36.ラブトレインの裏側で

「ディエゴ・ブランドー、5thステージは着外、6thステージでは二十位、総合は五位……」
 船に揺られながら、私は新聞片手にため息をつく。リタイアこそしていないが、最近のディエゴの成績はあまり芳しくない。
 最初のステージでディエゴを差し置いて一位になった、己の脚のみで参加したアメリカ先住民族など、多くのリタイア者が出ている。それでも、嵐のダメージを負いながらもリタイアせずにいられるだけでも良い、と考えるべきなのかもしれないけど……。
 レースが始まってから、三ヶ月と少し。私は、船でSBRレースのゴール地点に向かっていた。
 イギリスから、アメリカのニューヨークへ。

 彼が優勝した瞬間に迎えに行く、なんて約束は交わしていないが。それでも、私は決めたのだ。
 ディエゴが優勝を、栄光を得た瞬間は、絶対にこの目に焼き付けるのだと。それから私は、彼を蹴落としたい。そう思っているから。
「そろそろ、本土では7thステージの結果が出ているかしら? もう8thステージに入っているのかしら?」
 船の上では、状況は分からない。この船はあと数時間程度で、アメリカ本土に着くはずであるが。
 8thステージの予想行程日数は二日程度、最終ステージの予想時間は三十分程度と聞いている。7thステージの結果はどうなっているのだろう? そろそろ上陸して、8thステージが終わる前には、ゴール地点に到着したいところなのだが――


「……それにしても、具合が悪いわ」
 それに、なんだか身体が重く感じる。船に揺られ、海を眺めながらため息をついた。
 船酔いだろうか。むしろ、そうであったほうがありがたい。それ以外の理由があるなんて、認めたくない。……船に乗っていない時でも、慢性的に体調不良になっていることは、分かっているけど。
 ディエゴは彼の父親を探せただろうか。レース内に情報を知っている者がいるかもしれないと、そう言っていたが。
 だが、私にとってはどうでもいいことだ。彼の父親は、私の復讐相手ではないから。
「はあ……」
 また、ため息が出た。この数ヶ月、ディエゴはどのように生活していたのだろう。私の援助した食料品や医療品は活用したのだろうか? どのようにレースを走って、どのように疲れを癒やして、そして――
 ……取り留めのないことを、延々と考えてしまう。これは、不安だろうか。考えても仕方がないと、そう結論付けていたはずなのに。
 胸騒ぎがする。私の知らないところで何かが終わってしまったような、そんな予感が。


 ――ナマエ。
「……? 今、誰か何か言った?」
 誰かの声が聞こえてきた気がした。聞き慣れた、だが、しばらく聞いていなかった声が。
 だけど、そのはずはない。今、私は甲板の上にひとりで立っていて、私に話しかけられる人はいない。
 だが――それでも私は、その名前を呟くしかなかった。
「ディエゴ……?」
 声が震える。当然ながら、返事はない。
 左手の薬指に嵌めた古びた指輪が、不吉に光った。
 ……おそらく彼は今も、レースで走っている。予定日数通りなら、今頃8thステージの、ニュージャージー付近を走っている。そのはずだ。
 なのに。無性に嫌な予感がするのは、何故だろう。私の知らないうちに、彼の身に何かが起きたような、そんな予感は。
 幻聴はそれ以上、何も語らなかった。その声が本当に私のことを呼んだかも、分からないまま。


 それから、数時間後。胸騒ぎは収まらなかったが、船はいよいよアメリカ大陸に近づいている。
 そんな中――甲板に佇む私の元に、近づいてくる影があった。
 その姿を認めた私は、またか、とため息をついた。このやり取りを、私はこの数日間、何回も繰り返していたから。
「おい、おまえ……ディエゴ・ブランドーは、本当に優勝するんだろうなッ!?」
 当初の予定通り、私は父親を連れて来ていたが――正直、うんざりしていた。この男のことを連れてきたことを後悔するくらい。ディエゴとの復讐の誓いがなかったら、今すぐにでも殺したいくらいだ。
「……何度もそう言っているじゃない」
「本当に、本当だろうなッ!? あのガキ、最初こそ調子良かったが、4thステージと5thステージだと着外だったじゃあねーかッ! おまえ、オレのこと騙してるんじゃあねーだろうなあッ」
 本当に、うんざりだ。この船旅の途中、この男は同じことを何回も何回も聞いてきた。
「確かに、4thステージでは着外だったわ……酷い嵐で、ダメージを受けたのね。けど、直近の6thステージでは順位も上がっているし、そろそろダメージも回復したんじゃあないかしら……7thステージで一位になれば、彼の優勝は揺るがないわ」
 もう、7thステージの結果は出ているはずだ。上陸したら、すぐにでも新聞を確認しよう。ディエゴが上位であれば、この男も少しは大人しくなるはずだ。
 ため息をついて、父の顔を見上げる。早く納得して、ひとりにさせてほしい。そう思った、その時だった。

「本当に、本当だろうな――……ぁっ?」
 突然。本当に突然だった。
 父の左肩から下が、文字通り吹っ飛んだ。

「……なっ、何!?」
 父の肩から、大量の血液が飛び散る。私はそれを、呆然と見るほかない。
「え……? 何? えっ……?」
 ダメージを受けながら、父は左肩を抑えようとする。だが、その肩が存在しない。肩が存在するはずの場所から、血が大量に吹き出ている。
「お、おまえ、おいッ! 助け、助けてくれっ! 賞金が、許してくれるって、そう言っただろう!?」
 しばらく、私は呆気にとられていたが――取り乱す父を見ていると、なんだか逆に冷静になってきた。
 父は死にかけている。だが、私はダメージを受けていない。
 ならば、別に構わないかと。ただ、そう思ったのだった。

「何が起きているのかは分からない……でも、私はあなたを助けない」
 そもそも、助ける手段がない。下手に近付けば、もしかしたら私がこの現象に巻き込まれる可能性すらある。この不可解な現象に。
 だが。たとえ助ける手段があったとしても、私はこの男を救わなかっただろう。この男がここで死ぬことは計算外ではあるが、別にここで死なれても、そこまで構わないことだった。
「だ、弾丸……? ダメージが……肩に受けたダメージが心臓に向かっていくんだ……オレには分かる……」
 男は這いつくばりながら右手を伸ばす。私はその血だらけの手に目を向けたが、その手を取ろうとは思わなかった。彼の肩にあったはずの銃創が何故か心臓に向かっていく瞬間を、じっと見つめる。
「た、助けてくれ……ナマエ・ミョウジ……」
 男の最期の言葉はそれだった。
 父との二度目の、永遠の別れはやっぱり、最悪なものであった。


 父が死なれること自体は構わない。少々予定が狂ったが、それはそこまで問題ではない。
 それよりも。私の気分が最悪だったことのほうが、よっぽど問題だった。
「……やっぱりあなたは、私に名前なんて付けなかったのね」
 今際の際に呼んだ名前すら、ミョウジ家のものだった。あの父はきっと、私のことなんて、再会するまで一度も思い返さなかったのだろう。そう思える。
「私、あなたに捨てられたことも恨んでいるけど……それよりも。あなたがディエゴの母親を殺して、ディエゴを復讐に生きる野心を持った男にしてしまった。彼が復讐者にならなければ、私の幸福が絶たれることはなかったのに。私が一番恨んでいることは、そこだったのよ。……お父様」
 物言わぬ死体に語る。返事はない。船の遠くからあちこちで悲鳴が聞こえてくるが、そんなことはもうどうでもよかった。
「……少し、予定が狂ってしまったかしら。まあ、別に構わないわ」
 父への復讐は狂ったが、これならこれでもいい。
 私にとって一番復讐したい相手は、やっぱりディエゴ・ブランドーなのだ。
 だから、どうか無事でいて。私が殺すまで。
 私が蹴落とすことのできる、優勝台まで登ってきて。どうか。


 死体を放置して船の部屋に戻ろうとすると、あちこちで惨劇が起きているようだった。何が起きているのかは私には全く分からないが――直感的に、SBRレース上で何かが起きているのではないかと、そう思う。漠然とした予感だったけれど。
「ああ……あなた! あなた! しっかりして!」
 新婚旅行の最中だったと思わしき二人組の片方が、男の死体に向かって語っている。
 それを見ながら、私は独りになってしまったのだなと、何となくそう思った。

 だけど。何はともあれ、私は生き残った。ならばするべきことはひとつ。ディエゴに復讐するだけ。
 それに、これから私は独りではなくなると、船に揺られながらそう思う。
 私とディエゴで、今度こそ心中する。船の上で。否、もしかしたら、この心中で重要な存在は、私とディエゴだけではないのかも――
 嗚呼、具合が悪い。この胸騒ぎがただの気のせいでありますようにと、そう祈った。

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