B-10 |
『ハァイ、バーボン。いいえ――“降谷零”だったかしら?』 その女の電話などなくても、嫌な予感はしていた。 ボスを捕らえてから一ヶ月弱。それほど時が経ったわけじゃない。FBIでは一足先にアメリカへ戻った捜査官もいるというが、赤井は変わらず日本にいた。しかしあの夜の翌日には、飼い主や家主が引き止めるのも聞かず工藤邸から出てホテルに移ったのだそうだ。 彼は相変わらず僕の周囲を警戒しているそぶりでいたものの、姿を見せることは減り、その分何かを調べているようだった。ジンの生死か、あの女の逃亡先か。尋ねてはみたが、片付いたら教える、とだけ言って小さく笑ってみせた。 もう既に、違和感ばかりだったはずの振る舞いが当たり前になっていたのだ。コナン君を“ボウヤ”などと呼んだことはなかったという、その男について。 伏せてもどうせ察知するだろうと思って、女の誘いはすぐに告げた。 彼は現地で、と言い、僕とほぼ同刻に予定のベイエリアへとやって来た。その手にはライフル。深緑色のグリップにストック、バレルは鈍い黒、その上でおそらく暗視仕様であろうスコープが煌めいていた。待ち伏せするわけでもなければ、こんな開けた場所での立ち回りに向いている装備とは思えない。 僕の怪訝な視線を、赤井はさらりと流して、パンプスの音を響かせ現れた女へと意識を向けた。 女は、クリス・ヴィンヤードの時とは違う顔ではあったが、纏う空気はベルモットそのもの。その技術をもって随分快適な逃亡生活を送っていたらしい、綺麗な身なりで、美しい面貌に余裕のある笑みを湛えていた。 「やっぱり付いてきたの。懐かれたものね、バーボン」 「……そのようです」 「リプレイか」 「調べがついて?」 「わざとだろう」 「どうかしら――あなた、目覚めが不要なのではなく、恐ろしいのじゃない?」 「まさか」 赤井もベルモットも、人を置いてけぼりで進めていく。何の話だかわからないのにもどかしさもあり、少し腹も立つ。 「安心して。あなたの夢は壊さずにいてあげるから」 柔らかくそう言って口角を吊り、ベルモットが白く滑らかな手を肩ほどまであげる。 ――その瞬間、赤井の体が地面に転がった。 少し遅れて、破裂音がやや遠くから届く。 僕がうろたえる間に、赤井は何事もなかったかのように起き上がって、僕を片手で力一杯押し飛ばし、無用の装備だと思われたライフルを素早く構え、倉庫の屋根あたりへと照準を合わせると迷いなく引き金を切った。 もう一度、ダアン、と大きな音が反響とともに、殴りつけるかのような強さでもって頭蓋を揺さぶる。 それから赤井はライフルを未練もなく投げ捨て、さっと身を返して、今度は懐から出した拳銃でベルモットへ向かって発砲した。 スライドが後退しマズルを露出させる動きがやけに目につき網膜を焼いた。反動での跳ね上がりは鮮やかに次の狙いを定める動作の一部となり、彼の自動式拳銃は立て続けに二つの空薬莢を弾き出す。噴出されたガスの煙が風に攫われ霧散していく。 ニ発、彼の場合外したということはないだろう、的は足だ。白い手が地面についた。 「な……」 状況を把握したときには一連の出来事は全て終わっていて、尻餅をついた僕のすぐそばで、赤井が再び崩れ落ちるところだった。配置していた仲間たちが慌てて動く気配がある。 くすりと、ベルモットが小さく笑む。痛みに脂汗をかきながら、赤井が弾丸を差し向けた方を見つめて。 「あれじゃあ、割れちゃったわね、Calvados……」 そうして、僕にはより艶やかなものを向けた。何を思ったか、自分の持つ拳銃を放り投げてくる。 「見届けに来ただけなの。あとは大人しくしてるわ」 眼球は地面を滑るようにした鉄塊を追いかけ、自然、横たわる男の姿が視界に入る。組織から抜けたのは僕より早く、とうの昔だというのに、今日も真っ黒な恰好だ。センスがない。前の開いたジャケットから覗く黒いシャツが濡れている――。 ――その体は確かに、明らかに銃弾に貫かれていた。 「――」 身に受けたのはきっと、敵の居場所を知るためだ。 押し退けたのはきっと、ただ邪魔だったからだ。 そう――そうに違いない。そう思わなければ――。 「やはり、自己犠牲なんて、クソの役にも立たない……」 ぼやくような調子で発したつもりだろうが、歪み、掠れ、絞り出すような、聞くに耐えない声だ。あの下手くそな歌のほうが何倍もましなほど。 「そ……そう思うなら、次から、やらないことです」 想像以上に僕の声は震えていた。笑えてしまう。 返事はない。僕の方を向いているのに、ちらとも視線が噛み合わない。低く歪な音は続ける。 「愛なんて、ほんとうに、ろくなもんじゃない――」 なんだ、そんなもの、抱いていたというのか。よもや、この今? これまで、ここに倒れるまで? あるいはあの時? それは誰の言葉なんだ、お前はいま―― 問い詰めたかったが、到底答えられるような状態ではなさそうだ。 ひゅう、ひゅう、と、苦しげな音が纏わりつくよう耳に届く。ぷつぷつ、ごぽりと、体液が空気に絡んでいる。 四つん這いで近寄って、早く荒く上下する胸部に触れれば、べたりとして、掌は赤く染まった。 こいつにもこんな人間らしいものが流れていたのか、などというありがちな台詞が頭を過ったが、気づかぬ内に拵えてきた傷の手当をしてやったのは一度や二度じゃない。 しかしさすがにこれは大物すぎる、僕じゃ手に負えないぞバカ。よくもまあ藻掻かずに、のたうち回らずにいられる。いや、わからないなら、当然か。 彼はあっさりと目を閉じた。 いつもそうだ、そうして数十分か、数時間後にはぱちりと開ける。余韻も残さず、唐突に。 そう思っていたけれど。 ――それから彼が瞼を動かすことはなかった。 その身を焼かれ骨となるまで、一度も。 |