1.日常に紅茶を添えて

「ディオさん、お飲み物をお持ちしました」
「ああ、ありがとう。そこに置いておいてくれないかい?」
 自室で、大学に提出するであろう論文を書いている彼――ディオさんに、私はいつも通り紅茶を渡す。
 そう、いつも通り。ジョースター家の使用人として。
 そしてディオさんは、紳士的に微笑むのだ。この家の主人たちは、いつも私たち、私のような使用人たちにも、優しくしてくれる。……そこに文句などない、あるはずがない。紳士的な彼らに仕えることのできている現状をむしろ誇りに思うべき、そう理解しているのに。
 それなのに。私はこの人のことが、怖くて仕方がなかった。


 一体何が違うのだろう。ディオさんと、ジョースター卿とジョナサン――ジョジョさんと。
 確かにディオさんは、ジョースター家の正式な養子ではあるが、裏を返せばジョースター卿と血は繋がっていない。
 詳しい事情は知らないが、彼は貧しい生まれであり、両親が亡くなってジョースター卿に引き取られたと聞いたとき、彼の生まれで無意識のうちに差別していたのではないかと、凹んだものだ。
 だけど。私は、彼の生まれを聞く前から。
 ディオさんを初めて見たその時から、彼のことが怖くて仕方なかったように思う。

 両親が急死し行く宛てのなかった私は、つい一年前にこの館に住み込みで勤めることになり、同い年の主人たちがいると聞いていたが――ジョースター卿に挨拶し、ジョジョさんに挨拶し、ディオさんに目を向けたところで、私は硬直してしまった。本能的な恐怖を身に感じながら、それでもそれを表に出さないようにするのが精一杯だった。
 美しい人だとは思う。金色に輝く髪に、形の整った瞳。人当たりも良く、多くの人に慕われていて、大学も首席で卒業する予定らしい。欠点という欠点が見当たらないその優しい笑顔が、逆に怖かった。
 何に恐怖を感じているのか、自分でも分からないまま。

「――うん。ナマエ、君の入れる紅茶はいつも最高だよ。また、頼むよ」
「ありがとう、ございます」
 自然に振舞おうとするが、彼の前だとどうしても固くなってしまう。
 褒められた言葉も素直に受け取ることができない。お世辞ではないか、それよりももっと怖い何かがあるのではないか、なんて思ってしまう。
 それでも。今日もなんとかやり過ごせたと、彼の部屋を出てから一息ついた。
 この恐怖が、杞憂であればいい。このまま、優しい主人たちの元で、ジョースター家が発展していくのを、陰ながら支えることができるなら、これ以上の未来はない。
 だから。私が愚かなだけであって、この恐怖がただの気のせいでありますように。私は今日も、そう祈った。


「ああナマエ、ちょうどいいところに」
 書庫の掃除をしようと向かったところで、もう一人の同い年の主人――ジョジョさんにばったり出くわした。
 ジョナサン・ジョースター。みんながジョジョと呼んでいるから、私もジョジョさんと呼んでいる。
 ジョジョさんの近くは安心する。彼は本当の紳士を目指しているとのことで、実際本当に紳士的だ。
「なんでしょう? ジョジョさん」
 だから私も、自然体で彼に接することができる。もちろん主人と使用人という立場があるのであんまり気を抜いてもいられないが、少なくともディオさんの近くにいるよりも、ずっと安心できるというのが正直なところだった。
「申し訳ないんだけど、ちょっと資料を探すのを手伝ってくれないかな? 仮面の研究に必要なんだけれど、見当たらなくてさ」
「お易い御用ですよ」
 そして私は微笑む。資料の概要を聞けば、ジョジョさんは考古学を専攻しているので、それに関わる資料であった。彼の母親が生前購入した石の仮面について、彼は研究しているらしい。
 掃除は少しくらい遅れても構わないだろう。そう思いながら、私は彼の必要とする資料を一緒に探すことに決めた。

 それから、少し時間が過ぎた。目当ての資料を数冊見つけ、私はジョジョさんに手渡す。ジョジョさんも彼自身で何冊か見つけていたようで、これで全ての資料が揃ったらしい。
 彼はにっこり笑って「ありがとう」と言ってくれた。その優しい笑みに思わず癒される。こういうとき、使用人冥利に尽きるというものだ。
 それから、少しだけ雑談を繰り広げ――その中で。ふと、あの人の話題が出てきた。
「そういえば、昨日ディオが君のことを話していたよ。ナマエの淹れる紅茶は絶品だ、って」
「そ、そうでしょうか……」
 ディオさん。もう一人の、私の主人。
 私の見ていないところでも褒めてくださった。それが、本当は嬉しいはずなのに。
 その事実を、素直に喜べないのは何故だろうか。
「……何か、気になることでもあるのかい?」
 そんな私の様子に気がついたのだろうか。ジョジョさんは、心配そうな顔をして私の顔を見る。
「いえ。大丈夫ですよ、ジョジョさん」
 私は笑顔を取り繕った。
「……きっと、私の杞憂ですから。ジョースター家はこれから、ジョジョさんとディオさんとで、盛り立てられていくのでしょうね。末永く――」
 そうであってほしい。ただの願望を呟く私を、ジョジョさんが複雑そうな顔をして見ていたことには気が付かなかった。

「それより、ジョースター卿の様子はいかがでしょう?」
 ディオさんへの恐怖のことを一旦忘れたくて、私は話を変える。ディオさんも気になるが、この家でいま一番気になるのは、ジョースター卿が最近体調不良であることだ。風邪をこじらせたと聞いているが、心配である。……ディオさんがジョースター卿に薬を運んでいるということも聞いていたが、それにも漠然とした不安があった。
「……きっと、大丈夫だよ。さっき様子を見てきたけど、まだあまり体調は良くなってないみたいだ。でも、すぐに良くなるはずさ。気になるならナマエも顔を見せてあげるといい。父さんなら喜んでくれるよ」
 ジョジョさんはそう言いながらも心配そうだ。そして、私も心配だ。近いうちに様子を見に行こうかと、そう思った。
 どうか、この家に淀みが広がっているような気がしたのは、気のせいでありますように。


 その日は掃除に費やしてしまったので、ジョースター卿の様子を見ることはできなかった。
 なので、次の日。私は老齢の執事に申し立てて、今日は私が薬を持っていくことに決めた。ディオさんに褒められた、紅茶も一杯だけ淹れて。
 ディオさんが、彼の代わりに薬を持って行っていることは知っていたけれど。やっぱり少し怖いが、それでもジョースター卿の様子は見に行きたかった。
 優しい主人。本物の紳士とは彼のことを言うのだろう。行く宛てもなく惑う私を、快く迎えてくれた。彼のような人に仕えることができて、私は本当に幸せ者だ。

「あの、ディオさん」
 薬を持って、いつもジョースター卿に薬を運んでいるというディオさんに声をかける。
「……ああ、今日は君が薬を運びに来たのかい?」
 私に気がついたディオさんは、目を細めてそう言った。そして、あくまで紳士的に彼は私に申し出る。
「ぼくが持とう。ぼくがおとうさんに薬を持っていくよ」
 その瞬間――『渡してはいけない』と何故か思ってしまったのは何故だろう。
「いえ、これが私の今日の役目ですから! ……ジョースター卿のことは、私も心配なんです。様子を見たいんです。……駄目でしょうか?」
 執事がジョースター卿に薬を運ぶ役目をディオさんに頼んでいるのは、執事が高齢であるからだ。私は若いから、これくらいの荷物を持って階段くらい登れる。特段の理由もないのに、仕える主人に荷物を持たせるわけにもいかない。
 だけど。私がディオさんに『薬を渡してはいけない』と思ったのは、本当にそれだけなのだろうか。
 自分で自分の恐怖の意味がわからない。そんな私にも、ディオさんは優しく微笑んだ。
「……そうだな。おとうさんも喜ぶだろう、ナマエが顔を見せてくれたら。おとうさんは、そういう人だからな」
 彼の微笑みは美しく整っていたが、それだけに底が見えないようで、私にとってはやっぱり怖かった。


「失礼します」
 結局私は、ディオさんと共に紅茶と薬をジョースター卿に運ぶことになった。そこまで荷物の量は多くないのだが、彼が「女性にだけ荷物を持たせるのは落ち着かないよ」なんて言うものだから、結局二つあるうちのプレートを片方渡してしまったのだ。
 薬がある方のプレートは、私が持っていた。それだけは、と。
「ディオ、ナマエ。よく来たね」
 そして紳士は静かに微笑む。養子であるディオさんだけでなく、ただの使用人のひとりである私の顔を見ても、彼は本当に嬉しそうな顔を見せるのだ。
「具合の方は、いかがでしょうか」
「あまり良くないが……二人の元気そうな顔を見れてほっとしたよ。大事な息子ふたりに、執事やメイドたち。みんなの元気そうな顔を見れば、わたしも元気を貰えるというものだ」
 そして、私たちは彼の近くのテーブルに紅茶と薬を置く。……本当に、早く元気になってくれればいいけど。
 そして、ジョースター卿は紅茶を手に取る。そして一口飲み、それからふと顔を上げた。
「ナマエ、この紅茶は君が淹れたのかい?」
「は、はい」
 そして、紳士は満足そうに微笑む。
「うんうん……ディオから聞いていたよ。ナマエの淹れる紅茶は絶品だと。いい香りだ」
 えっ、と思わず隣に立っているディオさんの顔を見上げる。
 ディオさんは薄く微笑んでいたが、やはりどんな感情なのかよく分からない。
「いつも、ナマエに紅茶を淹れて貰っているんですよ。彼女の紅茶を飲むと、読書が捗るんです」
「それは何よりだ。ふふ、わたしもこれからはナマエに紅茶を頼もうかな」
 ジョースター卿とディオさんの、そんな『親子』の会話。私が話題に上っているというのに、どうにも現実感がない。ジョースター卿に私の紅茶が褒められたことは嬉しいけれど。
 微笑む二人。ジョースター卿の温かさを感じながらも、どこかに冷たい何かがあるような気がしてならなかった。


「心配ですね、ジョースター卿……」
 それから。私たちはジョースター卿の部屋を出たが、そのとき、隣にいるディオさんにふと不安を零してしまう。
 私の主人であり、恩人でもあるジョースター卿。彼には早く元気になってほしい。
 彼の様子がどうしても気になる。明日からは私が薬を運んで、定期的に彼の様子を見に行きたい。
 そう考えていた私に、ディオさんは静かに声をかけた。
「――ナマエ」
「? なんでしょう」
 そして、ディオさんは私のことを見下ろす。その微笑みはぞっとするほど美しくもあったが、氷のように冷たいもののようにも思えた。
「君はあくまで使用人だ。君には君の、やるべき事ってものがあるんじゃあないかな」
 ――余計なことをするな。
 優しい口調ではあったが、遠回しにそう言われたようで、思わず固まってしまう。
 私が何をしたと言うのだろう。私が何を、余計なことをしたと言うのだろう。
 何も口にできない私に、彼は安心させるように穏やかな口振りで言った。
「君が心配する必要はない。おとうさんにはぼくが薬を運んでいる。きっと、すぐに良くなるさ」
 何も言えなかった。不安は増大していく一方で、それが取り除かれる予感なんて私にはなかった。
「そうだナマエ、またぼくに紅茶を淹れてくれないか? ぼくは好きなんだ、君の淹れる紅茶がね。それは、君にしかできない、君だけのやるべき事ってやつだろう?」
 そして、ディオさんは穏やかに笑う。その奥底に何かを抱えているのではないか、そんな恐怖が身体の奥深くから感じられた。

「は、い」
 それでも私は、それに頷くことしかできない。
 当然だ。だって私は使用人で、彼らは仕えるべき主人なのだから。
 主人たちに仕え、命令に従う。それが私の、誇りなのだから。

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