30.スティール・ボール・ラン

「……で、あなたはこれからどうするつもりなの。ディエゴ」
 数週間後――あれから退院した私は、屋敷の自室にいた彼にそう話しかける。
 ……これまで私たちは、お互いの自室に入ったことはなかった。せいぜい扉越しに話すだけで、お互いがお互いのパーソナルスペースに入るといった、一線を超えることは一度もなかった。
 それなのに。今の私は、彼の部屋に勝手に押しかけて、読書をしているディエゴの邪魔をしに入っている。それは彼への嫌がらせであり、私が淑女としての誇りをとっくに捨てたという表れでもあった。


 ――数日前。結局、病死ということで片付けられた義母の葬儀は粛々と執り行われ、何事もなく終わった。私は数人の参列者に白い目で見られていたような気もしたが、そんなことはもうどうでも良かった。
 罪深い男女。私たちは、法律上は一応親子であるが、実態がそんなものではないということは自分たちが一番分かっている。義母という中継点があったからこそ形だけでも親子という体裁を保てていた私たちの関係は、彼女がいなくなってしまった時点で、既に崩壊してしまっている。
 ならば、今の私たちの関係性は何なのだろう。それは、よく分からないけれど。


「……どうする、とは?」
 しばらくの無言の後、彼は言葉を発した。本に目を向けたまま、私の方なんて見向きもせずに。
「世界を手に入れるって、そう言ってたじゃない。私はそれまであなたに手を貸して、私はあなたが世界を手に入れた瞬間に蹴落とすつもり――そう言ったつもりだけど?」
 それなのに、彼がどんな方法で世界を手に入れるか分からなければ、私の動き方もわからないというものだ。
「…………」
 彼はしばらく黙っていた。それでも、抗議するように彼の目を見続けると、ディエゴはフー、と息を吐いて本を置いた。
 それから彼はこちらを向き、ようやく言葉を発した。
「オレが望んでいることは、主に二つだ。世界に復讐すること、世界を手に入れること。復讐相手には、オレの父親と、おまえの父親が含まれる。当然、あの農場のヤツらもな」
 彼が復讐心を燃やし続けている暗い熱さが、直接伝わってくるような気がした。

 そしてその言葉を聞いて、私にはふと思い出すことがあった。
「……そういえばあなた、私の血の繋がった実の姉妹? ……だったかしら? ――その人には、復讐しなくていいの?」
 貧民街で出会った、私と血の繋がっているという女の存在を思い出す。私がこんな目に遭っているのに、あの女のことは放置するつもりだろうか?
「あの女のことは、前も言ったが、オレはよく知らない。彼女は父親とは縁が切れ、あの父親がどこにいるかは知らないらしい。それに――あの女があの街で酷い目に遭っているだろうことは、君も知っているんじゃあないか?」
「……そう」
 要するに、彼はあの女のことは復讐対象ではないと思っているらしい。
 ディエゴ・ブランドーが復讐したいのは、彼の母親を殺した男の血を引くこのナマエ・ミョウジが、のうのうと幸福に生きていたことであって、同じくあの父の血を引く姉妹は酷い目に遭っているために、復讐対象ではないと捨て置いたということらしい。
 理不尽な気がしたが、復讐なんて理不尽なものなのだろうと、そう思った。顔も知らない父親のために、私は恨まれている。世の中、そんなものなのかもしれない。

「……それで? あなたが世界に復讐する、その方法って?」
 私が改めてそれを聞くと、彼はニヤリ、と笑った。その端正で不気味な微笑みが、やけに頭に残った。
「スティール・ボール・ラン」
 その言葉に、一瞬思考が止まった。


 ……どこかで聞いたことがある。その程度の認識をしていた私に、彼は軽く説明した。
 数ヶ月後――馬でアメリカ大陸を横断するレース。シンプルに言ってしまえばたったそれだけの、壮大なプロジェクト。
「優勝すれば、イギリス王室を動かすほどの、絶対的な権力と栄光を得ることのできる場だ。オレはそれを手に入れる。おまえの父親や、有罪の奴らを復讐するのは――それからだ」
 彼はそうやって、まずは世界の権力を手にするつもりなのだろう。そして、世界に対して復讐する――
 私はそれに、途中までは手を貸す。彼が世界の全てを手にした瞬間に、ディエゴのことを蹴落とすために。これからの道筋が、徐々に見えてきた。

 少し、具体的に考えてみた。きっと――この男は、そのSBRレースとやらで優勝してしまうのだろう。私には分かっている。この男の馬の腕が、この世の誰よりも優れているということに。初めて彼のレースを見に行ったときのことを、ふと思い出す。
 だって、だからこそ、私はこの男が気に食わなかった。ディエゴ・ブランドーという男のことが。私とこの男を引き合わせた運命なんて、大嫌いだった。あの時からずっと。

「……君は、自分の父親に復讐したいとは思わないのか?」
 一瞬考え込んでいた私に、ディエゴの声がかかって、はっと顔を上げた。彼は鋭い瞳に薄暗い感情を乗せながら、私のことをじっと見下ろしていた。
「オレはおまえの父親に復讐したい。おまえ自身への復讐は、ほぼ終わったと言って良いところまで来ているが――君はどうなんだ? ナマエ。君をこんな目に遭わせた原因である張本人のことを、君はどう思っているんだ?」
 顔も知らない、私の父親。私のことを捨てた彼が、ディエゴの母親を殺したことで、私は今、こんな目に遭っている。名前も知らない父親が創った私の運命が、私のことをここまで堕とした――
 そんなの。……そんなの。
「憎いに決まっているじゃない。私のことを捨てるだけじゃ飽き足らず、私のことを捨ててからも、こうして私の人生をめちゃくちゃにした元凶の人間だもの」
 私の言葉を聞いたディエゴは、薄く笑った。
「君は君の父親に復讐したい。オレも、君の父親に復讐したい。……利害は一致しているんじゃあないか?」
「何が言いたいの?」
「オレはレースに参加して優勝を目指しながら、オレの父親と、君の父親を探す。もしかしたら、レース内に情報を持つ者がいるかもしれないからな。そして――君はこの国にいながら、君の父親を探す。なあ、オレと手を結ぼうじゃあないか、ナマエ」
 不敵な笑みを浮かべる彼の表情を見ながら、私は頭の中で状況を整理した。


 ディエゴは、SBRレースで優勝して、この世への権力と栄光を得たい。それから、彼の父親と私の父親を含む人間たちに復讐したい。
 そして私は、ディエゴに復讐したい。私の父親にも。
 だからこそ、私はディエゴの復讐と栄光に手を貸す。私の父親の件では復讐対象は一致しているので、私たちは手を組む。それから私は、ディエゴが栄光を得た瞬間に蹴落としたい。

 なるほど。確かに利害は一致している。
 だが、彼は手を結んでいる気などないのだろう。ただ、利害が一致しているからそう言っているだけで、ディエゴ・ブランドーという男は私を利用するつもりなだけなのだろう。
 だが、それでもいいと思った。最終的に私の復讐が果たされるのなら、それで。
 私は返事をする代わりに、するりと、ディエゴの首に腕を回した。


 至近距離で見る彼の顔は、恐ろしいほど整っている。憎たらしいくらいに。ディエゴは表情を消しながら、それでも私のことをじっと見ている。それがなんだかおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
「……何のつもりだ?」
「言ってたでしょう? 『お望みなら、君だけのオレになってやってもいい』――まさか、忘れたなんて言うつもりじゃあないでしょうね?」
「…………」
 私の左手の薬指に輝く、古びた指輪のことを思い出す。この指輪への誓いは、愛の誓いなんてものではなくて、復讐を誓ったものでしかないのだけど。
「美しい人。憎い人。私はあなたに復讐したいし、あなたも私に復讐したい。いいわ、その提案に乗ってあげる。私の復讐が完遂されるか、あなたの復讐が完遂されるか――それはまだ、分からないけれど」
 そして私は、ディエゴの唇に自らの唇を軽く押し付けた。すぐに顔を離したが、ディエゴ・ブランドーという男は、全く表情を変えずにこちらを見ているだけだった。
「でも、忘れないでね。憎い女の身体を。私も一生、あなたの身体の形を忘れないから」
 この行為は、一体何に対する復讐なのだろう。初めて彼に唇を奪われ、私の人生が完全に壊れてしまった始まりの瞬間のことを思い出しながら、私はただ、そんなことばかり考えていた。


 こんなもの、形だけの契約だ。古びた指輪の感覚を覚えながら、私はそう思う。
 だって法律上、私は彼の義娘なのだ。
 それでも私たちは口付けを交わす。自傷のような口づけを。倒れ込むように彼のベッドに潜り込み、何かを求め合うように、身体を重ね合わせる。美しい彼の身体の感触を、自らの身体に覚え込ませるように。
 でも、そこに愛は無い。互いが復讐だけを胸に秘め、復讐だけを誓い合うように手を結ぶ、それだけのことなのだから。

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