22.娘の過去

 あれから何日経ったのかは、正直よくわからない。日々を過ごしているという自覚も、消費しているという感覚も、無い。
 ただ分かるのは、『その日』まで着実に近づいているということだけだ。
 カウントダウンは、確実にゼロに近づいていた。


「あら、このケーキ美味しい」
 最近、わかったことがある。社交界から身を引いて、義母とディエゴ以外の人間との交流を断ったとして――私には、何も支障がなかった。
 結婚できない。友人とお話できない。……だからなんだ。意外にも、私は『その日』までを楽しく過ごせていると思う。
 それが、私の求めていた幸せではないということは、知っているけれど。
「ねえ、そう思わない? ディエゴ」
「……そうだな」
 興味なさそうに、目の前の彼はコーヒーを啜る。彼は紅茶よりはコーヒーが好きなようで、いつもコーヒーを選んでいるように見える。ケーキを食べる前に、香りを嗅いでから一口飲むのが彼の癖であるようだ。
「それより君――今日の予定は? できるだけ君に付き合ってやるとは言ったがな、あんまり適当に時間を潰されても困るんだよ。君が楽しむのもいいが、せめてこのオレを楽しませてくれよ。付き合わされてるのはオレの方なんだからな」
「……最初に私のことを付き合わせていたのはどこの誰よ」
 彼の言い回しに腹が立つことも、かなり減った。もうすぐこの生活に終わりを告げることを考えると、そんな気分にもなれなかったのだろう。
「まあ、いいわ。今日の予定を教えてあげる。今日の予定は――『あなたのことが知りたい』よ」
 私のその言葉に、ぴく、と彼の指が動いたように見えた。

「……どういう風の吹き回しだ? ナマエ。今まで君が、オレに興味を持ったことなんてなかったと思ったが」
 そして、彼は睨むように私を見つめてきた。そんな彼の反応をやや意外に思いながらも、私は言葉を続ける。
「別に。私の道が完全に決まってしまう前に、聞けることは全部聞いておこうと思っただけよ」
「……人にものを尋ねるときは、自分のことを話すっていうのが筋なんじゃあないのか?」
 これもまた意外な反応だ。彼が、私のことを知りたいとでも言うつもりだろうか。
「そうね、別に話してもいいけど。でも、お義母さまが知ってる以上の話は、私には多分ないわよ?」
 それとも、義母は彼に私のことを何も話していないのだろうか? そんな私の疑問に応えるように、彼は返答する。
「あの人は、君のことはあまり話すつもりはない、なんて言ってたぜ。二十年ほど前に拾った、とだけな。彼女が話したくないというよりは、君自身が話したいと思ったときに話せばいいというスタンスだったみたいだな。……君がそこまでオレに気を許してくれてるってんなら、嬉しい話だが」
 私はその言い回しに、思わずため息をついた。
「……わざと言ってるのよね? 私はあなたに気を許したつもりはないわ。ただ、話せる内容だから、話してあげてもいいってだけよ」
 彼は鼻を鳴らした。そんなこと十分承知の上だ。という合図だろう。
「……ま、いいわ。話してあげる――」
 今となっては、私の話なんてつまらないし、どうでもいい話だ。これくらいの話をしたところで彼の話を聞けるというのなら、安いものだろう。
 そんなことを考えながら、私は口を開いた。

 私は、川に捨てられていた子供だったらしい。本当の親のことなど何も知らないし、知りたくもない。できれば二度と会わずに人生を終えたい。彼らのことを知りたいとも思わないし、知る必要があるとも思えない。知ってしまったら、彼らのことを憎んでしまうだろうから。
 そして、そんな生後五ヶ月にも満たない私を、義母が拾った。彼女は夫を亡くして十年経っていて、他に子供もいなかったこともあり、寂しかったのだろう。当時彼女は六十三歳だったはずだが、老後を独りで過ごすことに耐えられなかったのかもしれない。……その結果、その娘に、運命を握られてしまったとしても。

 そこまで話して、ふ、と息を吐いた。今思うと、本当につまらない話だ。
 拾われた捨て子が、裕福に暮らし、侵入者に侵されて、幸福を取りこぼす。他にもどこかにありそうな、そんなありふれた話だ。
 つまらない話でしょう? と微笑みながら彼に語りかけると――ディエゴは存外、真面目な顔で頷いていた。
「二十年前、川に捨てられた。……やはりな」
「……何か言った?」
「いいや、何も。君が、オレのよく知るどこかの誰かに似ていると思っただけさ。……いや、あの女のことは、オレはあまり知らないかな? ……まあ、どうでもいいか」
「あの女?」
 顔を顰める私の疑問には答えず、彼は好き勝手に話し始める。
「川に捨てられるなんて、貧しい暮らしをしている親にはよくあることなんだぜ、ナマエ。……いや、ナマエという名前をつけたのはあの人で、君の本当の両親ではないのかな? 君の本当の名前は、どういう名前なんだろうな?」
 黙って彼の話を聞いていたが、流石にこの言葉にはカチンとくるものがあった。
「……何を言っているのかわからないけど。私はナマエ。ナマエ・ミョウジ。ミョウジ家の娘で、お義母さまの娘。それ以外の何者でもないし、……血の繋がりのある私を生んだだけで捨てた両親のことなんて知らないし、興味も無いわ」
 そうやって彼のことを睨みつけるが、それでもディエゴはつまらなそうに、こう言い捨てるだけだった。
「……捨てた、ねえ。貧しい暮らしの親に捨てられて、その結果がこの温室育ちってんなら、さぞ幸福だったろうな? ナマエ・ミョウジ」
「そのささやかな幸福を奪おうとしているのはあなただけれどね。侵入者さん」
「その幸福を摘み取る選択肢を選んだのは君でもあるんだぜ、ナマエ」
 互いに挑発し合い、しばし睨み合う。この男が何を言いたいのかが全然わからないなんていつものことだが、久しぶりにかなり不愉快に感じた。


「……興が醒めたな。オレの話はまた今度してやるよ。機会があればなァ――」
 そしてディエゴは急に目線を外し、飲みかけのコーヒーを放置して立ち上がった。
「ちょっと。私に話すだけ話させておいて、自分は話さないつもり」
 彼の話を聞きたくてわざわざ私の話をしたというのに、これはないだろう。そう思い流石に文句を言ったが、やっぱり彼は何も話す気がなさそうだった。
 この話は終了だと、今日の『デート』は終わりなのだと、そう言いたいのだろう。不満ではあるが、今の私にはどうすることもできそうになかった。
「安心しろ、ナマエ。『君が彼女を殺せば』、全てを話すという誓いを破るつもりはないからな。……君が、本当に彼女を殺すかは知らないがな」
 そう言われてしまうと、私には何も言えなかった。彼は私に何も話さないというつもりではないのだろう。ただ、それが今ではないというだけで。
 だからこそ、今、聞けるだけの話は聞きたいと思っていたのに。結局今日も、煙に巻かれてしまった。そう思いながら、私はただため息をついた。

「それに――オレは、君が思う以上に『いい話を聞けた』と思っているよ。百パーセントの確信はあったが、今では二百パーセントまで上がっている。……君がこの話をオレにしたことを、後悔するかはどうかは、知らないがね」
 そして。私の目を見ることなく、独り言のように呟かれたその言葉に、私は何も反応できなかった。
 彼が私の定めている道を見据えているような気がして、座りが悪い心地がしたけど、気づかないふりをした。

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