C-2

 部屋に入って扉を閉めたとき、赤井さんはちょうど目覚めたようだった。
 呼びかければ重たげな動作で体を起こし、ぼんやりとした様子でオレを見る。
 大丈夫かと聞けば、ゆっくり小さく頷いた。大丈夫じゃねーな。顔色はいつも以上に悪い。
 そばに近寄ると、ベッドサイドテーブルに置かれたPDAが目に入った。自然安室さんの言葉を思い出す。

「ねえ、赤井さん。このPDA誰の?」
「……彼女のだ」
「中見ていい?」

 こればっかりは断るかと思ったが、そういう素振りもなく、赤井さんはまた静かに頷いた。
 パーム社製の、少し古い時計型PDAだ。アドレス帳やToDoやメモ、それから時計、そんなもので、機能はそう多くない。その少ないアプリをそれぞれ開いていくが、どれもまっさらで、使用した形跡があるのはメモ機能のみだった。さして古くもない日付のもの一つだけ。中には十二桁の無意味に見える英数字の羅列があった。
 ――本当に無意味なのか?
 赤井さんは画面を覗き込もうともせずぼんやりしている。
 ――このPDAが“彼女”のものであるなら、同様に“彼女”が残したものの、足りない空白を埋めるピースじゃないのか。

「ねえ、“彼女”って? 名前は?」
「名前……」

 ふわりと復唱して、赤井さんは口を噤んだ。そろ、と視線を彷徨わせる。

「名前……彼女の――彼女……」

 ぽそりぽそりと漏らすところからして、教えたくないというわけではないだろうが、ふわふわしたそれはいつまで経っても着地する様子をみせない。目的地がわからないとでもいうようだ。次第に、わずかに眉を顰め、紡ぐべき答えを引き寄せられないことへの戸惑いと、焦りのようなものも滲ませはじめる。
 “忘れてるんだもんよ”
 耳の奥、脳裏であいつの言葉がリフレインして、ぞっとした。

「“彼女”が持ってたのは確かなんだね?」
「……南洋大学で……彼女に……」
「赤井さんが渡したの?」
「監視が、ついていた、から……」
「“彼女”に?」

 そういえばジェイムズさんは、赤井さんが日本に来たのは、恋人に灰原を組織から抜けさせてやってくれと頼まれたからだと言っていた。連絡を取るために渡したんだろうか――南洋大学で? 灰原は確かに、姉は南洋大学に通っていたと言っていたはずだ。そこに行ったのか、赤井さんも?
 低い声で告げられたそれが頭の片隅で沈んでいた記憶に触れ、付随する情報が気泡のように、次々と浮かんできては結合していく。
 よくよく見てみればPDAの接合部にはわずかに凹みがあり、何らかの手を加えられたような跡がある。これも赤井さんがやったのだろうか。

「でも、どうしてこれを安室さんが?」
「……どうして? ……どうしてだか……彼女はあそこで――なぜ? ……なぜ、どうして動いた、どうして引いた、おかしい、あんなに早く…………何が……」

 両掌に視線を落とした赤井さんが、ぼろぼろと繋がらない言葉を零していく。その手が本人の意志とは思えぬ動きで胸に向かう。
 瞳は昏さを増す。どろりと濁る。

「赤井さん!」

 びくりと固まったその隙に、手を取って握った。視界に入り込むように、下から覗き込むようにして目を見つめたが、その焦点はオレに合わない。

「ごめん、なんでもないんだ。別に大したことじゃないんだ。考えなくていいよ」
「……」
「聞いてるよね?」
「……ああ」
「赤井さん具合よくないみたい。もう少し休んで。横になって、目を瞑って」
「……ああ……」

 体を押しやれば、素直に言われた通りにして、赤井さんは瞼を下ろした。その首へ、いつものように針を打ち込んで、布団をかけてやる。
 少し眺めて悩んで、PDAはポケットに仕舞う。それから部屋を見回し、机の上にあった小箱に気づいて、机に寄り、椅子によじ登ってそれを取った。以前と同じ重さ。ダイヤルキーの数字も預かり、返した時と同じで、どうも開けた様子がない。置き方も放るようだったし、“大事なもの”を入れているとは思えない扱いだ。
 机にはノートパソコンもあった。不意に思い出したのは、南洋大学に通っていたという広田さんの友人宅で見た、可愛らしいちゃぶ台に置かれたノートパソコンと、その横で押し倒されていた化粧品たちだ。こぽりと、思考の海でまた一つ、気泡が姿を現す。向かう先は先程から身を膨らませているそこだ。
 流石にポケットに入らなかったが、その小さな箱を手に持ち、一度振り返って、しばらくの間、ベッドの上で静かに横たわっている持ち主が目覚めないのを確認してから、部屋を出た。
 前からまばらではあったけど、今回は随分早かった。またすぐ切れるかもしれない。


 ――苦しさにあえぐことに、限界がきているのか。
 いや――とうに来ていたのか。


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