14.進むべき選択肢は

 どうして。
 どうして私は、あの時。
 ――後悔なんて、いくらでもできる。だけど。
 たとえ何度、後悔したとしても、過去に戻ることはできない。やり直すことなんて、できるわけがない。
「まあ、とりあえず落ち着けよ」
 あなたのせいじゃない、と言うことすら、今の私にはできなかった。今、自分がどうしたら良いのか、私にはわからなかった。
 屋敷の奥の部屋に入り、椅子に腰掛けると、ディエゴは、紅茶を入れろと使用人たちに指示をした。要らないと言おうとしたが、それすら言うことができなかった。


 要らないとは思っていたものの、いざ温かい紅茶を口にすると、いくらか落ち着いた。
「…………」
「大丈夫か、ナマエ」
 ディエゴ・ブランドーはわざと、当たり障りのない言葉を投げかけてくる。逆にそれが、どうしようもなく不愉快だった。
 私自身に全く非がない、とまでは言うつもりはないが――実際、ほとんどこの男のせいだというのに。
「どうして」
 やっと出てきた言葉は、それだけだった。
 どうして、この男は、こんなことをするのだろう。
 どうして、この男は、私の手で義母を殺させようとするのだろう。
 どうして、この男は、私が幸せになる道を阻もうとするのだろう。
 どうして、私は、あの時――

「ああ」
 ディエゴは、何気なく頷いた。そして、冷たく言う。
「さっき、あいつ――ハンス・ポップと話してわかっただろう、ナマエ」
 何が、と掠れた声で聞く。実際、ディエゴが言うであろう答えは、大体わかっていたのだけれど。
「君が持っている選択肢は、かなり少ない。その中でも君が幸せになれる選択肢は――ひとつだけだ」
 彼の言葉を聞いて、私は、自分が持っている道について、改めて考えた。
 義母に毒を盛り、ディエゴに拾われ、不自由はないものの大切なものを失う道。ディエゴを殺し、絶望する義母と、そんな彼女に私の失態がばれて、勘当され生きていけなくなる道。自殺して、私の人生そのものが途絶える道。誰も殺さず、ディエゴに捨てられ、生きていけなくなる道。
 私が進むことのできる道は、これだけだ。――ディエゴが与えた私の道には、決して外れることのできない、力があった。
 そうだ――ハンス・ポップと共に歩む道、最も幸せになれたであろう道は、たった今、砕かれたばかりなのだ。半分はこの男がへし折ったようなものだったが、半分は私が折った、と言っても過言ではなかった。
 そして――私が幸せになれる選択肢なんて、そんなの。
「ひとつもない、の間違いでしょう」
「君がそう思うなら、そうかもな。今まで通り、金にも食料にも何不自由ない生活を送る道が、不幸だと言うのなら」
「笑わせないで」
 わざとこの男は、重要なことを避けて話す。私にとって、最も、大事なことを。
「あなたはそれを、この私が、今まで育ててくださった恩も忘れて――お義母さまを殺さないと与えない、って言うんでしょう」
 ディエゴは肯定する代わりに、肩を竦めた。

「……何よ」
 いつもこの男は、私のことを支配しようとする。自分の思い通りに、事を進めようとする――良いように使われているのが、どうにも気に食わなかった。
「結局私は、あなたが与えた道しか進めないって言いたいわけ? 私はあなたの、あやつり人形ってわけ」
「あやつり人形?」
 ディエゴは意外そうに目を見開いた後、おかしそうに笑った。端正な顔に浮かぶ笑みは、美しいと形容できるほどのものではあったが、どうも気に食わなさが増すだけだった。
「……どうかな。あやつり人形になるか、それともあやつる側になるかは――君次第だぜ」
 私が、この男に苛立ちを感じたのは、これで一体、何回目だろうか。私はカッとなって、思わず立ち上がってしまった。
「どういう意味なの、ハッキリ言いなさいよ! あなたはいつもはぐらかして、私のことをコケにして――」
「君があの人を殺したら、全てを話してやる」
 思わず怯んだ。全く予想していない答えだったのだ。そして私はそのまま、呆けて座り込んでしまう。
 今まで、この男が全てを話すなんて、言ったことはあっただろうか?
 私が何も言えないでいると、彼は静かに囁いた。それはどこか、不気味なくらいだった。
「ああ、先に言っておく。『オレは君を殺さない』、『オレはあの人を殺さない』。そして、『君があの人を殺せば、君を救ってやる、君に全てを話す』――それだけは、事実だ。誓ってやってもいい。まあ、誓いに意味があるとは思えないがな」
「……全てって?」
「全ては、全てだ。それ以上の意味は無い」
 私が考えている、『どうして』の答え。
 彼は、私に義母を殺させるという、残酷な道を進めば、それを教えるという。
 だが、それすら――何故そんなことをするのか、わからない。
「どうして」
 私の中にある、何個目かわからない、『どうして』だ。どうしても、それが尽きることはなかった。
「あなたは何故、わざわざ、この私にお義母さまを殺させようとするの」
「……それも、君があの人を殺したら教えてやる」
 ディエゴは紅茶に口をつけた後、独り言のように呟いた。
「君自身の手で、殺せばな」

 暫く、私は無言だった。私の口が開かないことを確認すると、ディエゴはまた、冷たい声で話し出した。
「そうだな……あの人がいつ死ぬか。まあ、毒を盛らずとも、放っておけば死ぬだろうが――それじゃあ、意味がないな。決行日を決めようか」
 この男は、何気なく人の命を――それも、仮にも自分の妻である人のことを――軽んじた言い方をしたが、今更いちいち噛み付こうとは思わなかった。
 だが、それを除いたとしても――やっぱり、この男の言うことは、いつだって最悪だ。
「君にも、時間が必要だろう? 考える、時間が。そしてオレとしても――君がいつ動くかっていうのは、知っておきたい」
 彼の言っていることが一瞬理解できず、顔を顰める。どういう意味、と聞くと、彼は少し思案し、そして言った。
「そうだ。……今から、五ヶ月後。確か丁度その時、あの人の誕生日があったよなァ……その日だ」
「……お義母さまの?」
「そうだ……その日。君は、誰かに毒を盛る。もしくは、誰にも毒を盛らない。その日以外に毒を盛ったとして、それはノーカウントだ」
 義母の誕生日。ディエゴはよりによって、その日を決行日にしろという。その日以外に、義母に毒を持ったとしても、きっと私は、捨てられるのだろう。わざわざ義母の誕生日に殺せなんて、全く悪趣味だ。
 私が顔を顰めていると、彼は、ジョークでも言うように、軽く言った。
「まあ、その日までにあの人がポックリ逝っちまったら――まあ、その時はその時、だな」
 私は暫く、無言で考えていたが――ふと、口から飛び出てきた言葉は、今、この私が言うべき言葉ではなかったかもしれない。あなたは最低だと、口汚く罵るべきだったのかもしれない。
 だけど――もう私は、何を言ったら良いのか、わからなくなっていたのだ。
「私が誰かに毒を盛ったとして――その相手が誰であろうとも、彼女にとって一番最悪な誕生日になるわね」
 どこか冷静ともとれる自分の言葉の響きに、内心呆れた。
 ああ、そうだな――と言ったところで、ディエゴは唇を舐めた。いつも酷いことしか言わない癖に、その唇にはどこか、色気のようなものがあった。

 ディエゴは息をついて、私の方を鋭く見つめ、そして言った。
「これは賭けだ、ナマエ・ミョウジ。ゲームといってもいい」
「どっちに転がろうと、あなたに損はないのに? 賭けとして成立していないわ」
 私の言う言葉は、さっきからどこかズレている。その自覚はあるのに、私はどうしても、正しいことを言うことができない。
 この男のことを、上手く罵ることができない。
 それはもう、私は、この男のことを罵る資格がないと判断したのだろうか――と、やけに自分のことを客観視している自分がいた。
「どうかな。君がオレを殺す、という可能性もゼロじゃあないから、損がないと言い切れることもない」
「『君はオレを殺さない』――なんて、自信満々に言っていたのはどこの誰だったかしら」
 私が言っても、ディエゴは肩を竦めるだけだった。
 そして彼は、おもむろに立ち上がった。私はそんな彼を、無言で見上げる。
「さて、そろそろ話を終わらせても良いか? オレはそろそろ、あの人のところに行かなくっちゃあならないからな――あんまり遅くなると、彼女の機嫌が悪くなるんでね。全く、『夫』でいるのも楽じゃあない」
 ディエゴは立ち去った。冷めた紅茶と、私だけがそこに残された。
 やっぱり、今にでも毒を盛ってやれば良かったかと、そう思った。

 やがて、私も部屋に戻ることにした。その道すがら、使用人たちは私のことを遠巻きに見つめるだけで、誰も何も話しかけてこなかった。
 自分の部屋に戻り、ベッドに寝転がる。
 そして、静かに独りでいると――少しずつ、頭の中が落ち着いてきた。
「…………」
 そして、立ち上がり――なんとなく、毒の入った小瓶を、引き出しから取り出してみた。
 それから、思った――後悔しても、何も変わらない。私が『過去』のことをいくら思おうと、私自身の現状は、何も変わらないのだ。『どうして』といくら言ったところで、今、答えを得ることはできない。
 ならば、せめて。
 私の『今』と『これから』を、後悔しないように進みたい。後悔せずにいられる道は、本当にあるのかどうかは、わからない。もしかしたら、どこにもないのかもしれない。だけど、私はどうしても、正しいと言える道を見つけたい――
 先程のディエゴとの会話を終え、混乱を経て落ち着いた頭で――何故か私は、強くそう考えたのだった。
 だが、今の私は――この小瓶をただ、固く握りしめることしかできなかった。


 お義母さまは、私たちの騒動のことを何も知らない。少し離れた部屋で、彼女はさっきまで、穏やかに眠っていたのだろう。そして今は、愛する『夫』と会話をしながら、幸せそうに笑っているのだろう。
 なんて哀れなんだろうと、心の中で呟いた。それはもしかしたら、自分に向けられた言葉かもしれなかった。

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