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哀さんが若干先導しながら、二人ともわたしの歩幅に合わせるようにしてゆっくりと歩き、優しく手を引いてくれる。おかげさまで、昨日のように急に走り出したりうっかり転けることはなさそうだ。 道沿いに並ぶ店を眺め回し、恐らくお目当てが近くにはなかったようで、哀さんはわたしに顔を向けた。 「昨日は何をしてたの?」 「えと、はい、らいん……?」 「ハイライン? あの上を歩くやつかしら?」 「う、うん。あるいて……かわみた」 海だと間違えたことはこっそり胸に仕舞っておこう。 「川ってーと、ハドソン川?」 不意に工藤さんがそう問いかけてくる。見上げて目を合わせて頷けば、工藤さんはほんの少しだけたじろぐような、落ち着かないような素振りをしてから、ぱっと表情を切り替えて、知ってるか、と続けた。 「あの川、昔飛行機が落ちたんだよ」 「えっ、ひ、ひこーき」 「鳥がぶつかってきてエンジンが止まったんだ」 「とり?」 「そう、それもハトみたいな小さなヤツじゃなくて、ありすちゃんと同じくらい、翼を広げたらそれよりももっと大きな鳥が、何匹も」 「わ……」 「飛行機ってすごく早く飛ぶだろ? その分小さな鳥でもぶつかるとドーンとくるんだよ」 また始まったわ、工藤くんのウンチク。 哀さんが小さな声で、やれやれといった感じに呟いた。それが聞こえているのかいないのか、工藤さんは気を悪くした様子もなく、わたしににやりとした笑みを向ける。 「飛行機の操縦士――運転手さんは、事故が起きても大丈夫なように練習してるんだけど、そもそも飛行機にはもし一つ壊れても大丈夫なようにエンジンが二つついてるし、両方同時に鳥がぶつかってきて止まるってーのがめったにないもんだから、そういうことは考えられてなかったわけだ」 「そ、それで、おちた……?」 「落ちた落ちた」 えらく軽く返されてしまった。南無三、と心中で掌を合わせようとしたところで、工藤さんが「でも」と明るい調子で言う。 「その運転手さんが、予備の電源を付けようとか、町に落ちたら大変だから川の方にいこうとか、降りるには飛行機をどう動かしたらいいかとか、降りた後みんな助かるにはどう逃げたらいいかなんてことを考えて、無事にお客さん全員の命を救ったんだ。死んだ人が一人もいないから、奇跡だと言われて、運転手さんは色んな表彰を受けて、ヒーローだって褒められたって話だ」 「す、すごい……!」 「だろ、運もあったかもしれねえけど、たった数分の間にそれだけのことやりきったんだからすげーよな。お客さん皆助けなきゃいけねえ、それが出来るのは自分だけだっていうプレッシャーはハンパじゃねーんだぜ」 「あら、それは経験者としての言葉?」 哀さんが揶揄するように声を上げる。 けいけんしゃ。この話の流れで言うと、“運転手さん”の経験のように聞こえるけれど。 「いや、まあ……」 驚いたことに、工藤さんはそれを否定しなかった。どこか苦味を含んだ濁すような口ぶりは、冗談でノッたという風じゃない。 「あ、あの、ひこーき、うんてん……できる?」 「あー、一応、セスナなら」 「ボーイングもね」 「えっ」 ぼ、ボーイングっていうと、中には二階建てとかもあるジャンボジェットなのではなかろーか。大型旅客機という区分になる気がするのだけれど、もしかして工藤さんはただの愛好家さんじゃなく職業パイロットなの? 年若そうに見えるのにひょっとすると秀一さんと同い年だったりするのかと慄いていたら、背後からフッと息を漏らす音が聞こえた。 「ボウヤもヒーローというわけだ」 振り返ってみると、両手をポケットに突っ込んだ秀一さんが、口角を上げて工藤さんを見ていた。その表情にも語調にも僅かにからかうような色が滲み出ていて、決して大きな変化でないとはいえ、少し驚いてしまう。 まるでジョディさんと相対してるときのような、いや、それとはまた違ったような、随分親しみ深く気安い感じである。 人間友達相手にはそれ以外と態度が変わるのは当たり前だけれども、なんとなく秀一さんもそうだとは思っていなかったのだ。相変わらずめちゃ失礼だなわたしは。 さておきからかわれた工藤さんはといえば、秀一さんを振り返って、何故かわたしを見て、それからまた秀一さんへ視線を戻すと、どことなくどぎまぎとして、すわりが悪そうな顔で空いた手をぷらぷらと振った。 「い、いえ、そんな、たまたまですよ……」 「あらどうしたの? 別にご謙遜なさらずとも、エアバスだって運もなしに着水してないわ。いつものように誇ってくださって結構よ」 「オメーまたそーいう――」 哀さんをジト目で睨んで何かを言いかけた工藤さんが、また秀一さんの方をちらりと伺って口を噤んだ。 その工藤さんの気を使うような振る舞いや敬語や、秀一さんがボウヤなんて呼び方をするところからして、同い年説はハズレのようである。先輩後輩の仲なのだろうか。 そんな工藤さんを見て、哀さんがくすりと笑った。それからわたしに肩を寄せて、囁くように言う。 「もっととんでもないのよ、この人」 呆れも含ませながらも、ほんのりと自慢げで楽しげなその表情は、あの同級生の男の子について語っていたときにも見られたものだ。 もしかしたら、工藤さんはその子のお兄さんなのかもしれない。そうなら年の離れた二人が親しそうなのにも頷ける。 けれど、哀さんと秀一さん、その二人と工藤さんの関係がいまいち分からない。難しい、と言っていた通り、わたしではさっぱり解けそうになかった。 |