B-2

 記憶にある限り、起き上がるまでの時間はまちまち。だが急な時はときは浅い。
 扉を開けた先が真っ暗だったからまだかと思ったが、中に入って改めて目をやれば、男はベッドに片膝を立てて座り、じっと宙を見ていた。

「起きていたんですか」

 返事はない。
 そういうこともよくある男だったから気にせず、近寄ってベッド横のテーブルにトレイを置いて、ベッドの縁に座った。

「あなた――、いえ、赤井と呼ぶべきですかね」

 その言葉にのたりと僕の方を向き、男は静かに息を吸い、しばらくの間止めた。

「…………そうだ」

 吐き出すように紡がれたのは、どうにも張りのない声だ。
 僕の名は知っているかと問えば、降谷零、とぼそりと答えた。その声で紡がれるとなんだか奇妙な気分になる。
 仮にもFBI捜査官をやっていて、射撃だけでなくそれなりの能力は持つ男だ。不本意ながらも公安だということはとうの昔に教えていたし、その程度調べていることは想定内だけれど。

「ゴミ箱」
「……」
「食べ物を粗末にするのは感心しません。食べないなら食べないなりに、それこそ隣へ差し入れるだのとやればいいでしょう」
「…………人に、やれるものでは、なかった」
「多少は食べれる味だと聞いていたんですがね」
「……」
「ここでいいですか?」
「……」

 指し示したトレイの方を見ないので、立てた膝を押して伸ばし、その上に置いてやる。男――赤井は、黙ったまま、なおもぼんやりと僕の顔を見つめ続ける。
 子どもと戯れる真似まで出来るようになったのだし、“沖矢昴”の様子からしてももう少しマシだと思っていたが、むしろ纏う気はますます重くなっている。
 随分ひどい顔色、その目はどろりとしてまるで生気がない。とてもじゃないが、死の偽装をしてまで生き延び、子どもを守るため立ち回った男だとは思えない。

「赤井」

 呼びかけた瞬間きゅうと僕に焦点を合わせた瞳は、ゾッとするほどの、得体のしれない何かがあった。あの鈍い光すらもない。
 脊髄を凍らせるような、心臓を握られるようなそれを耐えて飲み込んでいる間に、彼はふいと視線を逸らし、また虚空へと戻してしまう。

「と――ともかく、食べてください」
「…………いらない」
「……は?」

 そんな返しがくるとは思ってもみなかった。
 なんだかんだといつも、“沖矢昴”のときだって、他人の――僕の作った食事を、味はわからずとも、いつも丁寧に食べていたから。
 表情豊かとは言い難いにしろ、彼なりに出来を褒めたり、飾り気少なくも礼を言ったりしていたから。

「せめて味噌汁だけでも――」
「いらない」

 差し出した椀に触れた彼の手は、押し返すというよりはただ遮るという風だったが、その行動が不測のもので取り落としてしまった。
 この邸のものだろう品のいい椀が、中身を撒きながらベッドを転がり、ことりと床に落ちる。
 ふわりと広がったのは味噌と出汁の匂い。散々試して無駄だった工夫だけれど、出汁をきかせたり風味を出したりと、あのころやったことは癖になっていて、だから尚更香った。

 さすがに嗅覚まで完全にないわけじゃない。彼にも分かったようで、小さくすまない、と謝ってくる。いいえ、と絞り出した自分の声が、殊の外震えていて驚く。
 彼は目を伏せ、やや前かがみになると、ひどく重そうに腕を持ち上げ胸元を抑えた。

「……わるい…………いらない、いらないんだ……」

 がり、がり、と毟るように指先を動かす。彼は僕なんて見ちゃいない。

 ――妙だ。
 もし僕がここへ来る前にもこんな状態だったのなら、あの少年はあの計画を決行しようなんて思わなかったはずだ。
 それなら彼をこうした要因は倒れる直前に襲ったことになる。二階から物音が響いた時、僕がやっていたことは――。
 立ち上がって部屋を見回すと、ベッド横のテーブルに置いたはずのPDAが机の上にあった。
 中身は一度確認している。ほとんど初期化されていたそこに入っていたデータといえば、暗号にも取れないただの乱雑な英数字の羅列……だったはずだが、何もなかった。消したのか。

「いらない、いらない……」

 隣には電源の落ちたノートパソコン。もはやこちらを意識していない彼に了承を得るのは困難だろうと勝手に立ち上げるが、こちらも初期化されている。パスワードなどはかけられていない。差してあったUSBのドライバを開こうとして現れたウインドウにあの十二桁を入力してみても弾かれてしまう。一体あれは何だったんだ。

「……おれはいらなかったんだ……」

 ――間違えた。
 配慮のつもりだったのだ。きっとこいつの心を少しでも洗ってくれるだろうと、少しでも解いてくれるだろうと、それからそのこころを落ち着ける時間も要るだろうと。
 置いていくんじゃなかった。PDAも、こいつも。


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