42.あなた色の世界

 数十分後、ふと目が覚めた。
 窓の外に目を向けると、空はオレンジ色に輝いていた。どうやら、曇り空は晴れたらしい。
 そして、体育座りのまま寝てしまっていたため、身体のあちこちを少し痛めていたことに気がついた。しかし同時に、自分が毛布を被っていたことにも気がつく。毛布を被った記憶はないのに、だ。
 それを不思議に思いつつも、欠伸をひとつして、気だるい身体を伸ばす。
 それから、ゆっくりと立ち上がって、何気なく部屋を出た。
 すると。
「あ」
「……あ」
 少しの間、沈黙が流れた。
 タイミングがいいのか悪いのか、ナランチャとばったりと居合わせてしまったのだ。
 彼の表情は、バツが悪そうだったけど――それでも、私のことを拒絶している風ではない。
 今の私は心の準備ができていない状態だったので、ほんの少しだけ焦った。
 しかし、久しぶりに、ゆっくりと彼と話せるような気がして――少しずつ、心が落ち着いていくのがわかった。


「えっと」
 だが、気まずいものは気まずい。自分が今まで何をしてきたのかを、少しずつ思い出していく。
 そうだ。私はさっき、手紙に、あんなことを――
 ふと見ると、ナランチャの顔は赤いように見えた。もしかしたら、私の顔も同じ色をしているのかもしれない。
 そう思いながらも、まずは口を開いた。一番先に言うべき言葉は、これだと思ったから。
「その。ごめんなさい、ナランチャ。私、あなたに酷いこと言っちゃって。それに、ナランチャの言うことも聞かないで、勝手に家を飛び出しちゃった。……迷惑かけたと思う。ごめん」
 まずは一度、しっかりと謝る。できるかぎりの誠意を持って、頭を下げた。
 そんな私に、ナランチャは最初、目を白黒させた。かと思うと、少し後に、呟くように言葉を出した。
「オレの方こそ……その、ごめん。オレ、ナマエのこと、何も考えれてなかった」
 目をそらしながらこう言う彼に、私は首を振った。
 そんなことはない。私たちは、お互いを知らなすぎるだけだった。
 やがて、ナランチャは私の方を見つめた。だから、私も彼の目を見つめ返す。
 そして、二人同時に頷いた。
 きっと、これで仲直り、ということでいいのだろう。私達はきっと、自分たちの心を、伝えることができたはずだ。悩みながらも、勇気を出して。

 そのことが自覚されると――今度は、違う問題のことを思い出した。
 私たちが踏み出した――もうひとつの、ささやかな勇気。それを意識してしまうと、ますます紅潮してしまいそうだった。
 どうやって切り出すか迷っていたが、しかし、それをこのまま秘めていくわけにもいかない。
「ナランチャは……その、どうして手紙を書いたの?」
 一手。告白のことには触れずに聞いてみる。するとナランチャは、すぐに答えてくれた。
「……オレ、あの後、君が帰ってこなかったらどうしようって、思ってた。君が、もう二度とオレと話してくれなかったら、どうしようって。だから、せめて、君に手紙を渡せば、謝ることができるんじゃあないかって」
 そこでナランチャは息を吐く。
 ナランチャも、私と同じようなことを考えてくれていたのだろうか。――二度と話せなかったら、どうしようって。そうして、私のことを考えてくれていたのだろうか。
「ナマエ。その……オレ、君がいなくなってから、考えてたんだよ。君には、幸せになってくれないかな、とか。でも、ナマエともう二度と話せなくなるのも寂しいな、とかさ」
 私がこの国からいなくなったとき、ナランチャは私が思っている以上に、私のことを思ってくれていた。それを実感すると、どうしようもなく嬉しさが心にこみ上げてきた。
「君ともう一度話したいって思ってた。だけど、ここに戻ってくるより、故郷で平和に暮らす方が、幸せになれるんじゃあないかって思ってたから、あんなこと言っちまって……」
 今ならわかる――あのときのナランチャは、私のことを拒絶したわけではない。幸せを願ってくれていただけだったのだ。
 それに気づけなかった私は、愚かだったのだろうか。
「……上手く言えね―けどよォ、そういうのを色々書こうとしてたけど、上手く書けなくて。だから伝えたいことをとにかく書こうと思ったんだけどよ、……見られちまったな。あれ、まだ、途中だったんだけどさァー」
 そこで彼は言葉を止めた。私も、何も言わなかった。その次にどんな言葉が飛び出してくるか、なんとなくわかっていたから。
 ナランチャ・ギルガは息を吸い込み、そしてこう言った。

「ナマエ。……もう一度言うぜ。君のことが、好きだ」
 そして彼は、しっかりと目を見つめてくる。自分の気持ちを確かめるように。
「ナランチャ」
 だから私も、しっかりと目を見つめ返した。お互いの気持ちを、確かめ合うように。
「私もあなたのことが、好き。あなたは私のことを見つけてくれたヒーローでもあって、私と一緒にいてくれた、私の世界を変えてくれた人だから」
 私の答えに、ナランチャは嬉しそうな顔を見せてくれた。しかし彼の表情には、どこかに憂いのようなものもあった。
 そんな顔をしたのが意外で、不意にときめいてしまった。だけど、同時に疑問に思わざるを得なかった。
 彼はどうして、こんな時に、そんな顔をするのだろうか。

「なあ、ナマエ。君にとってオレは、その……ヒーロー、なのか?」
「も、もちろん」
 こんなことを聞いてきたナランチャに、戸惑いつつも頷く。しかし彼はさらに、困ったような顔をしながら呟いた。
「君はオレのことをヒーローとして見てくれるけど、本当にそれでいいのか、オレ、わかんねえよォ……。オレ、たぶん、ブチャラティのマネをしてただけなのに」
 ナランチャは苦悩したのか、後ろめたかったのか。目を逸してこう言った。
 しかし、自分でも意外だが、ナランチャのその言葉にはショックを受けることはなかった。
「君に……カッコつけたかったみたいなんだ、オレ。だから、ナマエに話せていないこともいっぱいある」
 実のところ――ナランチャのこれらの言葉は、なんとなく、わかっていることだった。今までは意識したことはなかったが、彼の言葉を聞いた途端、納得させられるものがあったのだ。
 ナランチャの言動の一部は、自分のヒーローを手本にした行動ではないかと。自分が誰かのヒーローになりたくて、あの人のようになりたいと思ったのではないかと。

 しかし、だからといって――私のヒーローは、他の誰かに変わることは、ないのである。
「……やっぱり、ナランチャにとってのヒーローは、ブチャラティなんだね。でもね、ナランチャ。それと一緒で、私のヒーローは、あなただけ。何があっても、あなたの何を知ったとしても」
 こう言いつつも、私も最初は、ナランチャのカッコいいところばかり見ていた気がする。
 私のことを拾ってくれたところ。弱っていた私を入院させてくれたところ。行く宛がなくて困っていた私に仕事を紹介し、家に泊まらせてくれたところ。
 これは、誰かのヒーローになろうとして、自らのヒーローを模倣しただけの姿なのかもしれない。彼はただの、ヒーローに憧れる、ギャングの下っ端の少年でしかないのかもしれない。ブチャラティに相談もせず私をギャングに入れたのも、そうするしかヒーローになる方法を知らなかったのかもしれない。
 しかし、既に私は、ナランチャの違う面も見てきたつもりだ。
 カラいものが嫌いなところ。学校に行っていないから算数の勉強をするところ。ラブレターの書き方も知らないところ――
 そんな面も含めて、私は既に、ナランチャのことを好きになってしまっていた。そしてこれから、今まで知らなかった姿を知ったとしても、きっともっと好きになるだろうと、そういった確信もあった。
 彼が自分なりに行動した行動が、私にとっての唯一のヒーローとなって。
 そして、ひとりの等身大の少年の姿として、私の目に焼き付いた。

 私の言葉に、彼は心動かされたのだろうか。少しの間俯いていた彼は、やがて、前を向き宣言した。
「オレ……オレ! 君に、話すよ。いろんなこと。今まで言わなかったことも。今なら君に、知ってほしいから」
 彼の、訴えかけるような言葉に胸を打たれた。
 だから、私も訴えかける。今まで話せていなかった、心の奥底の気持ちのことを。
「ありがとう。私も知りたい、ナランチャのこと。そして、私のことも、知ってほしい。……ねえ、これから一緒にいろんなことを、知っていこうよ」
 自分のこと。ナランチャのこと。記憶を失った、無知な私が知らない、多くのことを。
 お互いが、一緒にいろいろなことを知っていきたいと――そう思ったのだ。
「……だよな。知らないことが多くたって、いいよな。これから、知っていけばいいんだからな」
 いつか聞いたような言葉だ。いつ聞いたのだろう。私は過去の情景を思い浮かべる。
 それと同時に、これらの記憶が、思い出だけでとどまらなかったことに気が付き、息を吐いた。私は――もしかしたら、ナランチャたちを思い出にしてしまったかもしれない。その選択をしていれば、私は今ここにはいなかった。私は、ナランチャと、多くのことを知っていくことができなくなっていた。

 そう考えると、今までできていなかったことも、全てやりたいと、そう願った。ナランチャとなら、何でも楽しめるだろうと――そう思ったから。
「ねえ、これから一緒にいろんなこともしていこうね。一緒にいろんなことを、見ていこうね」
「へへ、もちろんだぜッ! 約束だな!」
 彼の笑顔を間近で見て、心から思う――
 やはり私は、この選択をしたことが、最善であった。私がこの道を信じてよかったと、心から思った。
 大好きな人の笑顔が、目の前にあるのだから――

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