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 いつものように五時ぴったり、とはいかないまでも、幾らか過ぎると、あちこちうろついていた秀一さんはデスクに戻ってきて、キャメルさんに先に帰るように促し、自分も帰り支度を始めた。
 軽くデスク周りを片付け、いくつかのファイルと一緒に絵本を紙袋に仕舞い、わたしをだっこして、エントランスの方へ向かう。
 そうしていくらか歩いたところで、赤井君、と呼び止める声が聞こえた。
 声の主はジェイムズさんだ。ジェイムズさんは振り返った秀一さんに手招きをして出口とは別方向の廊下へと導き、しばらく進んだ先、ある扉と扉の間ほどで足を止めた。わたしに一度にこりと笑顔を見せると、また秀一さんへと視線を戻し、真面目な顔で短く何かを言う。秀一さんは、ちらりと背後を伺ってからそれに頷きを返した。

「待っていろ。すぐ戻る」

 そう言ってわたしを床に下ろして、紙袋は手にしたまま、秀一さんはジェイムズさんとふたり、そばの扉の中へと消えていってしまった。どうやらわたしには聞かせられない話らしい。聞くも何も今さっきの通り、英語を使われたら分かりやすいシチュエーションで特徴的な単語がない限り短い言葉でもさっぱりなのだけれど。禁則事項です、じゃなかった、機密事項、ってやつなのだろーか。
 うーん、もしかしたら、ほんとは帰れないほど仕事があったとか。お役所みたいに毎日九時五時で働けるほうがおかしいのでは。国の違いもありそうだし、そもそもおまわりさんがどういう仕組で働いているのかも知らないのでそれもさっぱりだ。ハアーサッパリサッパリ。一体わたしは何なら分かるんだ……先生がじーゆーえぬでぃーっていうところで生まれたことくらいかな……こう、あの、体についているピラピラに書いてあったよ……。
 とりあえず、あまりひと気はないけれど邪魔にならないように壁に凭れ、先生のもふもふを堪能していたら、カツリという音とともに、視界の端に、秀一さんとはまた違う、大きくきれいな革靴が入り込んできて止まった。なんとなくふわりと、香水のような匂いが鼻を擽る。
 革靴はわたしのほうについと爪先を向けて、更に現れた別のもので姿が隠れた。足だ。スーツに包まれた太腿。

「こんにちは」

 降り掛かった声は、男の人のもの。先生を胸に抱いて見上げると、目の前で片膝をついてしゃがみこみ、柔らかく笑うお兄さんがいた。黒髪、色白で、少し眉が濃い、整った顔立ち。ラペルもネクタイも細いスーツをしゅっと着こなしているイケメンさんだ。
 たしか、ちょくちょく秀一さんのデスクに来ては、ファイルの受け渡しをしたり、何かの話をしている人である。

「こ、こにちは…」
「かわいいお嬢さんをほっぽいて、アカイはどこに行ったんだい?」
「あ、あの、おはなし……じぇい……たん」

 ふうん、とどことなくそっけない相槌を打って、お兄さんは、秀一さんたちが入っていった部屋の扉を見やった。

「さすが××××××××はお忙しいようだ」
「……?」

 流暢な発音が聞き取れずに瞬いたら、お兄さんはもう一度、ゆっくりと言ってくれた。し、しるばーぶれっと? 銀の……何?

「銀の銃弾だよ。知らないかな? 普通の武器では太刀打ちできない厄介な悪魔や魔女を撃ち殺せる、“とっておき”のことさ」

 聞いたことがあるようなないような。ヴァンパイアは燃やしたり杭を打ったりしないといけないっていうのと同じ話だろうか。正確なところはともかく、そういうデキる人的な呼び名なんだろう。ちょっとかっこいい。

「きみ、賢いね」

 中二心を擽られるなあなんて思っていたら、そう言って、お兄さんは背をより屈めてわたしの顔を覗き込んできた。

「本当のところどうなのかな、アカイはきみのお父さん?」
「ひゃっ?」

 予想外すぎる唐突な変化球に思わず変な声が出た。
 そういう冗談なのだろうかと思いきや、お兄さんはそんな気配も見せておらず、問いかける声も揶揄の類は一切混ざっていない。

「――きみの体には、“アカイ”の血が流れているのか?」

 すう、と、目を細めて、わたしを見る。
 瞼に隠れて、その青い瞳の輝きが幾分鈍ったようにも感じられた。
 ど、どうしていきなりそんなことを聞くんだろう。急に現れたわたしがそんなはずないというのは、秀一さんと付き合いが長そうなお兄さんこそ分かっていそうなのに。

「あ……」

 ふいに伸びてきた手を、反射的に避けてしまった。壁沿いにずりっと横にずれた瞬間、大きな手はすぐそばの宙を切り、綺麗なシャツの袖口で、洒落たカフスがきらりと光る。
 お兄さんは、困ったように眉を下げて小さく首を傾げた。

「……“それ”も親譲りかな?」

 お兄さんは少しだけ足を動かして、また真正面に来た。後ずさりたいけど背中は壁だ。
 ぐっと迫った端正な顔が、安心させるかのように、きれいな笑みを作る。声も柔らかく、目元も口元も緩んでいるけれど、目が。

「……あ、う……」

 め、目が、笑ってないです先生。


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