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「必ずしも外に出なければならないわけじゃない、家で過ごすのだっていい。新しい本を買うのでも、絵を描くのでも、DVDでも借りて見るのでも」

 ええと、ええと。
 進む先なく意味をなさないわたしの言葉を、秀一さんがじっと待つ。今までも何度もあったことなのに、それがひどく落ち着かない。じわりと、汗が吹き出るのを感じる。

「……なければないで、それは構わんが」

 秀一さんは、新しくお肉を口に含むと、咀嚼の間、ほんの少し視線を外して黙り、それからフォークを置いて、またわたしの目を見て口を開いた。

「ありす」

 静かな声に、焦燥感は増した。
 低くて、独特の響きがある、優しい声。それで呼ばれることに確かに安堵を覚えたことがあったはずなのに、その声色で撫でられて穏やかになる心臓が、確かにあったはずなのに、今は逃げたくなるような気持ちすら湧く。
 あの日から、秀一さんはよくわたしの名前を呼ぶようになった。以前と比べて、明らかに意識的にそうしている。
 わたしにも察せられるほどのやり方をするということは、つまりわざとの振る舞いであって、“それ”をわたしに伝えるためにしているということに他ならない。
 わたしに、解らせようとしているのだ。
 変化を。
 変わろうとしていることを。
 変わってしまったことを。

「もっと我が儘を言ってもいいんだ。もちろん聞いてやれないこともある。それについてはちゃんと無理だと言うし、なぜ無理なのかの説明もしっかり納得できるようにする。きみからしてみれば、聞いてもらえないものはそもそも言うのも無駄だと感じるかもしれないが、そのやりとりすらないとその可否も――俺ときみとの間で、何をして良くて、何がだめなのかということすらはっきりしないし、お互いの考えが分からないままになってしまうだろう」

 秀一さんはテーブルに肘を付き、体をやや前のめらせた。おそらくそれも意図した所作で、わたしに分かりやすく示すためのポーズだ。ゆっくりと、まさに幼子にするような、諭すような語調も。

「俺はこの性分だし、まだどうにも不慣れだから、きみのような子の考えを分かってやるのが難しい。だが分かりたいという気持ちはある。だから、思っていることは口に出してくれないか」

 思っていること。
 そうして考えた途端湧き出て脳の中をぐるぐる這い回りだしたものを、抑えつけて仕舞うのに精一杯で、これまで言われたことを上手く噛み砕くことが出来ず、それを紛らわすための上手い言葉も何一つ思い浮かばなかった。

「あの……えと……」

 ぐちゃぐちゃとかき乱れる思考のなか、秀一さんが一番言いたかったことは別だろうということだけは分かりながらも、むしろそれが分かったからこそ、問いかけのうち、まだ触りやすい一部だけを抜き取った。

「……おさんぽ……」

 なにをしたいか。
 休日に、という、限定された期間の、ある程度制限のある状況下でのはなし。

「……そうか」

 必死に絞り出した、消え入るようなか細いものでも聞き取ってくれたらしい。秀一さんは短くそう言って、また眉を少し下げた。
 近頃よく見せる表情だ。きっとわたしが、うまく“こども”を出来ないたびに。

 心臓がぎゅっと締め付けられるような心地がする。
 ――どちらにしろ、たった一言、口にしてしまえばいいのに。そうしたほうがいいという正しい選択肢は、心のずっと内側、脳の奥底で、確かに持っているのに。
 どうしても掴むことが出来なくて、引き揚げられなくて、張り付いて取れなくて、喉を這い出て声になる前に霧散してしまうから。本当はその靄すら見せたくないから。
 いたたまれず目を逸らして、机の端に避けて置かれたぬいぐるみに手を伸ばした。誤魔化すように、柔らかな人工の毛を撫でる。縋り付いたって、その先は自分なのに。答えを出すのは他の何者でもないのに。

「じゃあ、そうしよう。……悪いな、冷めないうちに食べよう」

 声色は変わらず優しかった。落胆も悲哀も苛立ちも滲ませないのが尚の事それを際立たせた。

「……」

 ――ずるい、わるい子だ。おくびょうもの。

 大好きなはずのカレーの味が、薄ぼんやりとしてさっぱりわからなかった。


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