30 |
「シューイチ、××××××!」 一通り終わってわたしを抱き上げた秀一さんに、すこし離れてわたしたちを見ていたクリスさんが、そう言って笑った。お姉さんの方も似たようなことを口にしている。 一体何なのだろうと見上げてみたら、秀一さんはちらっとだけわたしを見遣り「××××××」と返した。 眉根を寄せて、どことなく渋い表情だ。英語でするならわたしが関係ないことについてなのだろうか。 秀一さんはそれ以上続けることなく、お姉さんたちにくるりと背を向けて扉を開け、白衣のお兄さんがいる方へ戻ると、椅子に掛けていたレザージャケットを取り、お兄さんと一言二言言葉を交わして部屋を後にした。 行きよりやや早いペースで歩を進め、秀一さんが足を止めたのは握手会をしたフロアだ。 自己紹介をしてくれた人達はいくらか姿が見えなくなっていて、残った人は机についてパソコンを弄っていたり、数人で固まって何かを話していたり、棚の前でファイルとにらめっこをしたりしていた。 なんだか想像するおまわりさんとは違う。もっとこう、なんか殺伐とした空気の中、忙しなく人が行き交って、荒っぽい言葉が飛び交うとか、電話の音が鳴り響いてやまないとか、次々人が駆け込んでくるとか、フィギュアを組み立てたりギャルゲーをしたり……は違うか、ともかく、もっと庶民臭くて男臭い職場だと思っていた。 わりとシンプルですっきりした造りのフロアだし、狭苦しさや息詰まるような空気もなくて、女の人も結構いたのだ。お国柄なんだろうか。実は日本もそう? 秀一さんは、わたしを近くの席にあったキャスター付きの椅子に下ろすと、椅子ごと軽く寄せ、おそらく自分のものだろうデスクの前の椅子にジャケットを掛けてぼすんと座った。 「さっきのできみにやってもらうことは終わりだ。あとはこの建物にさえいれば何をしていてもいい。気になることがあれば言え。動く時には声をかけろ」 それだけ言うと、わたしに絵本を手渡し、くるりとデスクの方を向いてしまう。 パソコンを立ち上げて、デスクに積んであったファイルや書類をパラパラ見たり、画面と書類を見比べたり、何やらカチャカチャ入力したり。 その姿はまるきり普通の会社員のようである。いや、普通の会社員はニット帽なんて被って出勤しないだろうし、していても社内では脱ぐだろうけれど。 デスクの隅っこには、ジョディさんが胸につけていたような、“FBI”との文字がかかれたIDカードらしきものの入った紐付きのケースが、無造作に置かれていた。秀一さんもあれを首にかけることがあるんだろうか。 なんだかシュールな光景だ。 失礼な感想はそっと胸の内に仕舞っておいて、邪魔にならないよう大人しくしておくことにする。 手渡された絵本は、ポジティブ猫ちゃんシリーズの、まだ読んでないやつが何冊か。一番上は、今度は猫ちゃんが服を着ていて、そこからボタンがぴょーんと飛び出している表紙。 読まない分はお腹に沿うように立て、ちょっとすいませんね、なんて心で語りかけつつ、膝に寝っ転がったうさぎ先生の背にぽすっと乗せて絵本を開いた。 またよく知らない単語は出てくるものの、分かる単語と絵で読めそう。 ぱらぱらっと読んで、戻ってじっくり読み返して次の本へ、それを繰り返していたものの、そもそもページ数があまりないので、秀一さんの仕事が終わるまでは全然もたなかった。 本当に小さい頃は一日中でも好きなものを見つめていられたのに、これが大人になるっていうことなのか。大人らしさがあるかというと皆無だけれど。 絵本から顔を上げて、デスクのモニターを見てみると、画面には細かな英字がつらつら並んでいた。 「……」 「……」 秀一さんはちらりとこちらに目をやりはしたけれどそれだけで、何も言わずに視線を戻してしまう。み、見ててもいい……のかな。 「アカイ」 軽い足音を立てて近づいてきた黒髪のお兄さんが、持っていたファイルを秀一さんのデスクに乗せた。 「××××、×××××××××」 秀一さんは小さく手を挙げてそれに応えて、お兄さんの持ってきたファイルを開いて読み始める。中身は相変わらずわたしには到底読めなさそうな英字がたくさん印刷された紙だ。 それをぼけっと眺めていたら、秀一さんを挟んで向こう側に立っていたお兄さんがわたしを見て、ニコッと笑って手を振った。 「かわいいね」 うさぎ先生が? 猫ちゃんが? わ、わたしが? ちょっと面食らって固まってしまったけれど、お兄さんはその間もぴらぴらしていて、わたしが恐る恐る振り返すと、ウインクまで飛ばしてきた。 彫りが深くて整った顔立ちだからか、その仕草はとても自然な感じで、うっかりドキッとしてしまう。イケメンは何をやってもさまになるんだなあ。 思わずちょっぴり頬を緩めていたら、秀一さんが書類を読みながら、お兄さんにさっさと行けとでもいうように、しっしと手を動かした。犬猫を追い払うようなやつだ。 お兄さんはひょいっと肩を竦めて、やれやれ、みたいな感じで首を振り、踵を返して去っていった。 アメリカで間違ってないのかもしれない。ジェスチャーがとってもアメリカン。 |