43.私たちの世界

 それから私たちは、お互いのことをぽつぽつと話し始めた。
 思えば、ナランチャの過去も、少しは聞いていた。浮浪児だったナランチャをフーゴが見つけてくれて、ブチャラティに救われたこと。ブチャラティは何の得もないのに叱ってくれたこと。しかし、浮浪児になった経緯までは、何も知らなかった。
 母親が亡くなったこと。父親に無関心を貫かれていたこと。学校に行かなくなったこと。時に盗みをしながら、友人の家に泊まり歩いて過ごしたこと。友人に裏切られたこと。少年院に入ったこと。友人だった存在に見捨てられたこと――
 それらのことを、拙い表現ではあったかもしれないが、彼は懸命に伝えようとしてくれた。私に、自分の過去を、教えてくれようとした。
 それが嬉しくて、それでいて伝えられた彼の過去が悲しく思った。

 そして私も、日本で知った自分の過去を彼に伝えた。
 母親は自分のことをいないものとして扱っていたこと。友人もほとんどいなかったが、親友といえる存在がひとりだけいたこと。その親友が殺されていたこと。知り合いたちから自分の記憶を奪ってこの国にやってきたが、親からは自分の記憶を奪わなかったこと。それでも親は、私のことを探そうともせず、結局無関心を貫いていたこと。日本には私の居場所はどこにもないと、痛感したこと――
 終始、これらの言葉が、自分の人生だった自覚が持てなかった。どちらかというと、もう二度と会えない、古い友人のことを語っているようにも思えていた。しかしナランチャは、そんな私の話もしっかりと聞いてくれていた。

「そっか。君もオレも……おんなじだったのか。君にも、あったかい家族は、いなかったのか。……オレは、君は日本に行けば、幸せになってくれるんじゃないかと思ってたけど――そういうわけじゃあ、なかったのか」
 ナランチャは天を仰ぐ。そんな彼のこんな言葉を聞いて、私は少し考えた。
 彼が、私を拾ったのは――ヒーローになりたかったから。そして、彼にとってのヒーローはブチャラティ。
 となると、ナランチャは私に、過去の自分を重ねていたのではないか。だから私が、自分の代わりに、故郷で親とともに幸福に暮らすという幻想が――無意識下で、彼にとっての救いになっていたかもしれない。
 これが、真実かどうかはわからない。ただの邪推なのかもしれないし、それを確かめる気もない。
 だけど――だからこそ私は、こう言った。
「私は……この国にいることが幸せだよ。ブチャラティとフーゴとナランチャと一緒に働いて、ナランチャと一緒に暮らすことが、私の幸せだよ」
 ナランチャも、そうじゃないの?
 私は幸せだ。だから、ナランチャもそれで幸せなのではないか?
 そこまでは口には出さなかったが、心からそう思いながら、私はナランチャの瞳を見つめる。輝く瞳が、ゆらりと揺れた。
 ナランチャは、しばらく無言になった。しかしそれから、そっと私に触れた。
 それから――両手を伸ばして、ゆっくりと抱きしめてくれた。どこまでも優しく、優しく――
「……オレも。オレも今、きっと幸せだよ。だから、君のことを……ナマエのことを、ずっと守りたい。ナマエの笑顔を見たい。……これからも、ずっと一緒にいても、いい?」
 力強くもか細くもあるような、大好きな声が、耳元で響く。
 ひとりの少年が、私のことを抱きしめている。私のすぐそばに、等身大の姿として、ぬくもりが感じられる――
 私は、答える代わりに抱きしめ返した。ずっとこうしていたいと、そう願いながら。


「ちょっと思ったんだけど……ナランチャは、私のどこを好きになったの?」
 それから、なんだかんだのんびりと過ごしていた。そこで、ふと気になったことを聞いてみる。
 面倒な質問をしてしまったと思ったのは、口に出してからだった。しかし後悔する間もなく、ナランチャは特に恥ずかしがる様子でもなしに、あっさりとこう言った。
「んー……全部?」
「ぜん、ぶ?」
 そんな彼の答えに、さすがにこちらが照れてしまった。まさか、そんな風に言われるとは思っていなかったから。
 しかしナランチャは、少し考えたと思ったら、具体的にこう言い始めた。
「えっとよォ……なんというか、最初、オレは君と、なんかおんなじ感じがするなァ〜って思ってたんだけどさ」
 そこで彼は一旦言葉を止める。私は胸をドキドキさせながら、彼の言葉の続きを待った。
「けど、いろんな話をしていくうちに、なんか楽しいなァって思ったり。音楽の話も、好みが合ってたしな」
 それは、私も同じだった。ナランチャと話す音楽の話題は、誰と何を話すよりも楽しいと思えた。
「オレさ、ナマエが日本に行ってから、離れてから。ちょっぴり、寂しかったんだ。もう、オレと暮らしてくれる人はいないのかなァーって。オレと一緒に音楽のこと話して、毎日同じもん食ってさ。ナマエがいて、オレはすっごく楽しかったんだなって気がついた」
 そこで、ナランチャは顔を赤くする。離れてたときに相手のことを考えていたのは――お互い様だったようだ。
「……うん、やっぱりオレ、ナマエがスゲー好きだ」
「うん、わかった……ありがとう、もういいよ」
 私も照れてしまう。そして思わず、顔を背けてしまった。しかし、こんな態度はさすがに冷たく感じられてしまうのではないかと、私も慌てて言う。
「わ、私も、ナランチャのことが、好きだよ。多分、世界で一番……」
 こうやって本心を口に出すのは思っていたよりも恥ずかしく、顔から火が出そうだった。
 しかし、当のナランチャはしばらくきょとんとした素振りを見せた後に――いたずらっ子のような顔で、そっと囁いた。
「へへへ。もちろん、わかってるよ」


 それからしばらくして、私は一人でシャワーを浴びていた。
 これは、恋人っていうことで良いんだろうか。しかし、お互いに『付き合ってください』みたいなことは言っていない。
 でも、普通に考えれば、恋人になって初めての夜と思ってもいいのだろうか? ――そう考えると、ここになってやたら緊張してしまう。
 そんな、ある意味では浮かれたような精神状態になっていたが――どうやら、それは杞憂だったらしい。
 シャワーから出て着替えた後に部屋へ向かうと、ナランチャは目を輝かせて、何故か枕を手に持っていた。
「ナマエ! 枕投げしよーぜ!」
「……ナランチャの家、枕二つしかないよね?」
 何故、今になってそんなことをしようとするのだろうか。私は一瞬だけ呆気にとられたが、やがて吹き出してしまった。
 恋人というか、友達が初めて泊まりに来たみたいな反応をする。まあ、でも、このくらいの距離感のほうがお互いに良いのかもしれない。その方が、これからの毎日を楽しみに過ごすことができる気がする。
 そう思いながら、私は枕をナランチャの方に投げた。しばらく笑いっぱなしで、楽しい夜が更けていった。
 明日からの毎日を、楽しみに過ごしながら。

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