09

 ぱちっと目が覚めた時、ジョディさんはベッドの端に座っていて、わたしが起きたことに気づくと「おはよう」と笑ってくれた。その顔にはバッチリと化粧が施されている。
 扉の向こうでは何か物音もしているから、わたしは真っ先に寝て一番遅く起きたらしい。社長出勤ならぬ社長起床。

「お、おはよう、……です」

 昨日から思っていたことだけれど、なんだか呂律が回らないというか、うまく言葉が出てこない。おはようございます寝坊してすみませんくらい言いたかったのだけれど、しょっぱいパチもん敬語になってしまった。
 ジョディさんはふわふわと額を撫でてくれて「目が覚めたかしら、もう眠くない?」と聞いてきた。
 それに頷いて体を起こしベッドの端へ移動して、こんどこそちゃんと着地するぞと足をその先へ出したところで、ジョディさんが立ち上がってわたしの両脇を掴み、ひょいと床に下ろしてくれた。
 もしや男の人からわたしの間抜けエピソードが流出したのか。やだ奥さんそれ個人情報ですよ。

 扉を開けて、というか開けてもらってリビングへ向かうと、ふわっと香ばしい香りが鼻を擽った。コーヒーだ。
 男の人はその匂いのもとを入れているらしいマグを持ち、ダイニングチェアに座っていた。
 もう片手に持っていたスマホからすっと目を離して、わたしのほうへ視線を飛ばしてくる。相変わらず鋭い目つきで、目の下の隈もティントみたいにしっかりついてる。やっぱりソファじゃぐっすり眠れなかったんだろうな。
 男の人は、なんだかこう、やけに目をしっかり見る人だ。元々怖い顔つきと目つきに加えてそれがあるから、やっぱりどうしてもどぎまぎしてしまう。思わず隠れるようにジョディさんの足へひっついてしまった。
 でもあの、悪い人じゃないし。危ないと言ってくれたし、ご飯をくれたし、ベッドを貸してくれたし、ジョディさんの好きな人だし。

「あの……お、おはよ、です」

 死ぬほど勇気を振り絞って言ってみれば、男の人は、ちょっぴり不安になってしまうくらいの間のあと、

「ああ、おはよう」

 と返してくれた。
 ちょっぴり、笑ったような、笑ってないような。
 多分この人の顔と表情をさほど見慣れているわけではないからというのもあるんだろうけれど、違いがいまいちはっきりしない。何を考えてるのか分からないとはジョディさんの言だが、その通りである。


 ジョディさんに抱えてもらって洗面台で顔を洗ったあと、またクッションと一緒にチェアに座らせてもらって、朝ごはんを食べた。
 コーンやトマトの入ったサラダと、くるみの入ったパン。それから牛乳。これも若干量が多くてお腹が十分目どころか一分二分越えてしまった気がする。

「×××××××××?」
「や、やみー……?」

 首を傾げて言われて、なんとか聞き取れたところをオウム返しにしたら、ジョディさんは嬉しそうにニコニコ笑った。
 おいしい、みたいな意味なのかもしれない。やみー。うん、やみーではあった。
 男の人は既に食べていたようで、その間、ベランダに出て煙草を吸いながらスマホをいじっていた。いつ見てもスマホといっしょだけど、もしかしてあの年で依存症なんだろうか。いやいくつか知らないけれど。

 軽く準備を整えて、というか、ジョディさんと男の人が整えるのを待って、促されるまま一日ぶりに外に出た。
 エレベーターを降りて、扉をくぐった先に広がっていたのは、やっぱり見慣れない景色だった。隙間なく立ち並ぶ建物はなんだかレトロな雰囲気にも感じるし、看板や標識や、通りがかりのトラックなんかに書かれているのは全部英字だ。道行く人の顔立ちも明らかに日本人と違う。
 ぽかんとしていたら、また脇を掴まれる感覚があって、足が地面からふわっと離れた。
 ジョディさんかなと思いきや、硬い胸に煙草の匂い、わたしを抱き上げたのは男の人だった。びっくり。

「……行くぞ」

 男の人は、そう言ってスタスタ歩き出した。ジョディさんが溜息を一つついてそれについてくる。
 ちょっと迷って、黒いジャケットの襟を摘んだけれど、怒られなかった。

 目線が高くなるともっと色んなものが見えた。ついついきょろきょろ首を動かしてしまう。
 外にテーブルとイスが並んでいるカフェみたいなところ、帽子やサングラスを売っている店、窓にイラストがプリントされたアイスクリーム屋さん、地面より半分掘り下げたところのドア、夜になったらピカピカ光りそうな飾り、上に看板を付けた黄色い車、ハシゴを乗せた大きなバン、ONLY BUSと書かれた赤い路面、丸くて今の私より大きそうなゴミ箱、よくわからない赤いポールのようなもの、釣り竿みたいに伸びる柱から吊るされた、黄色い縦並びの信号機。
 男の人は歩くのが早くて、あっという間に景色が変わっていって、道が広くなり、人が増えた。
 大きな道では車は右側を走っていた。それも日本とは違う。けれど、遠くにマックっぽい看板が見えて、ようやく見つけた馴染みのあるものにほんのすこしホッともした。あっというまに過ぎたけれど。
 それから男の人は、少し開けた、中央帯のような歩道のような場所に立つ古びた緑色の建物に入って、階段を降りていった。あ、これは分かる。地下鉄だ。


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