17.もうひとつの運命

 あの呪われた街に連れられた日から、私はずっと、考えていた。
 否、あの日からだけではない。彼に、最悪な選択肢を与えられてから、ずっとだ。
 もっと言うなら、私は彼に出会ってからずっと、ディエゴに出会ってからずっと――彼のことを考え続けていたように思う。……主に、悪い意味なのだが。
 今、考えているのは――毒のこと。毒を誰に盛るか、ということ。
 誰にも毒を盛らない、あるいは彼に毒を盛ったとして、……行く宛のなくした私が、あんな街に堕ちることは耐えられないのだろうと、私は、漠然と理解していた。理解してしまっていた。

 誰も殺さないという選択をすれば、ディエゴは私の義母に私の秘密――私が舞踏会から追い出されて結婚が絶望的だということ――をバラすという。そうなった場合、私はお義母さまに勘当される可能性が高い。その場合、ディエゴは私を助けずに見捨てるという。
 かといってディエゴを殺せば、おのずと義母は私の秘密に気づくことになる。私の秘密を義母にバレないよう口止めしているのは、結局のところディエゴなのだから。それに加え、私がディエゴを殺したということが知られれば、愛する夫を亡くした義母は、失意のまま私を勘当するだろう。
 そうなった場合――私は高確率で、あの街に堕ちることになる。友人と呼べる人物とも縁を切られ、結婚することもできず、親と呼んだ人も死に、ディエゴに捨てられることで金も後ろ盾もなくなってしまったら、私は完全に孤独となる。そうなった私が行くべき場所なんて、あの街で娼婦として暮らすよりほかない。だけど――そうなってしまうことは、できるだけ避けたいことであった。
 ひとりでひっそり自殺するという選択肢は、最初からほとんど存在していない。残される義母のことを考えると、そうもできないという感情もある。
 ――それなら、私があの街に堕ちることを避ける道は――
「私が、この手で、お義母さまを……」
 恩を忘れて、義母にこの手を下す。実際そうすれば、ディエゴは私を見捨てることはないという。義母が死んだら遺産はディエゴに相続される――そのお金があれば、確かに私は今まで通り生きることができる。
 ――オレは君を殺さない――
 だけど、そんなの……そんなの。
「できるわけ、ないじゃない……」
 『毒』の小瓶を見て、憂鬱な気分に浸る。小瓶はあざ笑うように、または同情するかのように、ただそこに佇んでいた。


 ……あの日、呪われた街から戻ってきた私は、もう一度元の服装に着替えた。……舞踏会用に、いつもの服装よりもきらびやかな服装で。
 義母に見せるためだけに、きらびやかな服装に着替える様は、みじめで無様でさえあったが、それでも、やはりこの服が私の居場所に近い気がした。あの、古臭いドレスなんかではなく。
 上っ面だけはいい知らせを聞かせるのは、やはり心が痛んだが。もう、打ち切られた縁談の話をでっち上げるのは、辛かった。
 ……あのときのことを思い返しながら、ため息を吐く。あれからもう、二週間だ。また、舞踏会に行くフリをしなければならない時期が近づいている。しかし、このままではいけないという思いもあった。このまま何もできず、決行の日を迎えることだけはできないと。
 毒の小瓶。私の手のひらの中にあるこれは、人の命を奪う力がある。私の運命は、この毒が握っている――
 小瓶から目を外し、長く息を吐く。そのとき、ふと――本当に唐突に、ディエゴがこの毒について言っていたことを思い出した。
『これか? 東洋の毒薬だ』
「東洋の、毒薬……」
 何か、何かが引っかかる。東洋の毒薬――ディエゴは、これを、どこで手に入れたのだろう? このイギリスで、東洋人から毒を手に入れることはできるものなのだろうか? 私の知らないような、治安の悪い裏社会で、手に入れたと考えるのが一番妥当であるとは思うが――
 そう思った瞬間、何かが頭に過ぎった。
『ふうん、東洋人もいるのね、ここは……』
 あのとき、あの呪われた街に連れられた時、自分が言った言葉だ。
 東洋人のいる、治安の悪い呪われた街。東洋の毒薬。もしかして、もしかして、――もしかして。
 ――もしかしたら、ディエゴはあの呪われた街で、この毒薬を手に入れたのではないだろうか?
「…………!」
 音を立てて身を起こした。
 もしかしたら、もしかしたら、……もしかしたら。
 第三の選択肢が、あるかもしれない。
 この毒を使って。
 私の尊厳も殺さず、彼女を悲しませることもなく、あの男に復讐もできる――そんな選択肢が。

 脳に浮かんだ未来を思い浮かべ、そして――決意した。
 決してそれが楽な道というわけではない。だが――これが、間違いなくベストだ。私は、そう思った。
 この選択は、今までの選択肢とは違う。
 誰かに与えられた選択肢ではない。私はこれを、自分の意志で選ぶのだ。


「ナマエ、どこに行くの?」
 こっそり外に出ていこうとしたところを、義母に捕まった。声をかけられた私は、そっと微笑む。
「……言い出せなくてごめんなさい、お義母さま。実は今日、あの人と約束していたの」
「まあ、ハンスさんと? 素敵ね、楽しんでおいでね」
 嬉しそうな義母。そんな、罪のない彼女に対し、私は飾り立てられた服装で――舞踏会用ではないことになっているので、この間よりは控えめだ――笑顔で嘘を吐く。
 そうやって、義母と会話していると、視線を感じた。その先をふと見ると――あの男が、こちらの様子を伺っているように見えた。
 だが、ディエゴは遠目から見ているだけで、何も言わなかった。それが気味悪くはあったけど、それでも、ひとりで――使用人は連れて行くが――この家から飛び出せること自体には、ワクワクするような気持ちもあった。
 私はこれから、あの男の呪縛から逃れるために動くのだ。


「この間の街に行ってちょうだい」
「……かしこまりました」
 馬車の御者に命令する。彼らは私に仕えているつもりは無いのだろうが、それでも私の言うことは聞く。おそらく、義母への忠誠心は多少は残っているのだろうし、ディエゴにも言われているのだろう。ナマエ・ミョウジの言うことは聞くようにと。
 なんだっていい。それでいい。彼らが私の言うことを聞くのなら、それで十分だ。

 馬車の中で、いそいそと化粧を落とす。そして、以前ディエゴから受け取った古びた衣装と、仮面を身につけた。
 今からこの私が向かうのは、あの呪われた街。
 できれば二度と行きたくないと思っていた、あの街。その街に私は今から、自分の意思で、誰に強制されたわけでもなく――向かう。
 誰かから見れば、今の自分が愚かに見えるかもしれないとは思ったが――もう、そんなものに構うことはなかった。


 それから数十分後――馬車から降り、御者に待機命令を下して、少し歩いた。
 やがて私は、あの街に降り立つことになる。相変わらず、気味の悪い街だ。酷い匂い。地獄のような光景。……できるだけ、長居はしたくない。
 だけど、ディエゴが手に入れた毒薬の存在を知っている人間に出会うまでは――帰るわけにはいかない。
 私の、自分で選び取るための選択肢を、手に入れるために。

 しかし、ただ宛もなくさまよっているだけでは見つかるはずもない。
 だからといって、こちらからうかつに声をかけるのも、なるべく避けたいのも事実だった。
 ただでさえ、ジロジロ見られている不快感がある。少しでも気を抜いてしまえば、たちまち襲われてしまいそうだ。以前はディエゴが居たから、ある程度平気だったのだろう――そう思うと、あんな男でさえ安心感に繋がるのだと思うと、なんだか皮肉だが。
 周囲を警戒しつつも、辺りを見回す。みすぼらしい服、暗い瞳、酷い臭いの男女が、ぎょろりとこちらを見ていた。その視線に怯みそうになるが、怯んでもいられないと、気合を入れる。
 ……まずは、誰でもいいから東洋人を見つけるべきだ。その東洋人から、やがて東洋人同士のコミュニティに繋がっていけるはず。そこから、毒薬の在り処にたどり着けるだろうと、そう信じるしかない。
「ちょっと、アンタ」
「……何?」
 そうやって思案していると、突然、後ろから誰かに声をかけられた。低い、女の声だ。
 身構えながら振り返ると――娼婦と思わしき、気の強そうな女が、こちらを見ていた。
 その顔を見て――何故か、突然思った。……誰かに、似ている?
「こんなところで何一人うろついてんのよ。新入り?」
「……だったら何?」
 何をしに来たのだろう。こんな街では男だけでなく、女だって警戒対象だ。睨みながら応答すると、彼女もこちらを強い瞳で見つめながら、言葉を続けた。
「ちょっと、あたしは親切で声かけてんのよ。もしあんたが間違ってこの街に着たってんなら、さっさと出ていったほうがいいわよ。せっかく綺麗なドレス着てるんだから、盗られる前に逃げたほうが良くってよ」
 ――このドレスでもまだ綺麗なものだと思われているのか。こんな古びた、誰が着たものかもわからないドレスでも。
 私は、彼女の姿を上から下まで見定める。私よりもずっとみすぼらしい格好、だが、意志は強そうで、今のところ、嘘をついているようにも見えない。
 彼女の言葉が、本当に親切か、真実か、それはわからない。
 だが――どうせ、他に当てもないのだ。私は、賭けに出た。
「……探している人がいるの。それが誰かまでは、まだわからないけど」
「……誰?」
「東洋の毒を売っている、おそらく東洋人」
 私の言葉を聞いた途端、女は目を見開いた。そして、軽く息を吐いて、あっさり答えた。
「……心当たりがある。ついてきて」
 それから女は颯爽と歩き出し、さすがに戸惑ってしまった。このまま、彼女に付いていっていいものか――だが、女は立ち止まらない。
 一か八かだ。私は、女の後ろを歩いていくことにした。

「……店の前で待ってあげるから。早く行ってきなさい。……何をするつもりなのかは、知らないけどね」
 薄暗い店に案内されたと思うと、女は店の前に仏頂面で立った。
 罠ではないかと一瞬思い、入るか否か、少し迷いかけたが――やがて私は、意を決して中に入った。
 警戒しながら辺りを見たが、そこで私は、急に襲われるようなことはなかった。暗くて、どこに何が置いてあるかもわからない空間で――ただ、店主と思わしき気味の悪い男に、出迎えられただけだった。
「へへへ、いらっしゃい。見ない顔だね、新入りかい?」
 こずるそうな東洋人――中国人か、それ以外か。ともかく、黄色人種であることは確かなようだ。
 まあ、どうだっていい。今重要なことは、そんなことではない。
「……聞きたいことがあるんだけど。この毒薬を売ってるのは、あなた?」
「へっへっへ、まさにそのとおりで。その毒薬が――どうかしたかい?」
 小瓶をかざすと、男はにやついた顔でうなずく。ああ、どうやら本当に、辿り着けた――私は、内心、心底ホッとしていた。
 この毒薬を売っている人に、無事出会えたらどうするか。
 それはもう、決めていた。
「……そう。それなら話は早いわ。それじゃあ――」
 そして、私は男に『あるもの』を頼み込む。それを買うための金は、適当に持ってきていた。
 男は満足そうに金を数えた後――私が注文した通りの、『あるもの』を手渡した。
 そして、私の手の中に、新たな重みが増えることになる。
 それは――私とディエゴと義母の運命を握るもの。
 今までは、実質、私達の運命を握っていたのは、ディエゴだけだった。私はただの、あやつり人形にすぎなかったのだ。
 だけど、今は違う。
 もう、私は、あやつり人形なんかじゃない。私の運命は、私が決めてやる。そう思った。


「……目的は、達成できたの?」
「ええ、まあ」
 店の前で待っていてくれた女を前に、ため息をつく。この女は本当に、親切で私を案内してくれただけのようだ。こんな街でそんな人物に出会うとは思ってもみなかったが、本当に運が良かったようだ。
 そして私は、彼女の姿を改めてまじまじと見る。先程見たときは気が強そうに見えたが、今見えたその表情はどこか、疲れ切っているように見えた。
「ありがとう。何か、礼をしたほうがいいかしら?」
「別に要らないわ。私はただ、あなたが、昔の自分のように見えたものだから。……今思えば、勘違いだったかもしれないけどね」
「?」
 急に何を言い出すのだろう。訝っていると、彼女は独り言のように、ぽつりぽつりと呟いていく。
「……以前も、毒薬を探している男に、案内したことがあったの。仮面を被っていたけれど、隠しきれない綺麗な金髪が透けて見える男だったわ。……どこかで会ったことがあるような気がしたけれど、きっと気のせいだったのね。あなたとも、以前、どこかで会ったことがあるような気がしたけれど――」
 ――ディエゴ。その名前が頭に過ぎった途端、言葉に言い表せない気味悪さを感じた。
 やっぱりあの男も、この街で毒薬を手に入れたのだ。それ自体は、予想できたことだった。
 だが、今はそれ以上に、ディエゴの存在がここで示唆されたことへの気味悪さを感じていた。
 もしかして、彼女は、――私と彼女が知らないところで、ディエゴと繋がっているのだろうか?
 まさか、そんなはずはない。私も彼女にどこか似ていると思ったし、彼女も私をどこか似ていると思ったようだが――
 ただ、それだけだ。お互い、なんとなく似ているような雰囲気を感じ取っただけで、本当に他人の空似なのだろう。
 そう思うことにした。それが気のせいじゃなかったとしても――今の私には、どうしようもなさそうだったから。

 似ていると思ったのは、私が彼女に、未来の自分を見たからだろうか。彼女が私に、過去の自分を見たからだろうか。もしかしたら私は、この女のようになるのかもしれないと――
 しかし、私はもう、選択肢を決めたのだ。誰かに似ていると思っていた彼女は、誰にも似ていないような気がした。
 ここに居ないはずの男の嘲笑が、なぜか聞こえてくるような気がした。

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