15

「それじゃあ、どうもお世話になりました」

 傷も治った、そろそろいいだろうとラムからの指示もあったという。引き上げるから、と説明に行けば、キルシュはこんな律儀なことをするのはバーボンくらいだと柔く笑った。世話になったのはこちらだ、とも。そんなことを言う人間こそ組織の内では稀だろう。
 見送りにと玄関の扉を開けてなおスウェットから出ているのは裸足だ。地震や火事でもない限り、彼があの靴箱に仕舞われたスニーカーを履く姿は拝めないんじゃなかろうか。
 彼はそのままぺたぺたとエレベーター前まで付いてきて、呼び出しのボタンを押すと体の正面を僕の方へ向け、ずっと入れっぱなしだった右手をポケットから引き出し、ぴらりと、摘んだそれを僕に差し出した。
 掌の上、風が吹けばあっという間に飛んでいくだろう軽さ。切り取られた小さなコピー用紙に、QRコードが印字されている。

「これ……」
「今日セキュリティを全部変えるんだ。きみに渡した分じゃ普通には入れなくなる。そっちに連絡をくれれば開ける」
「……来ても良いってことですか?」
「いつでも、とは言えないが、きみの気が向いた時に、都合が良ければ」

 持つものがなくなると、キルシュは右手を再びポケットに仕舞った。その仕草はあの憎たらしい男の癖でもあるが、彼がやると、そのまま歩いて転んだら受け身を取れないのではと多少不安になる程度だ。

「ここが使えない時は他も用意してやれる。塒以外に腰を下ろす場所があるのは悪いことじゃないだろう? テリトリーでは整理のつかないこともある。“使い分け”をしていれば特に」

 ライに“あいつ”、それ以前には本堂とかいう男、ここのところ立て続けにネズミが見つかって、ジンは組織内へ向ける視線を厳しくしているし、ボスも警戒を強めているという。
 おかげでバーボンとして振る舞わなければならない時間が増え、要求される成果や完成度も徐々に高くなっていっている。いくらそれだけの能力を擁しているとはいえ、それを適切に揮うには、体力的にも精神的にもエネルギーが必要で、消費した分の補填、休息による回復が不可欠だ。
 思考や感情の整理も、それに含まれる。そのための場があれば越したことはない。キルシュの言う通り――“使い分け”は、精神を摩耗させる。

「まあ、気が向けばの話だ」

 そう言って、キルシュは、エレベーターに乗り込んだ僕にひらひらと短く手を振ると、戸が閉まりきる前に踵を返して、名残も見せずさっと足を進めた。
 またあの仕事に戻るのだろう。近頃忙しなくしていたようだし、そうでなくとも何をするにしたって金がいるのは組織も変わらない。多数の構成員が携わり、幹部ですら手間や時間を割いて駆り出されているのが、資金調達関連の任務だ。体の大きなものほど動くことに、その身を維持するだけでも、小さなものよりずっとエネルギーを使う。金は集団を含めた社会的な生き物にとってなくてはならない動力の一つである。彼一人だけではないにしろ、血液のように止めどなく流れるそれを、透析よろしく使えるように調整し続けるのは容易ではあるまい。
 ――その流れを辿れば、どこかの地点で必ず、我々が求めるものに行き着く。
 胃、肺、脳、心臓――組織という生き物の重要な部位を、視界に捉え、知り、潜り込むことが出来る。
 彼が滞りなく仕事をしてくれれば、僕にとっても利となる。その為に手を貸し足や目になることも吝かでない。望ましいことであるとも言えた。




 情が気化し記憶が風化するのは殊の外早い。
 できればそう間を置かないうちに会って縁を繋げておきたいと思っていたが、タイミングや口実を吟味しているうちに、あっという間に日が経ってしまった。
 しかし、意外にも連絡は向こうから来た。時間を指定して、来れるか、との問い。イエスの返事をすれば、そっけない言葉とともに鍵が送られてきたのだ。

 SMSに記載された英数字の羅列を入力してエントランスで告げ、別に来たメールに添付されていたデータを弄ってアプリをインストールし、それを数カ所のリーダーに翳す。多少入るための手法は異なるものの、その先の景色は、僕が出ていった時と何ら変わりないものだった。当たり前だ。高層階にあるフロアを、こんな短期間で派手に改装出来るわけがない。
 ひと月ぶりに足を踏み入れた部屋で、いらっしゃい、と声を上げ迎えたのは、彼ではなかった。思わず驚いて目を見開いた僕に、含みのある笑みを飛ばしてきたのは、この部屋に不似合いな、プラチナブロンドの女だったのである。

「来たわね、バーボン。ちょっと遅いんじゃなくて?」

 ベルモット。ボスのお気に入りで、謎の多い女だ。行動を共にしたことは数度あれど、殆どが使いっぱしりのようなものばかりで、情報もあまりない。
 それが、バスローブを着て悠々とソファに腰掛け足を組んでいる。
 ――しかもキルシュが、その隣に座っていた。珍しく普通のシャツとスラックス姿で、うねった黒髪をほんの少し湿らせ、青白いとさえ言えそうだった肌を、僅かに血色よくして。
 格好もそうだが、キルシュが僕に向けてくる表情にも違和感がある。慣れが入り柔らかみが増していたものとは違い、どこか固く、距離を感じさせるものだ。

「この前の、板倉」

 キルシュが呟くような声を出す。折り曲げ立てた片膝に腕を乗せる、その動作は相変わらずだ。

「“勧誘”に行ったテキーラが追い払われてしまったらしい」

 テキーラといえば、確か交渉事をメインに行なっている構成員だ。強面で威圧感があるし、物怖じせずやや強引にでも事を進めるところのある男だから、気の弱い相手には有効だろうが、板倉のようなタイプには向かないだろう。

「だから、代わりを探してるのよ。あなた、そういう人材のあてはないかしら?」
「“ここに”――と言って、レヴェランスでもして差し上げればいいんですかね?」
「あら、私が求めているのは猫の手でもハウスキーパーでもなく、優秀なネゴシエイターよ」

 煽るように言い、わかりやすく見下す視線をくれるのはわざとなのだろう。安い挑発に乗るとは毛ほども思っていまい、どう躱すかを見たがっているのだ。自分は厚くベールを纏いながら、他人の内を暴こうとする、たちの悪い女。
 一言“お上品”な辞令でもくれてやるか。そう思って口を開いた瞬間、

「彼なら問題ない」

 と、キルシュが静かに零した。
 勝ち気な眉を跳ねさせ、口角を上げたベルモットが、彼へと視線を移す。

「へえ、買ってるのね」
「元々の能力もだし、こういうのは相性だ」
「そう」

 くすりと一つ笑ってソファから背を離すと、ベルモットはテーブルに置かれていたワインのボトルを掴み、中身を空いていたグラス二つに注いで、一方をキルシュに手渡した。

「これに見合うだけの仕事をさせてちょうだいね」

 それから彼女は、置き直したボトルの横、包装が解かれ蓋の空いた仕切り付きの箱から、並んでいたチョコらしきものを一つを摘んで、キルシュの唇に押し付ける。キルシュはやや呆気に取られながらも、抵抗なくそれを口に含んで咀嚼した。

「美味しいでしょ?」
「ん……ああ」

 ぎり、と。
 音が骨を伝い聞こえてようやく、自分が歯噛みしているという事実に気づいた。


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