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豆の香ばしい香りがする。 秀一さんは、少し離れたテーブルに置かれた、既に誰かが淹れていたらしい中身の入ったコーヒーサーバーから遠慮なくじゃばっとマグに注いで、またこちらへ戻ってきた。 そのさまをぼけっと眺めていたら、視線がうるさかったのか、秀一さんが腰を下ろしたチェアを少し回してわたしの方を向いた。 「なんだ」 何見てんだよワレーッてな感じで見下ろしてくる顔は相変わらず怖い。 ……けれど、昨日一昨日くらいからどことなく、当社比一割くらいその瞳や声色は柔らかくなっている。どうやら、あまりにもわたしのビビリと泣き虫がひどいのでそういう風に意識してくれているようなのだ。 えーとえーととわたしが言葉を捻り出そうとするのを待つ姿も、はじめの頃に比べ幾分威圧感が少ない。 「……しゅーたん、コーヒーすき……?」 特に話したいことがあったわけではないけれどやっぱなーんもないとは言えずありがちな質問をすれば、秀一さんは一つ瞬いた。 「いや……飲みはするが、別段好きというほどでもない」 「いつも、のんでる…‥」 「多少頭が冴えるからな。考え事をするのには丁度いい」 実用的な面を見てのことだったらしい。なんとなくオトナの飲み物でかっこいい嗜好品程度のぼんやりした認識しかないわたしとは大違いである。 なるほどなーと頷いていたら、秀一さんがすっとマグを差し出してきた。 「飲んでみるか」 「えっ、えと……」 いいのかなーと伺えば、くっと口元に寄せられた。 こぼさないようにか、秀一さんは左手は取っ手を掴んだまま、もう片手で覆うように、マグを握るわたしの手に添えた。 「元々ある程度冷めているし、注ぎ足しだからそう熱くはないはずだ」 その言葉通り、うおっアツッとはならなかった。 けれど。 「……!」 ――うおっにがっ。 思わずペッペとしたくなる衝動を抑えるよう、ぎゅっと顔に力が入る。うぐっと唇を内側に少し巻き込みつつ引き結んで、頬の隅に避けていた飴ちゃんを急いで呼び戻し、大慌てで分泌した唾液と一緒に転がし、口直しという名のお掃除をする。わりと小さくなってしまっていていまいち味を上書きしてくれない。 必死にころころしていたら、ふっと、息を漏らす音が聞こえた。音の出処は秀一さんである。 わ、笑われた? 「いや、悪い。きみには気付けにしても向かんだろう。待っていろ、甘いのを作ってくるから」 少しだけ口元と目元を緩めたまま、秀一さんは飲んでいたぶんを机においてから、また立ち上がってあのテーブルまで向かっていき、もう一つマグを持ってきてくれた。なんとストロー付き。秀一さんのものより遥かに明度の高いそれは、シロップとミルクしこたま入れましたといった感じでとっても甘い。 「おいしい」 「そうか」 こんなにお子様舌だったかなあ。 風前の灯火であった飴ちゃんをがりがり噛んでから、秀一さん特製カフェオレをちゅるちゅる飲んでいたら、ふと入り口のほうが賑やかになった。 首を回してみてみたところ、どうやらジェイムズさんが来たらしい。フロアにいる人たちが次々何か楽しそうに声を掛けている。 ジェイムズさんはその人たちといくらか言葉を交わしたあと、ぱっとこちらを見て歩いてきた。秀一さんに用かと思ったらわたしの前でしゃがんだのでちょっとびっくり。 「やあ、ありす君」 「こ、こにちは……」 にこっと笑うと、ジェイムズさんはうさぎ先生と目を合わせるように更に屈んだ。 「先生、少し相談があるんだがね」 「えっ、は、はい。なんでしょ」 「誰とはいえないのだが、とある部下が、期限を過ぎても書類を提出してくれないんだ。まあ、正直に言ってしまえば私は構わんのだがね、それだと私より更に上の人たちがうるさいわけだ。これでも曲りなりに国の、司法省の捜査機関だから、まあ、規則やら手順やらが多いもので、そのあたりが煩雑で面倒なのもあるんだろう。しかしどうも一番の理由は、そのうるさい上の人のうちの一人が、今回の件であんまり役に立たない、というか、足を引っ張るような真似をしてだね、さほど難しくなかったはずの案件が拗れてしまって、尻拭いにてんてこ舞いだったものだから、それが気に食わないらしいんだ。つまり、いやな人との約束を守りたくないって言うわけだ。気持ちは分かるが約束は約束だから、いくらいじの悪くてろくでもない人にだってね、やっぱりやめたはいけないんじゃないかと。――先生はどうお考えですかな?」 何だかすごく普通に相談されてしまった。おまわりさんの世界にもいろいろあるんだなあ。でもそれ普通にそれなりの人や窓口にやったほうがいいと思うなあ。いやわたしなんかに言ってる時点でただの愚痴なんだろうけれども。偉い人は大変だ。 「え、えと……やくそく、やぶるのは……よ、よくないと、おもう……」 先生の脇を掴み、片手をぴょいぴょいしながら、ひとまず毒にも薬にもならない無難で一般的な回答をしてみる。ジェイムズさんはそんなものでも、なるほど、と感心したように頷いた。 直後、ぽんと、先生の頭の上にファイルが降ってきた。 それを持つ手から、腕へ体へと辿って目線を上へ移せば、先程よりも固く、機嫌が悪そうに渋い顔をした秀一さん。 「おや、いいのかね?」 「……別にくだらない意地の張り合いをしようというわけじゃありませんよ。生憎私は彼と違って童心なんて忘れてしまったもので。――“協力”の礼に、“完成度”の高い資料を用意して差し上げようと“調査”を重ねていたら、少々時間がかかってしまっただけです」 ジェイムズさんは、秀一さんの方を見上げ、まったくしょーがないなあみたいな、ちょっと呆れたような苦笑を零した。 「その“謝意”は、私からよく伝えておこう」 「ええ、頼みます」 もしやとある部下とは秀一さんのことだったのか。 ファイルがひょいと取り上げられてジェイムズさんの脇に収まり、代わりに先生のおでこには、さっきのお姉さんのものと違って落ち着いた柄で、ちょっぴり高そうな飴ちゃんがころんと乗っかった。 「どうもありがとう、先生」 なんとかオリジナルな気分。あとで大事に舐めよう。 それにしても、まさかジェイムズさんも備えがあるとは、もしかしたらえふびーあいでは常識なのかもしれない。これが一種の通貨だったり……はあるわけないか。 うーん幸せ飴ちゃんスパイラル。 |