6(end)


「あの、ごめん。なんて言うか……よく、覚えてたね」

 一応自転車競技部関係とはいえ、巻島の自転車生活自体には全く関係のないこと。
ついでに言えば、当事者の筈の私の方が忘れていたくらいのことだ。

「いや、まあ、覚えてたっつーか思い出したっつーか……その……留学のこと考え出した時になァ」

 ああだめ、そんなに乱暴にしたら傷んじゃう。
 気が付けば、ガシガシと乱される髪のキューティクルを心配する程度には余裕が生まれていた。
 地球儀から指を離して、ゆっくりと歩き始めるとまた気が付いた。
 いつのまにか、足の震えも止まっている。
 項垂れた巻島まで後もう一歩というところまで近付いて、目を合わせてくれない巻島のシャツの裾をちょんとつまむ。

「ねえ巻島。あのね、確かに私は今でも遠距離恋愛には消極的なんだけど……でも、日本とイギリスなら、むしろアリだと思うの」
「ちょッ……意味、わかんねぇショ」

 まあ、そうだよね。言葉の代わりにつまむ手を僅かに動かして、地球儀のところまで行こうと誘う。

「ここが千葉で、私の目指す大学がここで……来月の巻島が居るところが、ここでしょ?」
「……ショ」

 およそ、手のひら二枚分。どう見たって絶望的な距離を前に、巻島の眉が一段と下がった。
 だから、今度はあえてちょっと声を張って言ってみる。

「いいんじゃないかな。イギリスと、日本!」
「……だから、意味わかんねぇって言ってんショ」
「中途半端に長野と徳島とか、名古屋と大阪みたいな距離で離れるより……ずっといいと思うよ、ってこと」

 おいこら田中、おまえわざと言ってんショ。
 そろそろイライラし始めたのか、だんだんいつもの巻島に戻っているのを感じてほくそ笑む。

「あのさ。会いたくても会えない、けど、全く不可能ってわけでもない……って距離のほうが、辛さって増すと思うんだー」

 ぴくりと、巻島の腕が震えた。

 そう、私が遠距離恋愛に懐疑的以上の態度を取れないのは、最終的にはとにかくこれに尽きる。辛さと言うより、失望と表現する方が近いかもしれない。電話をするよ、手紙を書くよ(今だったら、メールを送るに変わるのかな)その手の約束が大概の場合どうなるのかは、もう充分に思い知っている。
 恋人との約束や誓いはまたそれらとは違うのだろうけど……でも、関係が深く、甘えや期待が増す分、反動も大きいのだろうということは予想出来てしまうのだ。
 例えば、ちょっとした連休とか、二人の記念日前後の週末とか。あるいは、どうしても抱きしめてもらいたい夜だとか。頑張ったら会えないこともない距離で会えなかったら、きっと失望する。
 仕方ないと頭ではわかっていても、弱った心はそうはいかないだろう。
 自分のために頑張ってはもらえなかったのだと、きっと想いの深さを疑ってしまう。
 そして、相手も自分も非難してしまう。
 でも実際、離れている二人には当然各々の生活というものがあるわけで。
 ただでさえ限られた時間の中で、いつでも正しく時間を使えるとは限らないだろう。

 遠距離恋愛の要素なんて欠片もない、毎日同じ学校で顔を合わせるような恋人を持つ友人たちですら、こぞって擦れ違いの悩みと不安を口にするのだ。この上、さらに中途半端な距離に置かれるだなんて。
 正直なところ、そんなのが私に耐えられるとは到底思えない。

 そんなことを掻い摘んで話す私を、巻島はじっと見つめている。

「けど巻島とだったら……もう、県をまたぐとか、新幹線とか、そういう次元じゃないし逆にいいと思んだ」

 もちろん、不安が全くないわけじゃない。
 でも、本当にそう思ったのだから、ここは押すしかないだろう。

「だって千葉とか東京とかじゃなくて、ジャパンとイギリスだよ。会えなくて当然、時間が合わなくて当然。単に離れるより、これで付き合う方がずっと素敵だと思わない?」
「……『これで続けば』ショ?」

 続くと思っているのかと問うような声。
 心外だと口をとがらせた後、なるべく不敵に見えるよう口角を上げて巻島を見上げた。

「試す価値があると思ったから、告白したんだけどなぁ。言ったでしょ、継続を前提に交際を申し込んでるんだって」

 私は「想いを終わらせるための告白」はしないって決めてるの。
 言いながら、親指を日本に定めてぺたりと地球儀に手のひらをくっつける。数刻前を再現するように。
 ここで押さなきゃ、叶わないだろう。そして、ここで押せば叶うだろう手応えも、もう充分感じて始めていた。
 だって、巻島の目が私に向いている。

 さあ、ありったけのペテンと誠意を総動員して、理想を現実にしよう。


「ねえ、巻島」


 もう、軽く促すだけでよかった。
 恐る恐るという様子で、巻島の手のひらがそっと並ぶ。


 私の左手と、巻島の右手。
 わずかに触れ合う、互いの小指。



「ねえ巻島、もう一回言うね……私と、遠距離恋愛してみませんか?」



END



(タイトル:otogiunion)

 

  back