29

 一度湧いた不安はなかなか去ってはくれないもので、振り払おうともしがみついてきては、ぐるぐると頭の中を巡る。そればかりに囚われて、他の機能が鈍く麻痺していくのを感じた。
 何かを聞かれているのだとは分かる。日本語なのに、その意味を上手く理解できない。
 繰り返されてなんとか聞き取れたのは、簡単なこと、知っていること。答えられるはず。早く答えなければ。
 そう思えば思うほど舌はもつれ、喉が乾いて張り付いて、何の言葉も出せない。ますます焦燥が募っていく。

 二人は困ったように顔を見合わせて、それから、クリスさんが席を立ち、部屋を出ていった。
 なんてことはない、入室する際にも響かせた扉の、その音にもびくついたわたしに、お姉さんが慰めるようなことを言う。それにもうまく返せない。

 少しして、もう一度扉が開いた。姿を見せたのは、秀一さんだ。ジャケットを脱いでシャツ姿になっている。
 秀一さんはわたしのほうへつかつかと歩み寄ってきて、目の前で膝をついて、わたしの肩にそっと触れた。

「ありす」

 低い声が、殊の外まろい響きを持っている気がして、どきりとした。
 そうして名前を呼ばれたのも、そんな声色を出されたのも、はじめてだったからだ。
 それまで忙しなく、まるで自分のものじゃないみたいに暴れていた心臓が、脈打ち方を変えた。
 ――その声色で、自分の名前を呼ばれたから。

「名前は言えたんだろう。上出来だ」

 突き刺さるほどまっすぐに瞳を見つめるのも、その眼差しが鋭いのも相変わらず。それでも、困惑と憐憫でいっぱいのものより、遥かに受けやすい視線に感じた。

「……でも」

 でも、ひとつだけじゃ不完全なのだ。
 ふたつ揃っていないと、“わたし”とは言えない。
 親からもらう、家族のしるし。帰る場所があるという証拠。拠り所となる大事なものなのに。

「分からんことばかりでもあるまい。――英語で美味しいはどう言う?」

 少しだけ考える素振りをして、秀一さんは急にそんなことを言った。

「……やみー……?」
「車の速さの単位は何だ?」
「え、えむぴーえいち」
「Mは?」
「まいる……」

 軽く頷いて、秀一さんはさらに続ける。

「newより新しいのは」
「ぶらんにゅー」
「水たまりは」
「ぱどー」
「mudは」
「どろ」
「猫の名前は」
「ぴーと」
「Perfect」

 頭の上に大きな手が乗る。何度かあった仕草だ。しかしこれまでと違って、わしゃわしゃとかき混ぜるように動く。

「いくつか分からないことがあるくらい大丈夫だ――とは、まあ、ものによるから一概には言えんが、少なくとも、全ての分からないことに、すぐさま向き合う必要はない。物事を知るのには、時や場所や人間や、時には突拍子もない何かも絡む。今やるべきことは、今やれることだけだ。不可能ならば取得しない、あるいは後回しにする、それは怠惰でなくタスク管理の一つであって、実情に即した判断というものだ」

 そこまで言って、一度瞬くと、秀一さんは小さく唸るような声を漏らした。

「あー、いや、つまり、きみは賢いし、“先生”も付いている。俺もジョディもいるし、なんならここの奴らも。――だからそんな顔をするな」

 そんな顔。
 一体どんな顔をしているんだろう、なんとなく情けないものではありそうだとは思うけれど、自分ではちゃんとは分からない。ともあれ秀一さんにそう言わせるほどみっともないらしい。
 やや固い手が、またくしゃくしゃと髪を撫でた。

「ピートの歌は歌えるか?」
「……う、うんと……あらま、わいしゅー」
「そう、上手だ」

 秀一さんの目元が、少し緩んだ。わたしに分かるほどだから、もしかしたらわざとそうしているのかもしれない。
 お返しに、へへ、と笑えば、秀一さんも口角を上げた。

 それから、秀一さんはあれこれとわたしに聞いたり、紙とペンを渡して線を書かせたり、その部屋にあった小さなプラスチックケースを弄らせたり、片足飛びをさせたり、軽く走らせたりもした。お姉さんたちがやる予定だったことを、代わりにしてくれたようである。
 答える度に褒めて、出来なくても頭を撫でて、転びかければ体を支えてくれるのは、必要なことを円滑に進めるためで、困った子どもへの対処法で、それが仕事としてやるべきことだからなんだろう。
 分かっていても、それをこの人がやっているんだと思うと……なんだかとても、嬉しかった。


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