幸福証明 | ナノ
 

幸福論を唱えましょうの続き




 幸せすぎて怖い。
 あの男は付き合う当初にそんなことを云っていた。その考えに成程、と相槌をしてまんまとその意見を呑み込んでしまっていた。あの時、僕は確かに幸せだった。僕達は同じ幸せを見ていた。だが、それはどこでどうなってこんなにこんがらがってややこしい展開になってしまったんだろうか。
 闇を知っている男は闇と目が合ってしまった。そしたらもう闇しか見えていなかった。幸せの先を見過ぎてしまった。幸せが判らなくなってしまった男は、僕なんかよりも安息を手に入れて何処かへと旅立ってしまった。
 だから本当の幸福を教えてあげよう。僕、乱歩なりに彼に見せてあげようじゃないか。











「……あ、乱歩さん。如何したんですか突然。何の連絡も無しに私の家にやってくるなんて珍しいじゃないですか。それにしてもこんな昼間にやってきたという事は私が仕事をサボっているなんてのはすっかり見抜かれてしまっているんですね」
「まぁ、お前の仕事の調子から考えてそろそろ疲れがやってきて家でのんびり身体を伸ばしているんじゃないかと推測してきたんだよ」

 至極当然だと云わんばかりに彼に伝えると「流石、乱歩さんです」とゆっくりと腰を落として彼は質素な部屋の真ん中に座った。僕は特に手厚い招かれもしておらず、ただ家に入ることを止められたわけでも無いのでゆっくりと彼の向かい側に座ってみる。僕としてはそんなに長いをするつもりも無い―――この後は警察との重要な仕事があるので―――玄関先での数度の会話だけで済ませるつもりだったから、こうして家に入る…相手の懐に入るのはどうにも逃げ場が狭められた気分で居心地が悪くもあったりする。それが相手にも伝わったのか、緊張感の無い彼にも多少の張りが見えて重苦しい空気が纏わりついている。
 さて、そんな重苦しい場所にずっと腰を落としているつもりも無いので、さっさと本題に映る。

「僕達、別れようか」

 はっきりと、彼の耳にしっかりと通した。二度も訊き返されても溜まったものじゃない。こんな発言は何度も繰り返すと大切さが足りなくなる。大事なことだから二回云う、なんて云うけれど「愛している」と「愛している愛している」では矢張り鬱陶しさが後者には現れてそこから疑いの眼で見てしまうのは僕だけじゃないと思う。
 面倒事は嫌いなんだよ。

「―――ら、乱歩さん。何を云っているんですか。如何してそんな突然、云うんですか」

 太宰は非常に動揺しているのが見て取れた。瞳孔が開いて此方を見て、次第に瞳が右にも左にも動いて焦点が定まりやしない。何時までも状況を把握できない、把握したくないと駄々をこねている子供。
 けど、僕はさっさと伝えた。別れようか、なんて相談らしい語尾を付けては見たものの、僕の中で未だに君と僕で恋愛ごっこを続けるつもりは無い。
 そう、恋愛ごっこだ。おままごとなんて幼稚のするものだと思っていたけれど、そうでも無い。大人だって紛い物をする。

「―――それじゃあ」
「ま、待ってくださいよ。乱歩さんの理由を教えてください。別れると突然云った理由を教えてください」

 如何しても理由が訊きたいらしい。ほら、二度も云われると鬱陶しさが増してきて、僕は彼が掴んできた手首で腕を思い切り振り払った。
 突然だなんて云っているけれど、何処が突然だ。
 否、きっとこの男は知っている。気づいている。理由を。

「僕は太宰と一緒にして幸せだと感じないからだよ」

 これ以上長居はしない。僕は手も足も捕まれまいとそそくさとこの場を去って、少し早いけれど仕事現場に向かった。
 ふむ、何だかもっと悲しくなるのかと思ってもいたが、はっきりと口にしてしまうと案外さっぱりとしてしまった。こんな結末になるのならもっと早く別れ話を切り出してしまえばよかった。
 それにしても真逆彼が別れに躊躇する様を見せるとは中々の演者だ。

 ―――浮気をしておきながら。

 僕が気づかないと思っていたんだろうか。僕が気づいていたとしてもそれでも続けていたのだろうか。二人と交際を続けるなんて器用な太宰ならお手の物か。僕が本命か相手が本命か知りはしないが、あの男が何時か僕を切り捨ててしまうぐらいなら僕から切り捨てる。
 幸せだと感じない、か。
 我ながら素晴らしい科白だ。
 当初、あの男が「幸せすぎて怖い」なんて発言をしていたのを覚えているが、あの時は確かに幸せだった。幸せを全く感じなかったわけじゃ無い。幸せじゃなくなったから別れた。
 恋人―――そして結婚。老後まで付き合い続ける人と人は実に難しいものをしていたんだな。何時までも幸せを保ち続けるのは難しい。けれど、両親はしっかりとそれを成し遂げていた。余りにも惜しい生涯の結末ではあったが、それでも二人は最後まで幸せそうに見えていた。
 けど―――

「そんな未来…になると思っていたけれど」

 人生何があるか判らないんだ。















 それからだった。太宰は僕と仕事場で会うたび会うたび、「話をしよう」と迫ってくるようになっていた。
 鬱陶しい。
 周囲も僕と太宰の関係を見て、「喧嘩をしたのか」「別れたんじゃない?」と様々な憶測を飛ばしており、どれも正解だけれど特にそれを肯定するわけでも否定することもしない。

「乱歩さん。今からお昼、一緒にしませんか?」
「僕、ご飯を食べたい気分じゃないからいーよ」

 夏は食欲が減る。まあお菓子や果物類は別腹だから夏だろうと冬だろうと年中無休で活動している胃が別に存在している。
 そう云って僕は彼をさっさとあしらうがどうにも引き下がらないらしい彼は、さっさとコンビニで食事を購入してくると、再び僕専用の机に向かっておにぎりやサンドイッチを広げて此方に見せてきた。
 笑みを浮かべて、僕に顔を向けて、

「どれか良ければ食べてください」

今回はやけに僕が適当にあしらっているのに、引かずに何時までも前から退く気配を見せやしない。仕方ない、最終手段として新聞でも読むフリをして彼を遮断してしまおうか。
 だが、きっとそれでも退くつもりは無いだろう。僕が好きな鮭のおにぎりを食べて此方が折れるのを待つ気らしい。しかし、彼は僕と別れたいと思っていないのだろうか。
 その好奇心がうずうずと心の奥から出て来てしまえば、チャックで絞められていた口はゆっくりと穴を開ける。

「―――話、少しだけなら訊くけどー?」

 首を横に傾げて彼に時間を与えてあげる。するとまあ、一気に表情が明るくなって主狂う強い空気は相変わらず背負っているのに少しだけ光が見えて実に眩しかった。
 眩しくて、少し懐かしくも感じた。

「…乱歩さんと私は別れたくありません。……なんて大きな声では云えませんけど、私が悪いのは判っていますが、それでも…」
「………」

 訊く、と云ったからにはきちんと彼が喋り終わるまで黙って居ようと思っていたが、少し言葉がごちゃごちゃしていて、今一つ云いたいことがこっちに伝わってこない。

「乱歩さん、理由を訊きはしません。判っていたので。判っていたのに、もしかしたら気づいていないかもしれないと、少しだけ期待してしまった莫迦な私が足を引っ張ってしまいました」
「………」
「だから、その代わりに私の云い訳を訊いてはくれませんか?」

 僕が理由を云わない―――云い訳を訊いてくれ。
 この二つが一体何処で代わりと扱われるのか判りはしないけれど、仕方ないから訊いてあげる。ここで逃げ出すのは僕が余裕ないと思われてしまう気がする。それに、黙ると決めたから黙る!

「乱歩さん、私が前に幸せすぎて怖い、と云ったのは覚えていますか?幸せを今此処で一杯もらってしまったら今後の人生において一体どんな不幸がやってくるのか、恐れて臆病になってしまいました。深追いして注意深く生活している日々を送っていたからこそ、その幸せを素直に受け入れられていなかったんです。それで、乱歩さんと一緒に居て幸せだったんですけれど、何時まで経っても幸せの先には不幸の落とし穴があるのではないかと緊張してしまったんです。一歩足を踏み出せばきっと不幸の沼に足を絡めとられてしまうかもしれない。そうして怯えている毎日に嫌気がさして、自分から幸せを手放してしまいました。乱歩さんから離れて…でも手放す勇気も無くて酷い男となっていくばかりでした」

 一通り話終えたらしい太宰は、僕が好きな鮭のおにぎりをすっかり手から離してしまっていた。人目も憚らずに、珍しく涙を見せていた。一粒だけではあったが、頬へゆっくりと降りて行き、落ちる前にそれは手で拭われていた。僕の手で。

「本っ当に太宰って莫迦だよねぇ」

 漸く僕は声を発する。久しぶりに声を出したのかと最初の一声が少し掠れてしまった。それとも、震えてしまっていたのかもしれない。感情が揺らいでしまった。
 別れを切り出してその時はさっぱりとしていたけれど、それでも何時までも僕を追いかけて別れを認めようとしない太宰に、もしかしたら、なんて期待をして太宰がちっとも身体の中から消えていなかった。切り捨てられていなかった。

「……勝手だよね。まるで太宰が勝手に幸せを作って一人で幸せを味わっているみたいだ。その幸せを構成するうえで僕だってしっかりと貢献してあげているんだから、一人でその幸せを独占している―――更にその幸せを投げ捨てるなんて許せないよねぇ!僕にもその幸せをどうこうする権利はある!」

 云ってやりたかった事はこれだ。臆病で慎重者の彼にはっきりと云ってやりたかった。人一人で幸せが構成出来るのならきっと人は一生一人で生活すれば構わらない。ちっぽけな幸せでもそれは人と人・物と幸せを共有している。その物だって元を辿れば顔も知りはしない人が創造したんだから、幸せは一人で勝手にどうこうしてはいけない。

「……判っています。いや、こうじゃないな…判りました。貴方と離れて別れを切り出されてそこで漸く目が覚めました。勝手だとは思いますが、今度…もう一度やり直してはくれませんか?」

 その言葉を仕事場で云われて、誰かに訊かれているかもしれない状況で、彼は決して揺るがずにその言葉を僕にぶつけてきた。対する僕は、それに即答する訳では無かった。
 浮気をして、それでバレてすみませんでした、やり直してくださいなんて虫が良すぎる。そんなに僕は調子が良い人間じゃない。

「………目を閉じて」

 僕がそう云うと、すっかり僕のいいなりになっている彼はぐっと両目を瞑って力を入れている。
 そこで僕は、顔を近づけ―――では無く、彼の両目同様にぐっと拳を作ってそして太宰の右頬に狙いを定めて落とされた。














「…そう云えば、僕の母上はよく父上を怒っていたりもしたなぁ」

 ぼんやりとした幼少期の記憶を思い返すと、一度大きな喧嘩を僕に構わずに繰り広げていた気がする。はっきりとした内容は無かったけれど、大きく口を互いに広げて次から次へと言葉が流れて行って、互いはその言葉を避けて戦い続けていた。

「そうなんですか」

 右頬を摩りながら僕の話を訊いている太宰。

「あの時の二人はきっと互いに幸せだと思う余裕なんて無かったんだと思うよ。だって、本気で怒っている最中なんて「ああ、今が幸せだ」なんてのろのろとした考えが浮かんでくる訳が無いもんね」
「ま、まぁそうですね」

 まぁ、そういうことだ。
 恋人や夫婦にだって四六時中幸せを感じている訳では無い。時には喧嘩もするし、一緒に悲しんだりもする。そんな感情が爆発している中で幸せを感じている余裕なんて無いんだ。それでも、長く続いているのは二人の間に必要なのが幸せだけでは無いと判っているからだ。

「…幸せなんて、所詮幸せなんだよ」

 すっかり赤く腫れてしまった右頬。
 一応利き手では無い手を使って殴ってはあげてが、それが加減の調整をかえって狂わせてしまったらしく、思い切り入り込んでしまった。喧嘩が強くも無い僕が無理に暴力を振るっては駄目だな。
 反省と、お詫びを込めて取り敢えずは彼の右頬にキスをする。
 反省は彼にもしてもらわなければならないからね。