19.不都合と好都合

 それから一週間ほどは、特にこれといったことは起こらなかった。
 否、厳密に言えば何もなかったわけではない――まず、仕事内容を大体は覚えた。まだ一人で仕事を行うのは難しいかもしれないが、そこそこのところまでは来ているだろう。
 そして、ナランチャとの生活も、なんとか折り合いをつけたところだ。
 自分のものである(はずの)荷物があるので、何もかも借りなくてはいけない、という引け目は、多少なくなった。まあ、まだ彼の家に住まわせてもらっている立場ではあるし、全てが解消されたわけではなかったけれど。
 自分の荷物の中にも、少しはお金はあった。これで少しは借りを返せるかと、少しホッとした。
 だけど、それをナランチャに渡そうとすると、「あーいいっていいって。オレは大丈夫だから、ナマエが持ってろ」と言われてしまった。でも、と渋ると、ナランチャは「ナマエが持っていた方が良いだろ、金は大事だ」と言う。少々迷ったけれど、今は素直に、私が持っておくことにした。仕事で、自分のお金をきちんと稼げたら、今度こそ借りを返そうと思っている。
 そう、この一週間、何も起こらなかったわけではない。慌ただしくも目まぐるしい日々が続いていたことは、紛れもない事実だ。
 ただ、取り立てて重要なことは、特に起こらなかったように思う。
 そう――私は、私の知りたいことを、何も知ることができていなかった。記憶を失った理由、イタリアに来た理由、荷物の中に紛れ込んでいた女の写真、『取引』のこと、私自身のこと、そして――
 それがどうしようもない不安に繋がってしまって――今の私は常に、なんとなく苛立ちを感じてしまっていた。


「おはようございます」
 その日の朝。私はナランチャと一緒に、チームのアジトへと向かっていた。そこには既に、ブチャラティがいた。今は、フーゴは席を外しているようだ。
 ブチャラティは軽く返事をしたと思ったら、私に向かって声をかけてきた。
「ナマエ、ちょっと良いか」
「なんですか?」
「今日の仕事は、フーゴとナランチャに任せる――ナマエ、今日はオレと来い」
 何だろう。私は首は傾げ、思わずブチャラティの顔をまじまじと見てしまった。
「良いですけど……なんですか?」
「今日は君のスタンド能力を、試そうと思ってる。まあ、力試しだと思ってくれればいい」
「力試し、ですか」
 なんとなく釈然としない気持ちになり、思わず顔を顰める。
 何と返事をするか決めかねていると、ナランチャが口を挟んできた。
「ああ、特訓かァー。ナマエ、そういうことなら頑張ってこいよ」
「……うん」
 特訓。釈然としない気持ちは変わらないが、とりあえず私は頷いた。
 それを確認すると、ブチャラティは踵を返して歩き出す。
「行くぞ」
 なんとなく気が進まないけれど、仕方がない。私はとにかく、ブチャラティの後を追うことにした。


 私達は、人通りがほとんどない、ただ広い場所に移動した。ブチャラティは立ち止まると、ゆっくりと私に向かって声を掛ける。
「さあナマエ、全力で来い」
「……あんまり、気が進まないんですけど」
 敵相手ならともかく、上司であるブチャラティ相手にスタンドを叩き込むなんて。初対面でスタンドを叩き込んで記憶を奪ってしまった、という引け目もあり、どうもその気になれなかった。
 だけどブチャラティは、そんな私の状況なんてお構いなしらしい。彼は静かに言った。
「もう一度言う。全力で来い、ナマエ。じゃないと――」
 一歩。ブチャラティは私に近づいた。
「君が怪我をするぞ――『スティッキィ・フィンガーズ』ッ!」
 ――まずい。
 ブチャラティが、彼の青い『スタンド』を出した。彼のスタンドを見るのは初めてではないが、彼のスタンドがどのような性質を持っているかは、よく知らない――だからこそ、今の状況は非常に悪い。
 だけど。私のスタンド――『イン・シンク』は、かなり素早い。だから、落ち着いて動けば、相手より早く拳をたたき込めるはずだ。ブチャラティよりも早く、動けるはずだ――
「気を抜くな、ナマエ!」
 だけど。
 ブチャラティのスタンドの方が、僅かに早かった。嗚呼、非常に悪い――ディ・モールト・マーレ!
「――ッ」
 一瞬感じた衝撃。その後、私の身体は、『バラバラ』になっていた。
 厳密に言えば、完全にバラバラになっていたわけではない。文字通り『首の皮一枚でつながっている』と言ったところだろうか。
 否、首の皮というよりこれは――『ジッパー』? しかも、首の皮だけじゃない。文字通り、『身体中が』――そんなことになっている。
「こ、これは……?」
 上手く状況が理解できないが――これが、ブチャラティの『スタンド』能力なのだろうか……?
 ただひたすら、混乱する私。そんな私を他所に、ブチャラティはただ、淡々と告げた。
「オレがおまえの敵だったら――おまえは今頃、そこらへんに転がっていたな。完全にバラバラになって」
 これでも、ブチャラティは手加減して攻撃したのだろうか。本当に身体が切り離されて、『スティッキィ・フィンガーズ』の射程距離外に出たら、どうなるのだろう……? 身体と身体がつながることなく、身体中から血が吹き出て、バラバラ死体になってしまうのだろうか。
 あくまで憶測でしかないが、そこまで考えてゾッとした。同時に、この世界では、油断が命取りになると、身をもって知った。
「そうだ、動けないついでに――ひとつ、聞いておこうか」
 ブチャラティはふと――全くもって何気ない調子で、私に聞いた。
 この質問が来ることは、この一週間で予想していなかったわけではないが――私にとって都合に良い質問、とは言えなかった。
「『ジュリオ』を殺したのは――おまえか?」

「いいえ」
 ブチャラティはかつて、同じことを私に向かって質問した。ブチャラティはそのことを、覚えていないだろうけど。
 でも、ブチャラティがまたこの答えにたどり着くことは、予想できたことだった。――一週間ほど前、フーゴに疑われたことを考えれば、尚更。
「そんな人、知りません」
 だからだろうか。全く悪びれず、私は嘘をつくことができた。いたって冷静だ――汗ひとつかいていない。
 ブチャラティと私は、数秒無言だった。痛いほどの沈黙だったが、私はやけに冷静でいることができた。
 そして――やがてブチャラティは、長く息を吐いた。
 諦めたように。
「……まあいい。今となってはな――状況が変わったんだ」
「え?」
 どういうだろう。
 安堵するよりも前に、私は首を傾げてしまった。そんな私を見たブチャラティは、まあ良いだろうと言い、そして話し始める。
「今、『組織』が探しているのは、ジュリオ殺しの犯人じゃあない――むしろ、ジュリオが率いていた、チームの奴らだ」
 ますます、どういうことなのかわからなくなる。私は黙って、ブチャラティの言葉の続きを待った。
「この間警護した、組織間の取引のことを覚えているか? ナマエが気にしていたヤツだ――それ自体は、大したものではなかったらしい。だが――取引を邪魔しようとした事自体、『組織』のボスに逆らうことと同じだ」
 私は頷く。この点に関しては、大体、予測していたことと同一だったから。
「この間、オレたちを襲い、レストランとホテルを襲撃しようとしていたのは――ジュリオが率いていたチームの奴らだったんだ。……オレたちは今――もともと、ジュリオ殺しの犯人を探していたこともあってだろうが――チームの奴らを探すことを、求められている」
 ブチャラティの放った言葉。それを聞いて、頭の中でなんとなく話がつながってきた。
「ジュリオのチームの奴らが、何故ボスに逆らうような真似をしたか――? 本人から聞いたわけじゃあないから、それはわからない。恐らく、取引の内容を知れば、ジュリオを誰が殺したのかわかる、と思ったところだろうな」
 話は、繋がっていく。どこまでも、私にとって都合の悪い方向に。
「確実にわかっていることは、ひとつだけだ――ジュリオのチームの奴らは、ジュリオが殺されたことを、恨んでいる。だから今このタイミングで、組織を裏切ったんだ――もちろん、ジュリオを殺した人間が分かれば、復讐するだろうな」
 ここまで聞いて、完全に、私の中で話がまとまった。

 初めて、取引が行われていたことを聞いた時、それが私の未来と過去を知るために、何か重要なものであるような気がしてならなかった。
 この感覚は半分当たっていたけど、半分外れていた――重要なのは、取引の内容ではなかった。重要なのは、『取引を妨害した者たち』だった。
 恐らく、私が殺したであろう、『ジュリオ』という人物。それは恐らく、私が記憶を失ったであろう、直接の原因。そして、ジュリオという人物が率いていたチームメンバーたち――
 彼らは今、ジュリオを殺した人間――このナマエ・ミョウジを探している。復讐するために。たとえ『組織』のことを裏切っても構わないほどの、強い信念を持って。
 そして、もしかしたら。
 彼らなら、何か知っているかもしれない。ジュリオのこと――そこから何か、私のことがわかるかもしれない。
 それならば。『来るなら来い』――そう思った。
『余計なことは詮索しないほうが、身のためですよ』
 フーゴの言葉がちらりと頭にかすめたが、『知ったことか』と思った。私は、私自身のことを、知りたいだけだ。
 その行動が、命取りになろうと、関係のないことだ――

「だから、ナマエ。ジュリオを誰が殺したかどうかは、『オレは知らない』。だが」
 そこでブチャラティは、一旦言葉を切った。そして、続ける。
「ジュリオ殺しの犯人は――十中八九、狙われるだろう。それが仮に、本当に犯人でなくっても、疑わしい人物であるというだけで、だ。実際、最近、不審死を遂げる死体が、よく見つかっているらしい。それは大抵、『夏頃浮浪者になった者たち』だ。その後、浮浪し続けているか、その生活から脱却したかは、全く関係なしにな。――実際奴らが、どれだけ情報を掴んでいるかまでは、知ったことじゃあないが」
 ここで、長い沈黙が流れた。私は今、自分がバラバラになっていることも忘れて、唇を噛みしめるしかなかった。
「さて、ナマエ」
 ブチャラティは突然、声のトーンを落とした。そして、ゆっくりと私に言う。
「そろそろ、本気で動く気になったか? ――言っておくが、甘っちょろい考えなんかでは、この世界は生き残れないぞ」


「つ、疲れた……」
「おう、お疲れナマエ」
 ナランチャの家に戻ると、彼は既にそこに居た。彼は笑顔で、私のことを出迎えてくれる。
 ブチャラティとの特訓は、正直かなり疲れた。しかも、自分の命が狙われているなんていう、最悪な状況も知ったところでもあったし。――その分、私自身のことについて、手がかりが提示されたところではあったのだけれど。
 だからこそ、ナランチャの屈託ない笑顔を見ると、どうしようもなくホッとするのだった。
「ブチャラティとの特訓なー。オレもたまにするな。……あんまり気は進まねえけど」
「そうなの? 私もだよ。なんか、やりにくくて」
「なーんか、そうなんだよな。まあ、命令ならやるけどさァー」
 私もナランチャと同じだと、何故か嬉しくなった。こういう細かい気持ちを共感できるというのは、何だか素直に嬉しい。――それが何故なのかは、よくわからないのだけれど。
「あ、そうだナマエ! 今度、オレと特訓しねえか?」
「ナランチャと?」
 そうそう、とナランチャは、なんだか嬉しそうに言った。そんな彼を見て、つい自分の頬が緩んだのがわかった。
「ブチャラティと死ぬ気で戦うのも良いけどさー、二人で肩慣らしするのも良いだろ?」
 なるほど、と頷いた。死ぬ気で特訓するのはかなり疲れたけれど、ナランチャと身体を動かす程度なら、悪くないかもしれない。
 だけど……今の私はとにかく、疲れてしまっていた。そのことを考えるだけでも、疲れてしまうくらいに。
「……うーん。また、今度ね。今日はなんだか、疲れちゃって」
 そっか、とナランチャは、少し寂しそうに言った。――ちょっぴり、悪いことを言ってしまっただろうか?
 ナランチャに寂しい顔をしてほしくなくて、慌てて何か声をかけようとしたところで――ナランチャは急に、何かひらめいたように叫んだ。
「あ――ッ、そうだ!」
「え、どうしたの?」
 少し驚いて、思わず身を引いた。
 だけど、ナランチャは構わず顔を近づけてくる。……近い。
「なあなあナマエ。オレたち、明日休みだろ」
「そ、そうだったっけ?」
 ずいっ、とナランチャが身を乗り出してくる。私はなんだか、ドギマギしてしまっていたが――ナランチャは構わずに、ただただ目を輝かせていた。
「だからさァー。ちょっと気分転換に、遊びにでも行かねーか? ちょうど明日、天気も良いみたいだしな!」
 ナランチャに気圧されて、思わず、といった調子で頷いてしまった。すると彼は、嬉しそうに笑った。
 彼と二人で遊びに出かける。……なかなか楽しいかもしれない。
 半分ナランチャにつられる形ではあったが、私も笑った。


 あてがわれた部屋に一人で戻ってから、今更ながら悶々と考えてしまった。
 休日に、男の子と二人で、遊びに出かける。――これを言い表す言葉って。
 知識として知っているけど、体験としては知らない言葉。少なくとも、今までの記憶上では、縁のなかった言葉。
 もしかして、これって……デート?

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