幸福論を唱えましょう | ナノ
 



 乱歩さんと付き合うことになった。乱歩さんに告白をしたら、その瞬間に返事を貰えた。勿論嬉しくてその場で私は彼が棒立ちしているのを云いことに抱き締めた。
 最初は余りにも強く抱き締めてしまったので、乱歩さんから背中を数回叩かれてしまった記憶も未だに覚えているが、少し緩めると今度は彼が強く身体を引いてきた。

「僕はね、太宰。お前が何時も入水をしようなんて莫迦な真似を見ていたりもして、勿論その趣味に関してどうこう言うつもりはないけれど、それでも僕はお前と一緒にいたいよ」
「……私は自殺よりも乱歩さんとの道を選びますよ」
「ふふっ、お前の言葉は偶に本心かどうか怪しくなるんだけれどね」
「真逆、私の愛の告白を信じていないんですかね」
「どうだか」

 彼の鋭い視線はまるで私を試しているかのようだった。抱き締めているのに、それ以上何かを求めているのか。そう問われてしまえば私は次に取る行動は、キスだ。

「―――んっ」

 彼の息を止めてしまおうか。そんな非常識な考えも浮かぶぐらいに彼の唇に思い切り食らいついた。
 そんな私の獣もびっくりなぐらいの食らいつきにもしっかり答えてくれる乱歩さん。言葉以上の物を彼に与えてあげて、角度を変えて何度も口付けを繰り返していく。彼は息が苦しくなってきた辺りで漸く逃げる様に私から離れて行こうとする。仕方ない、と数秒だけ息を吸い込む時間を与えてもう一度深いキスを続けていく。

「……はぁはぁ…。長いんだよ、これじゃあ僕が窒息死してしまうかもしれないじゃないか!」
「そしたら私も一緒に死にます。乱歩さんの後を追いましょう」
「……また簡単に死ぬなんて云うんだから」

 とはいえ最初に窒息死という単語を出したのは乱歩さんじゃあないですか。彼と少し距離を取ると肩で息をするぐらいに乱れていたらしい。すっかり頬も真っ赤な林檎も負けるぐらいに鮮明な赤をくっきりと色を見せている。
 それでもこのままキスをして窒息死、なんて話も好いかもしれない。そんな思いつきなど向かいに居る人物に対して決して口には出来ないが。きっと言葉にしたら彼が悲しむ表情を見せてくるのだろう。
 だが、この後直ぐに洪水だか火事などの災難が襲い掛かってきてもおかしくは無いだろう。
 だって、今こんなにも幸せなのだから。幸せに塗れて今初めて幸せを噛み締めて幸せがこんなにも怖いものだと知れた。

「成程、幸せすぎて怖いとは中々面白い考えだね」
「……あれ、口に出てしまっていましたか」
「うん。『幸せがこんなに怖いなんて思いもしなかった…』なんて突然呟いていたよ。そんなに今幸せなんだ」
「ええ、勿論。貴方とこうして抱き合えた瞬間を幸せと云わずになんと表すのでしょうか。些か私には語彙が足りないらしい。貴方ならなんと称しますか」
「ううん、幸せでいいんじゃないかな。僕は余り恋愛観に鋭い訳じゃないから、経験だって多くは無い。けど、今胸が躍っているのはきっと幸せと同義だろう」

 乱歩さんが身体をかがめて床に両手を付けてそう云っていた。すっかり顔が下を向いてしまい、私からは彼の頭のてっぺんが見える状態になっていたが、取り敢えず私は彼から帽子を奪って自分の頭に乗せてみた。

「……このまま続くと好いですね」

 臆病者である私は、真っ直ぐ前を見て幸せの奥にある闇を睨んだ。











 それから私達は半年間幸せを噛み締め続けていた。
 互いに変わらずにこのまま幸せを運び続けていた。私の節操の無さもすっかり消えていき、乱歩さんとの関係性を探偵社内で隠すことも無かった。

「―――ねぇ太宰。それとって」

 少し離れた席を持つ乱歩さんの元へ頼まれた「それ」が一体何かというを理解して取りに行く。別に乱歩さんは突然それを要求した訳では無い。きちんとある程度の一度指さしてそれと指示を下のだ。周囲は私の難なくそれを理解する様を見て「凄い」などの讃頌の言葉を貰う。それはそうだろう。もう何度もこういったやり取りは行われているのだ。言葉など無くとも相手を理解出来る―――まででは無いが、それでも乱歩さんの行為の半分は判ってきたところであった。集団行動における信号で相手とのコンタクトを取る感覚だ。記憶をしていけば何時の間にか染みついている。
 きっと乱歩さんは無意識に同じ行動をしているのだろうが。それが癖というものだ。

「相変わらず乱歩さんと太宰さんは息がぴったりですね!」

 純粋にそう思った、と賢治君は私達二人を見て拍手までしてくれた。

「そりゃあそうだよ。乱歩さんと私達は愛を誓いあった仲なんだから。もう乱歩さんの身体の何処が弱点で何処を触れば気持ち―――」
「ちょっと太宰!お喋りしすぎ!」

 そして乱歩さんは私の顔に向かって帽子をぶつけてきた。遠慮の無い激しい攻撃。

「う、うう…すみませんでした」

 確かにまだ若い賢治君には云えない話だったな。頭にクエスチョンマークを浮かべている彼はきっとこの一連の流れも全て理解していない。先程はああ口が勝手に動いてしまったが、矢張り乱歩さんの可愛らしい部分も覗かなければ見えない部分なんかは私が一人で知っていればいいのだろう。乱歩さんも私だから見せてくれた部分であり、私もそれは同じことだ。
 帽子の形を整えて冷静さを取り戻そうとしている乱歩さんはすっかり形なんて綺麗に戻っているのにまだ弄っている。そして帽子を頭の上に乗せた後は衣服としてつけられているネクタイを弄り始めた。
 とても初々しい反応をしてくれたものでこちらまで照れが感染してしまったじゃないか。乱歩さんの頬がほんのり赤くなっているそれが薄まり始めると、私の元へとそれは移動をし始めていた。でも乱歩さんみたいに私は初々しい反応を見せた訳では無く、単純に自分の発言を実際に思い返してしまったのだ。乱歩さん本人を目の前にして先日夜、彼の部屋での出来事を。

「…んんっ、それで太宰。今夜は何か予定でもある?」
「いえ、このまま行けば仕事も雑務だけで終わりそうなので予定は有りません」
「そっか。それじゃあ仕事終わりは僕に付き合ってよ!僕ね、少し欲しい服があってさぁ、これから寒い時期になると矢っ張りコートが必要になるんじゃないかと思ってね。あんまり重ね着をするのも気が引けるんだけれど―――」

 乱歩さんはお目当ての服がデパートに並んでいるらしい。それの購入を付き合ってほしいと彼は云ってくれた。その発言に私は一瞬目を見開いたが直ぐに笑って「いいですよ」と答えた。
 以前は―――付き合う前は彼は頑なに一人で買い物はしたいと云っていたのだ。余り人のペースに合わせられない彼は自由に自分の好きなものを見たいのだと主張していた話も懐かしい。
 それが今では彼からお誘いをしてくるなんてもしかしたら財布が目当てなのではないかと恐怖心すら抱いてしまうじゃないか。

「…私のおさがりのコートを差し上げてもいいですが、身長差が少し厳しいかもしれないですね。渡井のコートを着て脚も隠して床を引き摺る姿も拝見してみたいですが」
「僕の身長はそんなに小さくない!否、むしろ太宰が大きいんだと思うよ!だって賢治君や鏡花ちゃんや与謝野さんも僕よりも小さい!」

 出てきた数名の中には女性が混ざっているのだが、彼をこれ以上刺激してはいけないと思い、帽子を取り頭を撫でてあげる。
 そして取り上げた帽子はまた私の頭の上に乗る。












 そんな日々が続くのだと思っていた。半年もそんな幸せな生活を送れていればこの先も変わりはしないのだろうと思っていた。半年前の自分はそう思い、想っていた。
 だが、付き合い始めて1年が経とうとしている頃に、その思いは変わってしまった。

「………太宰、起きてる?」

 すっかり耳に馴染んでしまったその声が私の名前を呼んだのでゆっくりと瞼を起こしていく。すると一気に光が差し込んできてまたも強く瞑ってしまう。開けたくないと反射神経が瞬時に対応したのだ。

「…もう、朝だよ。太宰今朝は何か予定があるって云っていたじゃないか。仕事はきちんとこなした方がいいよ」
「今朝……ああ、そうか。乱歩さん、今何時か判りますか」

 上半身を起こして何とか目を開ける。未だに光に慣れない瞳であったが、細目にしながら状況を確認する。先ず乱歩さんから告げられた今の時刻を確認して、取り敢えず辺りに散乱している衣服を一つ一つ回収していく。すっかり暑い夏がやってこようとしているのが判る。乱歩さんはとっくに衣服を着直していたが、それでも首筋からは汗をかいていた。私なんか裸の状態で既に汗を掻いているのにこれから衣服を着て更に厚着になろうとしているのだからどれ程億劫か。

 ―――違う、億劫なのはそういう意味じゃない。

 再び乱歩さんの首筋を見てみると、其処には朱色に染まっている痕がくっきりと残っている。あれは昨夜私が点けたものだ。それを思い出した途端に罪悪感が押し寄せられた。それでも着替えなければ、これから外出する男が真っ裸で登場してみろ、何歩まで捕まらずに歩けるか試したいぐらいだ。直ぐに通報でもされて警察に連行されるのが誰でも判るだろう。

「…太宰、朝食用意してないや。ごめん、何も食べるものなーい」

 そうか、此処は乱歩さんの家か。何度も通っていたのですっかり我が家気分になりゆったりとしてしまっていた。そりゃあ1年にもなればそれだけ気が緩んでしまうのだろう。
 彼が畳に倒れて食事に対する放棄を身体で表現したところで衣服が整えられる。

「それじゃあ私が何か買ってきましょうか。コンビニなどで売っている品でよろしければ」
「うーん…別に今食欲が無いからいいや」
「そうですか」

 そう云われてしまえばそれ以上何も云えずに彼から一定の距離を保ちながら足を動かす。何も目的も無いが、予定の時間まで残りを此処で消費していこうと時間の経過だけを待っている。

「……なんだろうねぇ、矢っ張り夏は苦手だよぉ。こう身体が溶けていきそうになるからさ。だから僕は夏生まれでは無いんだね」
「ははっ私は夏生まれなんですけれどね」
「じゃあ、夏は好き?」

 乱歩さんは途端にし背を変えてこちらを見てきた。仰向けに寝そべっていた身体を横に立たせて顎を上げて此方にしっかり目を見せていく。そしてもう一度訊く。

「―――好き?」

 逃げられない。雁字搦めにされてしまったみたいに、行く宛も無いながらに動いていた足までも止められてしまった。動かせるのは動いて云いと許可を貰ったのは口だけ。

「好きですよ」

 笑って答える。それが正解なのか判らなかったが、確かに彼はまた試した。私を試した。最初に告白をしたあの日の様に。

「そっかぁ、アイスは好きだから夏の食べ物は嫌いじゃないんだけどねぇ」

 乱歩さんはまたも仰向けに体勢を変えた。
 それから、二人で他愛無い夏の話をして、時間が過ぎるのを待った。食事もせずにただただ会話をした。世間話。近所の主婦達が集って噂話を楽しそうに話す気分はまさにこんな気分ではないかと思ったりもして。

「ああ、そろそろ行かなければ」
「気を付けてねー」

 彼は体勢を変えずにそのまま発していたものだから喉から言葉を出すのが幾分か苦しそうにも見えたが、それでも動くつもりは無いらしい。

「日差しが強そうですね」
「だったら僕の帽子でも被っていくかい?」
「あはは、遠慮しておきます。帽子は乱歩さんが使ってください」

 その会話が最後となった。互いに乾いた笑いを見せて私は彼の家を出て行った。
 そこから真っ直ぐに続く道路を歩いた。軸がぶれずに真っ直ぐ、真っ直ぐ、まっすぐに。
 そうして先程出てきた場所―――後ろに位置された乱歩さんの家はもう小さく見えて、振り返ってしまった事を後悔した。

「……ごめ、んなさい」

 臆病者でごめんなさい。好きなんです。怖いくらい幸せなんです。幸せが大きければそれだけその先に待つのはきっとどん底よりも深い闇。
 臆病者の私はその闇に怯えてしまった。
 乱歩さんと変わらないことを願っていたのに、それでも私はいつしか貴方への欲が深まってしまった。これ以上の幸せを望んでしまったばかりに、闇に足を取られてしまった。
 頭のてっぺんが太陽に照らされながらも歩いていくと、「太宰さん」とすっかり耳に馴染んでしまったその声が私の名前を呼んできた。

「遅くなってすみません」

 乱歩さんよりもすらっと高い身長。ああ、ヒールを履いているからそう見えるだけで実際は彼女は乱歩さんよりも小さいのかもしれないが。

「ああ、お腹がすいた」

 思わず呟いてしまった。お腹の音を隠すために口にしたものであったが、隣に並んだ女性はそれなら何処かで朝食でも取りましょうかと案を出した。

「………そうだね」

 私は彼女のお勧めの場所へと案内をしてもらい、デートの開幕を迎えた。
 その時、私は一瞬だけ乱歩さんがきちんと朝食を取るだろうか、と心配をしてしまった。













 どっちつかずの卑怯で臆病者を誰か罰してください。幸せを素直に受け入れる事も出来ずに、闇に立ち向かう度胸も無い、自殺もろくに出来ないこの私を罰してください。
 欲を云えば、その相手が乱歩さんであることを願って。






幸福証明に続く