にも三年のくせにお前……と呆れられるだろう。それでも、いつの間にかすっかり偉そうに振る舞うようになってしまったこの可愛げのない後輩による珍しい申し出だ。ちょっとくらいは、いいんじゃないかな。
そんなことを思う今の間ですら、古賀くんの手がすいすいと魔法のような滑らかさでタイヤを外し始めるから、私はついつい考えるのをやめて見惚れてしまう羽目になる。
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