15.小瓶との踊り

 私は、悩んでいた。
 自分のベッドの中で横たわりながら、溺れてしまいそうなくらいに悩み疲れていた。
 その悩みの元凶は――手の中にある、冷たい小瓶。

 固く握りしめた、毒入りの小瓶。人を殺すことのできるこの毒を、誰かに盛るべきか、それとも誰にも盛らないべきか。
 憎たらしい男に毒を盛り、生きていけなくなる道。恩のある人に毒を盛り、生き延びる道。誰にも毒を盛らず、孤独に生きる道。どの選択肢にも矛盾があるように思えるのに、何故か矛盾はひとつもない。この異常な事態が、私のことを更に苛立たせる。
 ――いっその事。
 今、私がこれを飲み干してしまうことができたなら。私は、この悩みだけではなくて、全てのしがらみから解放される。今じゃなくても良い、これからの人生のなかのいつであったとしても。
 だけど――それを、実行してしまうのは、あまりに癪だった。誰も得しない、悲劇的な道――私の人生を、そんな形で終結させるのは、絶対に嫌だった。
 どの道を歩んだとして、私は真に幸せになることができない――その事実があまりにも腹立たしくて、私は手の中の小瓶を固く握りしめた。壊れてしまうんじゃないかと思うくらい強く握りしめたが、小瓶は私に冷たい感触を与えるだけだった。
「ナマエ様、お食事の時間です」
 そうしていると突然、機械的なノックと単調な言葉が聞こえてきた。使用人のその声に反応するのも、正直かなり億劫だったが、私はなんとか返事をする。
「……わかったわ」
 そして、私は気だるい身体を起き上がらせた。寝転んでいたせいで乱れていた服装を適当に整え、私は部屋を出る。
 部屋の外の廊下の、少し肌寒さすら感じる涼しい空気を吸い込む。ついさっき、朝食のときにも部屋からは出たけれど、随分久しぶりに部屋の外の空気を吸った気がした。

 ここ最近の私は、ほとんどずっと部屋に篭もっていて、食事などの時だけにしか部屋を出なかった。それに、誰かと会話らしい会話もほとんどしていなかった。
 義母とも当たり障りない会話しかしないし、あの男――ディエゴ・ブランドーとはほとんど何も話さないし、話すこともない。何かを話すとしても、義母の前で上っ面だけは良い会話をするだけだ。
 社交界に呼ばれなくなったことで、友人と呼んでいた人たちからも縁を切られてしまっている。彼らと会話することも、もうなくなった。
 そして、こんな状況になって初めて、私は使用人と全く親しくしていなかったことに気がついた。以前から彼らは、私というよりは義母に対してのみ仕えているような気はしていたし、最近は専らディエゴにばかり良い顔をしている気がする。彼らは、自分に給料を与える存在にしか興味が無いのだろう。今、彼に給料を払っているのは、実質ディエゴなのだから。ついでに言えば、舞踏会の騒ぎがあってから、彼らが私に向ける目は更に冷たくなったような気もする。
 この、絶望的な状況におかれた私のことを、以前にハンス・ポップだけが唯一歩み寄ってくれた。だけど、私は彼の手をとることができなかった。そして彼もまた、離れていってしまった。――私に歩み寄ってくれる人など、もう二度と現れることはないだろう。
 ――なんだ。もう私は、完全に孤独ではないか。
 もう私は、自嘲するしかなかった。ただ、毒薬を誰かに盛るか盛らないか、それを孤独に考えるしか、私には道は存在していなかった。


「は? ……舞踏会?」
 静かな会話が繰り広げられる昼食の時間。私が間抜けな調子で聞き返した言葉に、そうだ、と何食わぬ顔でディエゴは紅茶を啜った。
 舞踏会に私が招待されたと、彼は言ったが――私が二度と舞踏会に招待されることがないことは、私自身が一番理解している。
 これは。……これは。
 ――ありえない。馬鹿なことを言わないで、からかわないで!
 感情のままに怒りの言葉をぶつけたくなったが、何も知らない義母の手前、そんなわけにもいけない。私が何と言い返してやろうかと思っているところに、義母が幸せそうにこう言った。
「まあ! この間言っていた、ポップ家のハンスさんもいるのかしら?」
「もちろん。彼とナマエは、とても仲が良さそうでした。うまくいけば、ナマエも半年後には結婚できるでしょう」
「それは良かったわ! ナマエったら、なかなかお相手を見つけることができていないようで、心配だったのよ」
「その日、オレがナマエのことを連れていきます。あなたはナマエの報告を楽しみに待っていてください、愛しい人」
「まあ、ディエゴったら! ええ、楽しみにしているわ」
 六十三も年齢差のあるこの夫婦は、私の前で一体何を話しているのだろうか。芝居がかった男の声。心底嬉しそうな老婆の声。二人の会話は、言葉は理解できるが文脈は全く理解できない。
「ちょっと……」
 どういう意味。キツイ口調で言いたくても義母の前ではそんなことはできず、二人に私の声は届かない。
 ――これは一体、どういうつもり?
 二人は依然、少なくとも表向きは楽しそうに語り合っている。
 知りたいことを知ることのできない気持ち悪さと、上っ面だけは仲の良い二人の様子に吐き気を感じながら、私は食事を無理やり喉に流し込んだ。
 味を感じることができず、うまく飲み込むことができない。せり上がってくるような感覚を覚え、飲み込んだばかりの食事を吐いてしまいそうだった。


「どういうつもり」
 昼食後、義母がいない場でディエゴのことを問い詰める。何がだ? とシラを切るような彼の姿に、ひたすら苛立ちを感じながら私は聞いた。
「舞踏会のことよ。私がもう、舞踏会に行けるはずがないことはわかっているわ。あなたのせいでね。……それとも、私がまさか、本当に舞踏会に招待されたとでも言うの?」
「まさかだろ」
 ディエゴは肩をすくめて言った。嫌味なほど美しいその仕草も、私のことを苛立たせるだけだった。
「じゃあ、なんでそんな嘘ついたの」
「君、あれから何日経ってると思ってるんだ。もう軽く二週間は経ってるぜ。君だって、たまには屋敷を出ないとあの人に怪しまれるぞ。舞踏会に行く『フリ』も、大事なんじゃあないか?」
「……だからといって」
 ディエゴは、全く悪びれずに言った。私は彼に対し口を開いたが、うまく言い返すことができない。実際、彼の言うことも理にかなっているのだから。それでも、私は苛立ちを抑えることができず、ただ歯を食いしばった。
 そんな私に、ディエゴは軽くため息をついて告げた。
「ま、この嘘だって、半年後にはチャラになるんだ。どっちにしろ、の話だな」
 半年――私に残された、選択の時間。もっと言えば、それはもう半年もない。その事実に、私はただ唇を噛みしめる。
「あの人に舞踏会へ行くと告げた日は、ちょうど一週間後だ。忘れるなよな、ナマエ」
 ディエゴはこう言い残し、私の元から立ち去った。彼に対し何も言うことができなかったという事実が、ただただ悔しかった。


 今の私には、一週間後に屋敷から出た後に、どこに行くべきなのかすらもわからなかった。
 こんな調子で五ヶ月後、私は自分の歩くべき道を定めることができるのだろうか――今の私には、わかるはずもなかった。

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